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2009年2月3日火曜日

映画「グラン トリノ」




男が 多少の危険を伴うが、どうしてもやらなければならない と、いう仕事が出来たとき、何をしてから 出かけていくだろうか。

頑固一徹の老人 ウォルト コワルスキー(クリント イーストウッド)は 庭の芝を刈り、散髪屋に行き、風呂にゆっくりつかり、棺おけに入るときのために 背広をあつらえて 愛犬を隣に預けて、、、そして出かけていくのだ。

映画「グラン トリノ」を観た。良い映画だ。
クリント イーストウッド主演 監督の映画だ。今年になってから、この一ヶ月で、観た映画は11本。繰り返しみたいと思う映画はなかったが、この「グラン トリノ」は、別々の日に、3回観た。そして、同じところで 派手に笑い 同じところで、たっぷり泣いた。人のことをよくわかっていて、喜怒哀楽のつぼを心得ているイーストウッド監督にとって、観ている観客は 手のひらの上で 泣き笑いする たわいのない幼児のようなものだろう。
フィルムにまったく無駄がない。どの場面も、どんな会話も、ストーリーにとってなくてはならない必要最小限が 計算されつくしている。彼の制作する2時間のフィルムが洗練されているのは 無駄がそぎ落とされているからだ。

イーストウッドは 俳優として、私の子供の頃からのヒーローだ。日曜日の連続テレビ番組「ローハイド」ではハンサムなカウボーイ、「マカロニウェスタン」で暴れまくり、「ダーテイーハリー」で、銃を連射するキャラハン刑事だった。
監督としても、「ミステイックリバー」、「ミリオンダラーベイビー」でとても良い仕事をしている。

映画のストーリーは、
ウォルト コワルスキーは、若いときは コリアン戦争で出兵した退役軍人、デトロイトのフォード自動車を定年退職し、妻を失ったあとは、同じく年取った ゴールデンレトリバー犬と暮らしている。独立していった二人の息子達との関係は冷え切っている。家の修理をし、朝夕 家の前のカウチで新聞を読み、夕方には 通りをながめてビールを6本ほど、、。 3週間ごとに散髪に行き、昔からの床屋と悪態を付き合うのと、たまに古い友人達とパブで冗談を言い合う以外は 人々とのわずらわしい関わりを持たず、悠々自適の生活に満足している。

デトロイトも、この20年ほど 車の市場を日本車に奪われ、景気は後退するばかり、失業者があふれ、ギャングがはびこり、隣近所の人々はどこかに移っていって、気がついてみると ウォルトの家は、中国人の住宅ばかりに囲まれていた。前庭の手入れをしない となりの家の中国人家庭も、腹立たしいが、独居生活の父親の老人ホームの入居をすすめる息子も腹立たしい。

ある日 ガレージに賊が入り込み、ウォルトが大事にしている1972年フォード車グラントリノを盗まれそうになる。隣の家の 息子タオが、従兄弟のギャングに脅されて 忍び込んだのだった。もちろん、タオは失敗する。翌日、ギャングは タオにヤキをいれようと、連れて行こうとするが、母親やしっかりものの姉やおばあさんは、タオに しがみついて離さない。ギャング達が年寄りや女性に暴力をふるう様子を見て、ウォルトは黙っていられず 介入する。
それを契機に、ウォルトと隣近所のモン族の人々との 交流が始まる。

モン族は 中国、ラオス、タイ国境山岳地帯に住む少数民族で、政治的、宗教的に迫害され、このデトロイトに亡命してコミュニテイーを築いたのだった。人々は礼儀正しい よく互いに助け合う人々だったが、差別されている少数民族だけに アメリカ生まれの2世のなかには差別や失業から、ギャングが形成されて、人々は困り果てていたのだった。

隣の家は 高校生の姉とタオと、母親、おばあさんの一家だった。タオをギャングから 引き剥がしてくれたことで、モンの人々はウォルトが断っても断っても、恩人扱いして料理などを 届けてくる。姉のスウがしっかりしているのに、父親のいないタオは、内気で社会的訓練が全くできていないのを見て、ウォルトは タオを一人前の男にしてやらなければ、と思う。タオに隣近所の家の修理や 街路樹の手入れの仕方を教え、道具を与えて、大工仕事まで紹介してやる。

しかし、モンのギャングは、ウォルトが介入したことで、益々 タオ家族への嫌がらせも攻撃的になってくる。暴力がエスカレートしていった先には、、、。
というお話。

映画の内容は 差別社会、若者の暴力、銃所持、少数民族差別、失業などの社会問題を扱っていて 深刻だ。しかし、映画で、会話が 機知に富んで ユーモアたっぷりで笑わせてくれる。 まず、ウォルトの頑固親爺ぶりが、徹底している。終始、ウォルトの息使いが音になって 映像とともに流れるので、 若い女の子のヘソ出しファッションや、タオが失敗するごとに、ウォルトの深い深いため息が聞こえてきて、笑ってしまう。その効果で、観客はウォルトの眼で、映像を見ることができる。

妻が死ぬ前に ウォルトの心の支えになって欲しいと、言われていた牧師が、ウォルトを頻繁に訪ねてくる。ウォルトは それがわずらわしくてならない。 モンのギャングに襲われたウォルトは、牧師に、「どうして警察を呼ばないのか」と詰問されて、「コリア戦争では状況は一挙に悪くなったりする。殺される寸前に おまわり呼んで、来てくれるか?」とまじめな顔で言い返す。「牧師さんは 高い教養を持ちすぎて人生経験のない子供みたいなもんだ。そんなに人の生と死をわかりたかったら赤ん坊でも産んでみてくれ。」などとも。 また、「男なら、何をすべきか、神様が教えてくれなくたってわかってる。放っといてくれ。」と言う。 これが一番 彼が言いたかったことだ。

イタリア人床屋との悪態のつき合いもおかしい。
タオが 何か家の修理でも手伝いたいと家に来ると、ウオルタは、家の前の木を指して、実を取りにに来ている鳥の数を数えていろ、と命令しておいて、自分は ひょうひょうと横で、芝を刈り 庭を整備して草木に散水しているのも おかしい。タオが好意を持っている女の子に話しかける勇気がないのをウオルタが からかうシーンも笑える。このユーンという女の子の名前が ウオルタはどうしても覚えられなくて、最後までミャウミャウ(ねこの鳴き声)だ。

深刻な社会問題、出口のないアメリカの病巣を扱った映画なのに、不思議と明るい。 過酷な抑圧された少数民族で、自由のアメリカに亡命してきても 差別と暴力に蹂躙される若い人々の 押しつぶされそうな魂にもイーストウッド監督は、限りなくあたたかい目 をむけ 希望を指し示している。 観客は 映画を観て どんな暴力の嵐の中にあっても自分を失わないで生きたいと思うだろう。
何度みても、この映画 大泣きしてしまう。