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2009年4月2日木曜日

結婚する娘に


下の娘が結婚することになった。 
一つ違いの上の娘の先を越して結婚する、という。 何でも、自分で創って見ないと気が済まない子供だった。とんでもなく独創的な絵を描き、抽象的な詩を書き散らし、教えもしないのに できたものを見て針を使って 縫い物をしていた。4歳でバイオリンを始め 親より情感豊かな音色でバイオリンやチェロを弾く子になった。
子供のときから 動物のお医者さんになると宣言していて、言葉どうり獣医になった。

思い返してみると 忘れられぬエピソードがたくさんある。
カーリーヘアで 白い陶器のような肌をもった赤ちゃんだった。いつもベビーベットに2匹の猫と一緒に寝ていた。猫達は1年先に来ていた長女の登場で、赤ちゃんに慣れっこになっていたから 二人目の赤ちゃんも、おおらかに受け入れてくれた。この頃の写真を見ると 長女と二匹の猫と次女が4匹並んでスヤスヤと眠っている。みな同じ大きさなのがおもしろい。

仕事が好きで子育てに自信がない親だから、生後二ヶ月 まだ首がしっかり据わる前から 病院の保育室にあずけられた。父親が、沖縄に転勤になる3歳まで保育園育ち。積み木や 玩具を使った遊び、水遊びなどの遊び方から 離乳食を経て、食事が食べられるようになるまでと、おむつ離れもすべて保育園の保母さんから学んだ。
母親が勤める駒込病院の勤務が終わって、お迎えする3時からが、楽しかった。二人乗りの乳母車で 今日は駒込図書館、明日は森鴎外図書館、その次は田端図書館、と遊びに行き、もてるだけの本を借りてきては 夢中で読んできかせた。本が大好き。親の方が 子供の本の世界の深さと大きさに心を奪われていた。
座われるようになると、自転車の前と後ろに椅子をくくりつけ、前に長女、後ろに次女をのせて、どこにでも出かけていった。千駄木からは 東大の三四郎池、根津神社、後楽園、上野公園、不忍池など、みんな自分の家の庭のようなものだ。下町だからお祭りも多い。上野動物園では お弁当持参で一日中過ごした。東大の三四郎池で 釣りの真似事をし、ダンボールに載って 丘から芝生を滑り降りる、次から次へと 行動範囲が広がって 遊びも多様になっていった。

背丈が1メートルになると、後楽園のジェットコースターに乗れる。3人で一台の自転車で、後楽園まで遊びに行って 初めてジェットコースターに 乗った。娘は動き出したとたん 怖くなって「ママ下ろして、ここから出して」 と泣き叫ぶが もうレールの上、どうすることもできない。そのうち、ジェットコースターはビュンビュン走る。どうしているかと、そっと振り返って 娘の顔を見ると、泣きながら立って 両手をあげてギャーおもしろい、ギャーおもしろい と大声で叫んでいた。喜怒哀楽がことさら激しい。

3歳で沖縄。はじめは言葉が通じなくて 友人も知人もいないところで 本土から送られてくる「学研」だけが楽しみ、という時期もあったが、幼稚園が始まると 友達も一挙に増えた。お迎えで、赤いホンダに 沢山の幼稚園の友達を乗せて 坂道の多い首里のまちを走り回り 沢山ある急坂をスピードで きゃーきゃーいいながら下っては、おもしろがっていた。子供を宝として大切にする沖縄で人様の子供を連れて危険な遊びをするなんて ブレーキやハンドルを切り損ねていたら、、、と今考えるとゾッとする。

母親が所属する沖縄交響楽団のリハーサルは土曜の夜。練習をしている間中 毛布を床に敷いて 絵を描いたり本を読んで 静かに待っていてくれた。走り回りもせず、騒ぐこともなく 幼児が静かに何時間も待っているなど、驚異に値するが、大人たちが真剣に何かに打ち込んでいるのを見て、幼児なりに理解してくれたのだろう。

沖縄で我が家に来てくれた大型犬を連れて、フィリピンのレイテ島オルモックに引っ越しすることになった。何でもやることが早い。 文化生活に縁遠いフィリピンの田舎暮らしに少しでも潤いを、とエレクトーンを持ってきた。大人が 悠長に100ボルトから210ボルトに使えるトランスフォーマーを取り付けている間に、すばやく娘はエレクトーンをコンセントにつないで弾こうとした。あっという間だった。一瞬 娘の手が早かったために、エレクトーンは燃えて、だたの大型ごみと化した。

オルモックで、ある夜 酔っ払いがパパイヤの木をつたって 二階のバルコニーにまで侵入した。雇っていたガードマン兼運転手が寝込んでいるのをいいことに、娘達の眠る寝室とドア一つ隔てたバルコニーで 10人くらいの男達が調子にのって 酔って騒いでいる。枕の下に隠した拳銃を握り締めながら びっしょり汗をかき、朝までまんじりともしなかった。自衛のために拳銃を持つことは常識だったが使わずに済んで良かった。
フェスタで 市のホールで頼まれて 3人でバイオリンの合奏を披露したこともあった。モーツアルトのアイネクライネ ナハトムジーク。最初の一つの音を出したとたん ブラボーと ホールいっぱいの人たちの熱狂的な拍手の嵐。音楽好きなフィリピン人の姿を再認識した。

レイテ島からマニラに移って、インターナショナルスクールに 小学校、中学校、高校まで通う。勉強も スポーツも バレエも 楽器も よくできる娘だった。背が高く、行動力があり ものおじせずに意見をはっきり言う。どうしても目立つので 先生の好き嫌いも激しい。いじめられることも多かった。泣かされることも多かったが、泣いた分だけ 笑ったと思う。
たった13歳で 父親をなくして よく母娘で持ちこたえたと思う。親しい友人も頼れる親類や知り合いもない外国で 日本にいる家族からも、会社からも日本大使館などからも何の支援も慰めも励ましも、援助もない孤立無援の状態だった。しかし母娘私達3人の内部精神は、音楽に満ちた 充足して豊穣な世界にいた。

マニラを脱出してシドニーに落ち着き 獣医学部に入る。学部でも、地元の学生は自分の家がファームを持っていたり 親戚が農場を経営している人が多いから 実習するにも問題はない。何のコネクションもない娘は タスマニアに飛んでいって牛の世話をしたり、クイーンズランドまで運転していって、豚の世話をさせてもらったり、田舎のキャラバンキャンプのバスのなかで寝泊りをして、農場に通い乳牛のめんどうをみたりした。学生最後の年には カムデンの寮に泊り込んで実習をした。医学部よりも難関な学部をよく頑張り卒業した。

大学生になりたて、お酒を覚えたばかりの頃、同級生たちと飲みに行ってキングスクロスのドラッグデイラーで有名なステーキハウスのトイレの床でスヤスヤ眠っていた。人々がドラッグの売り買いで忙しいその女トイレに、意を決して男友達が連れ出しに入ってくれなかったら 今頃売り飛ばされて サルタンのハーレムに囲われていたかもしれない。

破れた手術着姿で帰ってきたのを洗濯して、気が付いた。どうしたのかと聞くと、中年のナースに嫌がらせをされて 手術後 メスで脅かしに切りつけられた、と言われて動転した。オージー社会で アジア人の若い女のドクターが 長年 安給料で働いてきたナース達に指示を与えて仕事をさせる。それが気にいらない中高年のナースが陰険で執拗なドクターいじめをする。醜い現実社会をこんな経験を通じて娘は知っていく。

タスマニアで実習中、後ろに重機具を載せたトラックを運転しなければならなかった。走っていて ハンドルの切り方が悪くて 重い後部を中心に車が大きくスピンを繰り返し ガードレールにぶつかって止まった。たまたま対向車がなかったために 大事故にならずに済んで命拾いした。 

道路を走っていて 右側を走っていた軍用トラックが突然ウィンカーも出さずにスピードを緩めることもなく右折したので、衝突。当然、娘の車のフロントはめちゃめちゃだ。生きていただけでもありがたい。娘に100%落ち度はない。しかし、軍のトラックから降りてきた4人の制服軍人は娘を取り囲んで 娘が悪いと言い立てた。警察が到着したが、現場調査もせずに警官までが娘が悪いという。体の小さな外国人の娘をひとり 脅かして黙らせれば この事故はなかったことになる。娘一人 泣き寝入りすればよいことだ。 しかし、娘はひとりで現場の写真をとり 4人の軍人と警官の脅しに負けず 保険会社に調査させた。娘が正しかったことが明確になり、相手の過失による事故だったことが 証明されるにまでに 半年あまり待たなければならなかった。

2008年のニューカッスルの大洪水では6人の死者を出した。死者が出たすぐそばを 娘は集中豪雨のなか 職場に向かっていた。職場には心臓手術をする犬が向かっているので どうしても来て欲しいと言われていた。道路は濁流の河となり 娘の運転する車も浮いて 水に流されそうになる。娘の運転する車が、車ごと流れて建物に激突したり、海まで流されたりせずに道路に留まり、命が助かったのは、たまたま運に恵まれたから、という理由に過ぎない。またもや命拾い。

彼女の部屋を掃除したことがある。多才な子供の頭の中というものは こんなものだろう、というような、カオスのジャングルだった。描きかけなのか 完成しているのかわからない抽象絵、編みかけの毛糸、縫い始めたばかりのパッチワークの小片、おびただしい数の書きかけの紙片、ベッドの下に1ヶ月前のカビの生えたピッザ、このごろ見ないと思っていた皿とフォーク、脱ぎ捨てたままのシャツ、洗濯機に入れるのを忘れてカビの生えた下着、数週間前夜食に渡した紙袋のままのカップケーキ、2ヶ月前にパーテイーに着ていったドレスもノートや本の下でぺっちゃんこ。洗濯機を3回 乾燥機を2回まわしても 片付け切れない服、服、服。ここで絨毯のシミについた青カビを蹴散らかしながら 娘は猛勉強し、遊びに行く支度をし、数々の芸術作品を紡ぎ出していたのか。 
3時間余りの大掃除の結果 眩暈と吐き気 足腰もヨロヨロになったが、達成感に酔ったのも、つかの間、にこやかに帰ってきた娘、数時間で彼女の部屋はもとのジャングルにもどっていた。

母娘3人のなかで この娘がいつも先陣を切る。何物にも 恐れない。新居を買うのも、新車を買うのも この娘が最初だ。車なんて古い車を安く買って 何とか乗りこなしていくものだと思っていたから、娘がピカピカの新車で帰ってきたときは、腰をぬかした。
ボーイフレンドと暮らし始めて 二人で家を買った。「落ち着ける自分の場所が欲しかったから」、という娘の言葉に胸がつまった。ああ、この子は 幼い時から東京、沖縄、レイテ、マニラ、オーストラリアと移ってきて どこにも自分の落ち着ける場所がなかった。いま、とうとう自分の力で自分の巣を作ろうとしているのか と思って 親のふがいなさと、まっすぐでなかった私達母娘の道のりを思って 胸にこみあげてくるものがある。

時計を止めて という歌があったが、二人の娘と ブランデンブルグ協奏曲やヴィバルデイのコンチェルトを、3人で弾いているとき、私は世界のどの親よりも幸せな親だと感じていた。そして時を止めて 永遠にそれを続けていたいと願った。 でも娘達は、彼女達が経済的に自立する ずっと前から精神的に自立していたのだ。結婚する事も、次女の一生にいくつかある区切りのひとつにすぎない。
親である以上 何歳になっても娘を心配するのをやめることはできない。これから先も 娘は、怒り泣き悦び笑い続ける。親はそれを見て死ぬまで、ハラハラするだろう。
娘の一生のひとつの区切りを前にして、私はこの娘をもって世界一幸せな母親だったと なんどでも断言できる。

この娘を育てることを 世界の誰よりも楽しんで喜んだ。
これほどの子育てという幸せを 娘にも味わってもらいたいと思う。 だから、結婚すると決めてくれて うれしい。
おめでとう。