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2009年2月28日土曜日

映画 「愛を読むひと」




映画「THE READER」、邦題「愛を読むひと」を観た。
ドイツの小説家、ベルナルド クリンク原作。
ステファン ダルトリー監督。
俳優:ケイト ウィンスレット:(ハンナ)    
   デビッド クロス:(15歳のマイケル)    
   ラルフ フィネズ:(マイケル)
ストーリーは
1958年 ベルリン。15歳のマイケルは学校の帰り 気分が悪くなってアパートの入り口で吐き気に襲われる。アパートに住む中年の女に介抱されて 家に帰ることが出来た。後で しょう紅熱にかかっていたことがわかる。数週間後、すっかり病気が治ったマイケルは花を買って、女のところに行く。女は路面電車の車掌だった。初めはマイケルを「KID」(坊や)と呼んで 相手にもしてくれなかったが きれい好きだが 無口で頑固な一人暮らしの女も、マイケルが何度も 訪ねてくるうちに心を開いて、笑顔を見せるようになっていく。やがて、二人は大きな年齢の隔たりにもかかわらず、恋に落ち、互いに愛し合うようになる。恋するマイケルは 有頂天になって、学校帰りに 女のところに寄らずには居られない。

女はハンナといった。自分の過去にはぴったり口を閉ざし、何も語ろうとしない秘密めいた女だった。いったんマイケルが文学好きで、朗読が上手だとわかると ハンナは毎日 マイケルに本を読んで欲しがって、語られる物語に夢中になった。ハンナに読んでやるために マイケルも、前にも増して勉強を熱心にするようになり、望まれるままギリシャ神話から ロマンス、「チャタレー夫人」や、コミックにいたるまで読んできかせた。そんな二人の関係は誰からも秘密の関係だった。 しかし、ある日、突然女はアパートを引き払い 姿を消す。マイケルは混乱し、絶望する。

マイケルは数年後、大学で法学を専攻している。ゼミナールの教授について法廷を傍聴することになった。そこで、マイケルは法廷の被告席にいるハンナを見出す。ハンナは42歳。ゲシュタポのもとでユダヤ人収容所の監守だったという。毎日、収容所からガス室に送る人の人選をしていたことと、教会に600人のユダヤ人を閉じ込めて火を放ち 死に追いやった罪で、収容所生存者の証言をもとに、元監守だった女達が裁かれているのだった。 中でも ハンナの発言が注目を集めていた。ハンナのまじめすぎる愚直は答え方が 郡を抜いて 目立っていたからだ。

ハンナは どうして収容所から収容者をガス室に送り込んだのか、と問われて、「毎日新しい収容者がどんどん送られてくるから 古い収容者は処分するしかないではないか。」と答え、「燃える教会から逃げようと収容者がドアに殺到しているのに どうして外から鍵をかけて皆を死に至らせたのか と問われて 「ドアを開ければ 人々が飛び出してきて収集がつかなくなるではないか。」 と答える。収容所の監守としての責任を全うすることしか考えられないハンナにとって 監守の義務が正しいことだったのかどうかを考える頭脳はない。教育のないハンナにとって 与えられた仕事は絶対服従であり、他の選択肢はない。 その結果何が起こったのかを、考える能力さえない。
 
他の被告達が全員、監守としての義務を果たしたのは、それをしなかったら自分が殺されていたから 仕方がなくてやったのだ、と、自己弁護する。自己保身も自己弁護もできないハンナは 被告席の中で 人々の憎しみを一身に背負うことになってしまう。そのうちに、仲間だったはずの被告達が一斉にハンナを指差して、この女が収容者をガス室に送り込んだ責任者だった、教会に火を放ったのもこの女だった、と言い出す。そこで、裁判長は、証拠品となった虐殺報告書を書いたのは、ハンナか、問い正す。法廷の衆人の注視のもとで、筆跡を確認するために、紙とペンを出されて、ハンナは言葉を失う。そして、虐殺報告書を書いたのは、「私です」と、ハンナは答える。そのために、ハンナは殺人罪に問われて 終身刑を言い渡される。

そして、このときになってマイケルは 初めて ハンナが文盲だったことに思い当たるのだ。15歳のときの二人の愛の日々、ハンナはいつも本を読んでもらいたがった。自分からは本を見ようともしなかった。カフェでメニューを渡されても 見ようともしなかった。マイケルは法を学ぶ学生でありながら 自分が愛したたった一人の女が 真実からかけ離れた誤認のために 人々の憎悪を一身に負って罰を受けていく姿を 黙って見ていることしか出来ない。 字を読むことも書くこともできない 貧しい境遇に育って、与えられた仕事だけを生真面目にやりとげてきた 無教養の女は、ゲシュタポを憎む人々の生贄にされてしまった。ハンナは自分を恥じるあまり 衆人の前で自分が文盲であることを さらけ出される屈辱に甘んじるよりは 終身刑を受けて自分の体面を保つことを選択したのだ。
15歳でハンナに出会ったマイケルはここで再び ハンナを失うことになった。

時がたち、マイケルは結婚し、娘ができて、離婚をし、弁護士になっている。誰にも心を閉じて 親しくなることができない。誰にも言うことの出来ない 抱えている秘密が重すぎたからだ。 一人きりになって マイケルはハンナのために 物語を読んでテープに吹き込んで獄中のハンナに送り始める。昔読み聞かせて、ハンナがお気に入りだったロマンスや物語を次々と吹き込んで送ってやる。ハンナは獄中でマイケルの なつかしい声を聴く。そして、、、 というお話。

この映画でケイト ウィンスレットはアカデミー主演女優賞を獲った。主演男優賞は 予想どうり「ミルク」のショーン ペン。
この「愛を読むひと」を観たあとは、ケイト ウィンスレットの相手役を演じた ラルフ フィネズと、デビット クロスの二人に主演男優賞をあげたい。そう思うほど 3人が3人とも 真迫の演技で印象深い映画になった。映画は映像の美しさ 音楽、そして演技がものいう総合芸術だが この映画では3人の役者の演技が特別光っている。15歳のマイケルをやった デビッド クロスがとてもせつなくて泣かせる。気の強い 強情で無学な女に振り回されながらも愛に満たされて 少年がひとりの大人になっていく姿を見ることが出来る。

そして、ラルフ フィネズ。この人の 深い深い悲しみをたたえた瞳がとても良い。適役だ。心の傷の痛みにじっと耐えながら 誰にも悲しみを打ち明けることなく一人きりで立っている。彼は「イングリッシュ ペイシャント」「ナイロビの蜂」(「コンスタントガーデアン)の主演をしたが 物静かで繊細、貴品があって優雅だ。役だけでなく、実際の人柄もそんな感じの人なのだろう。

ケイト ウィンスレットも、頑固で無知なドイツ女の役が適役だ。実に良い演技だった。死ぬまで、自分の姿が見えないままだ。無学であることは悲しい。ものの考え方を総合的に捉えることが出来ない。物事の善悪を判断することができない。間違っていたと、指摘されても どうして自分が間違っているのかわからない。そんな哀しい女を とても哀しく演じて涙をさそった。

2009年2月22日日曜日

オーストラリア チェンバーオーケストラ 定期公演




今年度初めての オーストラリア チェンバーオーケストラの定期公演を聴いた。

彼らは今年も年間7つの公演を行う。一つの公演を、シドニーではオペラハウスとエンジェルプレイス、ニューカッスル、キャンベラ、メルボルン、アデレード、パースなど各地を回りながら、多いときは14回演奏するから、年に100日近くを国内で公演している。
その上、毎年一カ月間 海外遠征をして外国の音楽家達と共演するので少なくとも、年の半分は 舞台の上で演奏していることになる。

彼らは演奏中 チェロ以外全員が練習時もリハーサル時も 立ちっぱなしの起立姿勢だ。毎日リハーサルで 団員の一人が間違えると、全員でまた初めから練習やり直しをして 繰り返し練習するのが 団長、リチャード トンゲテイのやり方だそうだが、いかに、プロと言えども団員の苦労が偲ばれる。 アシュケナージが今年主任指揮者になったシドニーシンフォニーでも、故岩城宏之が永久名誉指揮者だったメルボルンシンフォニーでも これほどプロとして厳しい鍛錬しているグループは他にないだろう。結婚して子供もできたのに 全く脂肪のつかない体、頬の肉などこそげ落ちたような厳しいトンゲテイの顔を見ていると 断食で悟りを開いた求道僧のように見えるときがある。そんな彼が 本当に美しい音楽を聞かせる。
定期公演では毎回ゲストがあって ゲストを囲んでチャンバーオーケストラ17人が一緒に演奏をする。
団長のリチャード トンゲテイが使っているのは 1743年 グルネリ デムゲス、セカンドバイオリンプリンシパルのヘレン ラズボーンが弾いているのが 1759年 JB ガダニー二、チェロのベッキオ バルグが弾いているのが 1729年ジョセッぺ グルネリだ。

コンサートプログラムは
1: オーストラリア現代音楽家、JAMES LEDGER のRESTLESS NIGHT

2: モーツアルト シンフォニー29番 モーツアルト18歳のときの作品。弦楽に4人のホーン、2人のバスーン、2人のオーボエが入る。当時の重い交響曲に比べて 斬新な手法でシンコペーションやテーマの繰り返しを歌うなど、若くて、新しくて驚きに満ちた交響曲。

3: 今回のゲストミュージシャン、ソプラノ歌手 ダウン アップショウの歌 。 オズワルド ゴリジョブ作曲のアルゼンチンの曲、べラ バルトク編曲のハンガリア民謡、リチャード ストラウス作曲のドイツ曲。どれも一定の型のあるクラシックといわれるジャンルの曲ではなくて、主にジプシーの悲しい曲だったが、難しい曲をとてもきれいな声で、情感たっぷりに歌っていた。

4: モーツアルト シンフォ二ア コンセルタンテ 作品364番。 バイオリンとビオラのための協奏曲。モーツアルト17歳のときの作品。そう、この曲を聴くために ここに来たのだった。2人のオーボエ、2人のホーン。ホーンは当時の古楽器を使っていた。

バイオリンソロは勿論 リチャード トンゲテイ、ビオラは クリストファ モーア。クリストファは このチャンバーに加わって3年くらいだと思う。若くて、フットボールで鍛えたような体格、モヒカン刈りのトサカを金色に染めて 後ろの長い髪を三つ編みしてたらしている、一見 暴走族、、、そんな彼が見かけによらずデリケートな優しい音を出す。 この曲は 好きな人が自分と同じように弦楽をやる人だったら死ぬまでに一度は その人と一緒に弾いてみたいと思うに違いない曲。オーケストラをバックに バイオリンがメロデイーを弾くと すかさず後からついてきたビオラがそれを繰り返し、またバイオリンが帰ってくると ビオラが対話する。異質な音が絡み合い 同調したり反発したり仲直りしながら共に歌い上げる美しい曲だ。二人が本当に息が合っていないといけない。トンゲテイとクリストファ モーアは親分と弟子の立場だが とてもうまくやっていた。

パールマン(バイオリン)と ズッカーマン(ビオラ)が この曲を弾いているビデオを アメリカ人の家で見せてもらったことがある。素晴らしかった。音が素晴らしいだけでなく、小児麻痺で足が不自由なパールマンのバイオリンをビオラと一緒に持ってきて 彼の椅子や楽譜を用意してやったり、音合わせをしながら冗談ばかり言って とびきり和やかな空気を作ってから 息のあった演奏を始めるズッカーマンの魅力に完全に まいってしまった。二人の組み合わせの良さが 曲の美しさを倍増する みごとな演奏だった。

アマチュアオーケストラでは いつもビオラ奏者が少なくて、仕方がないので バイオリン弾きが 嫌々ビオラに回されたりすることが多い。バイオリンの高い音に嫌気がさしてビオラに凝ったこともあるが、サウンドボックスが一回り大きくなっただけで、重くて 音の振動の幅がおおきくなる。顎の力で楽器を持ち上げている間 振動幅の大きな音が 顎を伝わって直接頭に響いてくるから 長い間演奏していると 頭が割れそうになって吐きそうになる。バイオリンだと何時間弾いていても疲れないのに、ビオラでは楽器が重くて 手を伸ばしきりなので 貧血を起こしそうになる。だからフルサイズのビオラを小さな女の人が弾いているのを観ると、無条件で尊敬してしまう。

それにしても こんなに美しい曲を17歳で作って、自分もビオラを演奏していたというモーツアルトと言う人は なんという素敵。誰がなんといってもモーツアルトがいちばん。なにがなんでも、モーツアルトが絶対、一等だ。 とても満足したコンサートだった。

2009年2月16日月曜日

映画「レボルーション ロード」


映画 「レボリューション ロード」(原題REVOLUTION ROAD)を観た。 原作 リチャード イエッツ。

監督:サム メンデス
俳優:ケイト ウィンスレット(エイプリル)                          レオナルド デ カプリォ(フランク)
これで、ケイト ウィンスレットは ゴールデングローブ主演女優賞を取った。受賞の挨拶で壇上から レオナルド デ カプリォに、13年間ずっーと愛してきたわ、と言って、投げキスを送り 彼からもキスを返されるという微笑ましいシーンがあった。 二人は 「タイタニック」から11年目のコンビ。「タイタニック」は空前のヒットで、ハリウッドに最大収益をもたらせたのに、何の賞をもらえなかった。ケイトは以降 5回も賞にノミネイトされながら これが初めての受賞となった。レオナルドも5回 主演男優賞にノミネイトされながら、いまだ、何の賞も受けていない。ユダヤ人が 力を持っているアカデミーなどの諸賞では、左翼的アイリッシュは不利なのかもしれない。

ストーリーは
1950年代のアメリカ コネチカット。 フランクとエイプリルは 誰もがうらやむ美男美女の若いカップル。自分達は 何にも縛られない 自由で他の人たちとは全然ちがう 特別なカップルだと思っていた。女優のエイプリルは 女優として努力すれば 何にでもなれる自信を持ち、フランクもエイプリルに自由にさせてやれる度量をもっていた。フランクは兵役をしていたとき、ヨーロッパの各地を巡ってきていて、アメリカ以外の国を知っていただけに 自分が 生きているという実感を得られる生き方を いつもしたいと思っている。 そして、自分もエイプリルも 普通とは違ういつも、時代を先取りした特別な存在だと思っていた。そんな二人に 将来に不安のかげりもなかった。

しかし、二人がレボリューション通りに、家を買ったとこから、事態は変わってくる。フランクは定職に就き 車で駅まで、駅からシテイーまでの長い通勤時間に耐えなければならず、エイプリルは 子供を産み、専業主婦になった。輝いていた将来は、色あせ、日々退屈で平凡な生活が繰り返される。エイプリルは子供の世話に明け暮れ、近所とのうわべだけのお付き合いに無駄な時間を費やさなければならない。

エイプリルは むかしフランクがパリの話をしたとき 眼を輝かせて夢のようなところだと言っていたことが忘れられない。現状を打開するために 自分がパリのアメリカ大使館ではたらけるように、準備を始める。今からでも遅くない。家族でパリに移住して再び新しい 既成に捉われない自由な生き方の挑戦したい、とエイプリルは言って、フランクを説得する。フランクも賛成して、仕事を辞めて家をたたんでパリに行く と、同僚や友人達に言っても、夢物語だと、笑われるだけだ。

そんなある日、フランクは職場の上司から 高級と高いポジションの提供を申し出られる。「男なら 一流のビジネスマンとして、男を上げろ」、とはっぱをかけられ、フランクは自分が本当になりたいのは そんな一流の男であって、パリで夢を追いかけるような男ではなかった、ということに気がつく。しかし、エイプリルはもう主婦から抜け出してパリに行くことしか 頭にない。どうやって、妻の決意を返させるか、、、。

彼らには 精神病を患っている数学者の友人がいる。意表をつくことを遠慮なく言うこの友人に エイプリルは好感を持っていた。しかし、ある日、この男にフランクの心の中を、すっかり暴かれてしまって フランクは怒りを爆発させて、、、。

というお話。
この夫婦の特異なところは 何でも言語化して表現し、とことん話し合うところだ。問題を二人でつきつめて、ここまで言うか? というくらい 互いの言葉で互いを裸にし合う。理屈っぽくて 言い合いが辛らつで 激しい。 普通の夫婦では、ここまでは言わない。言わないことが沈黙のルールだし、言っても仕方がない。所詮相手は他人で 言ったからといって 自分の思うようには 相手は変わってくれない。しかし、フランクとエイプリルはとことん言い争う。もう、、、だから、この映画 とても疲れる。夫婦喧嘩は犬も食わない というけれど、全く食えない。 でも、この夫婦が 必死で、まじめに生きていて まじめに互いに向き合っていることはよくわかる。互いに傷を深め合うところも。

1950年のアメリカ。まだ、大半の女性は 高校時代に結婚相手を決めていて、すこしでも、将来性のあるハズバンドを獲得することが一生で一番大事なことだった。結婚、専業主婦が当たり前の閉鎖社会。エイプリルはすこし、早く生まれすぎたのだ。女が 大手をふって外に出て 好きな相手と同棲したり別れたりできる時代が もう、目前に来ている。自立と解放のためのうめき声が この映画を観ていて聴こえてくる。

「タイタニック」から 11年ぶりのケイトとレオナルドの俳優としての 成長ぶりが よくわかる。また 作家、イエッツの好きな人、またこの時代の女性史や社会の変化に関心のある人にとっては、この映画も良い映画だ。これを観て 夫婦喧嘩に強くなるコツがわかるかもしれない。

2009年2月15日日曜日

映画「チェンジリング」


クリント イーストウッド監督による 映画「チェンジリング」(原題CHAGELING)を観た。140分。

主演アンジェリーナ ジョリー。これで彼女はゴールデングローブにも、アカデミー主演女優賞にもノミネイトされた。

ストーリーは
1928年のロスアンでルス。実際に起きた出来事を映画化したもの。 電報電話局で働く シングルマザーのクリステイン コリンズ(アンジェリーナ ジョリー)は 9歳の息子、ウオルターと二人暮し。ある日、いつもの帰りの電車を逃して 送れて家に帰ってみると 待っている筈の息子がいない。必死で探し回るが 見つからず 警察に失踪届けを出す。

失意の母親のところに 5ヶ月たって、ロスアンデルス警察署長(ジェフリー ドノバン)が、息子が見つかったと連絡してくる。警察と一緒に迎えに行ったクリステインの前に 現れたウオルター コリンズと名乗る子供は 息子ではない。警察に この子は自分の子供ではないと申し立てても 警察は この事件は解決したと宣言してクリステインの言い分を全く受け入れようとしない。 クリステインの息子ウオルターよりも3インチも背が低く 見覚えのない手術跡のある少年は 自分がウオルター コリンズだと名乗り、クリステインを混乱させる。

この頃 ロス警察の腐敗を告発してきた クリスチャン グループ(ジョン マルコビッチ)が 息子でない少年をクリステインに押し付けて 事件が解決したと 主張する警察に注目し クリスチャンの言い分に耳を傾ける。クリステインは この少年がウオルターではないという小学校の先生や小児科医の証言を取り、ロスアンでルス警察を告発しようとしたところで、警察の呼ばれ、そのまま精神病院に 強制入院させられ外部からの連絡を絶たれてしまう。クリステインを応援しようとした クリスチャン グループが必死で探しても、クリステインうを見つけることが出来ず、やっと彼女を見つけて救出くるころには 数週間もかかったのだった。 クリステインは精神病院に収容されている女性達が病人でもないのに ロス警察から目をつけられているというだけで、警察に収容するよりも簡単に強制入院というかたちで無法の征伐を受けさせられている現状を見て、自分が救出された後は ロス警察を告発する。これが契機に、精神病院は 開放される。

一方、ロスから 人里はなれた農家から おびただしい数の子供の人骨が出てきて、大量殺人事件が明らかになる。それで、沢山の子供の失踪事件をきちんと追求しなかった 警察の怠慢が人々から 糾弾されることになる。そして、逃亡から成功して生き残った子供の証言からわかったことは、、、。 というストーリー。

やはり、無駄のない映像、たるみも伸びもなく140分間、観客の退屈させずに一挙にみせる映画監督クリント イーストウッドの力に感銘を受ける。 アカデミー主演女優賞にノミネイトされたアンジェラ ジョリーの演技が とても良い。終始、彼女は息子以外 誰とも挨拶でも抱き合ったり キスしたりしない。握手さえしないで、誰の体とも触れ合わない。9歳の子供を持つ シングルマザーとはそういうものだと思う。やせて、清楚、きちんとした服装をしているが 地味で目立たない。 警察に精神病患者扱いされて、言い分を誰にも聞いてもらえない 一人で戦うしかない女。耳を傾け 力を貸しているジョン マルコビッチの救いの手を受けても、ひっそりとお礼を言って 一人帰ってくる。そんな かたくなな女の姿に共感を覚える。

1928年 こんな時代 シングルマザーで仕事を持ち続けるには、余程の覚悟が必要だったろう。女の真の強さをジョリーは とてもよく演じている。男よりも、女の人に人気のある女優だというのが 納得できる。 同じ頃に制作され発表された映画「グラントリノ」のようなユーモアとヒーローの大活躍はないが とてもよく完成された映画だ。80近い クリント イーストウッド、これからも、いくつも良い映画を作り続けて欲しい。

2009年2月12日木曜日

オペラーストラリア公演「魔笛」




今年度、前期のオペラオーストラリアの興行が始まった。

昨年のオペラの出し物が 押しなべて低予算興行で 印象に残るものがなかったので、嫌が上にも今年の出し物に 期待をつなぐ。もし、今年の興行も低調だったら、もうオペラオーストラリアとは おさらばだ。毎年10万円だして、自分の席を確保してきたが、団員達が努力しないのならば 観にいく意味がない。カラスとドミンゴのDVDを観ていた方が 余程気が利いている。

いつも、行く度に腹が立って叫びだしそうになるが シドニー名物のオペラハウスにはエレベーターもエスカレーターもない。長い階段を年寄り達が 死ぬ気になって手すりにつかまって上がっていかないと たどり着けない。非常識で、反社会的だ。

2千人収容の会場に 舞台装置を運ぶ為の 荷物用のリフトがあるきりだ。身体障害者や長い階段を歩けない年寄りは この貨物用のリフトで 会場に案内される。着いた先から、やはり、階段をいくつかは 登らなければならない。内部が全席 階段状になっているからだ。職員がいつも二人がかりで 車椅子の人を大汗かいて運び上げている。膝が悪く 喘息持ちの夫とオペラに行くたびに、これがもう夫にとって最後の機会かもしれない と思いながらゼイゼイ言いながら階段を登る夫を見ている。

モーツアルトのオペラ「魔笛」を観た。
2幕、2時間40分。3月19日まで。
ストーリーは、
見たこともない不思議な生き物達が生息する不思議な森で、王子タミーノは 道に迷って途方にくれている。突然、大蛇が現れて、気を失ったところを 「夜の女王の国」の3人の侍女に救われる。侍女たちは、美しい王子をみて、夜の女王を呼びに行く。タミーノが気がついてみると 横にパパゲーノがいて、大蛇が死んでいるので、彼が助けてくれたのだと思い、友達になる。パパゲーノは女王に献上する鳥を捕まえる為に森にきていたのだった。

そこに、3人の侍女が女王を連れて、やってくる。夜の女王は、娘のパミーナ姫が 「ザラストロの国」に誘拐されてしまったので、助けて欲しいと、懇願する。パミーナ姫の絵姿を見て、タミーノは一目で恋をする。そこで、タミーノとパパゲーノは、勇んで姫を救い出す為に ザラストロに向かう。

ザラストロの神殿に着いたタミーノは パミーナに出会って、二人は同時に恋に陥る。二人をみながらザラストロは、 悪いのは太陽をさえぎってこの世を闇で閉ざしている夜の女王だ、という。タミーノは パミーナにふさわしい王子かどうか ザラストロの与える試練の儀式を受けることになる。

庭にパミーナが眠っている。そこに奴隷頭のモノスタトスが来て タミーナを自分のものにしようとする。すんでのところで 夜の女王がやってきて、娘を救い、娘を連れ去ったザラストロに復讐する為に 剣を渡してザラストロを殺すように命令する。
言われたとおりに パミーナはザラストロの前に出るが 彼にこの国の神聖な殿堂で、復讐などという愚かな考えは なくすようにと言って、パミーナを諭す。

パミーナは 恋するタミーノに会いに行くが タミーノは沈黙の修行をしている最中で、パミーナが話しかけても返事もしてくれない。パミーナはそれを見て 彼が心変わりしたのだと思い込んで、母のくれた剣で自殺しようとする。そこを、3人の童子がかけより、パミーナをタミーノのところに連れて行く。タミーノは 今度は水の試練と火の試練を受けるところだった。パミーナは タミーノとともに、この試練をくぐりぬける。
ザラストラを裏切って夜の女王の僕となったモノスタトスが夜の女王とともにザラストラの神殿を襲撃してくる。しかし、ザラストラの光の強さに打ち負かされて 夜の女王は去っていく。ザラストラは太陽を讃え、タミーノとパミーナを祝福する。
というハッピーエンドのおはなし。

このオペラの見所は 極端な高音と極端な低音だ。
夜の女王のコロラトーラソプラノはオペラのなかでも最高音をコロコロと鈴がなるような豊かなソプラノで歌わなければならず 難曲中の難曲と言われている。 そして、その対極となるザラストロの最低音 バッソプロフォンドだ。彼の曲もこれ以上低い音を出すのは不可能、というような低音を王者の風格と威厳をもって歌う。 可憐な娘パミーナと、美少年タミーノをめぐって 夜の女王の狂わしいばかりの高音と ザラストロの落ち着き払った低音とが交差するところが オペラのおもしろさだ。 またパパゲーノのバリトンが このオペラの舞台回しの役割を果たしている。

夜の女王のコロラトーレ、パミーナ姫のソプラノ、タミーノ王子のテノール、ザラストラのバッソプロフォンド、モノスタトスのテノールがかもしだすハーモニーに対して、パパゲーノのバリトンが、全体を引き締めて、まとめていく形になる。 以上の重要登場人物以外に、3人の侍女、タミーノの道案内になる3人の童子(ボーイソプラノ)。パパゲーノの恋人パパゲーナ(ソプラノ)、3人の僧侶(テノールとバリトン)もなくてはならない役柄だが、その上のコーラス合唱隊も入る。登場人物が多く、オペラの中でも、ぜいたくな お金のかかる出し物だ。

この「魔笛」はモーツアルトが死ぬ前に 最後に完成させたオペラ。曲が いかにもモーツアルトらしく 格調高く美しい。迫り来る死の影に脅えながら 貧困の極にあったモーツアルトの どこにこれほど優美で美しい旋律が作曲できる力があったのか。あふれるほどの才能を持ちながら余りに若くして亡くなっていった天才モーツアルトの不遇な一生を思うと いつも泣きたくなる。

夜の女王を歌った エマ パーソンは ラリアのパース生まれ、28歳で、シドニーで大学を終えたあと、奨学金を得てドイツに留学して あちらで活躍していた人。このオペラが初の凱旋公演になる。コロラトーラを 難なく歌っていた。将来が楽しみだ。 3人の童子 ボーイソプラノは声量は ないが透明な美しい声を出していて、舞台に花を添えていた。

今回の出し物で、特筆すべきは 役者達の声の良さ、難曲を上手にクリアして美しく歌っていただけでなく、そろいもそろって美形だったことだ。タミーノとパミーナの若いカップルは、美男美女で、特にタミーノのテノールは高音がよく伸びて美形が美声で歌うオペラの良さを充分見せてくれた。 夜の女王も 今が花盛りの28歳の美女、ザラストロが2メートルの背丈、がっしりした美男で役柄と外形とがぴったり一致していた。 オペラは声だけでなく役者の素材も役者ぶりも 見ごたえがあるものでなければならない。 去年の「ラ ボエーム」は最低だった。主役の夢見がちな若き画家が、オールバックの髪、小太りの中年中国人のオッサンだった。それがブーツを履いていれば ゴム長履いた魚屋の親爺にしか見えない。声が良くて高い声が出るからといって オペラは舞台なのだから 演じてくれなければならないし、演じる前に外観もとても大切だ。天は二物を与えずというが、オペラをやる以上 外観も声も演技もすべてそろっていなければならない。

また、この幻想的な御伽噺の舞台を盛り上げたのは 「LEG ON THE WALL」だった。不思議な生き物、名の知れぬ動物達が動き回っている夜の森を この人たちが アクロバットで木に引っかかっている鳥になったり、ジャングルをうごめく動物になったりして神秘的な夜を演出していた。体の柔らかな人たちで、街の高層ビルをよじ登ったり 様々な新しい演劇の試みに挑戦している若い演劇グループだ。注目に値する演劇グループだ。今後も、オペラにこの人たちが出てくれたら 舞台が生き生きして楽しくなるだろう。

2009年2月11日水曜日

ブッシュ ファイヤー3


2月11日 朝7時現在、ビクトリア州のブッシュファイヤーによる死者:183人、全焼家屋 796。 50人余りが行方不明だが、避難する場がないため、行方不明者は、絶望と思われている。
7000人がいまだに避難しており、いまだ火は燃え続けている。 一方、ニューサウスウェルス州のブッシュファイヤーは 完全に鎮火した。

日本の国土の22倍の広大な土地を、日本の人口の6分の1の人々がヨーロッパから入植して 土地を開拓してきた。国土の80%は砂漠。 農地として開墾した土地も 強風で表土が奪われ、地下水の層が浅いため、塩の層が上がってきて、塩害による農地の砂漠化が進行している。 また、10年来の日照り、旱魃で牧草が消失、家畜農家の被害は広がるばかりだ。ラリアの国土は、急速に砂漠化が進行している。

一方、私達のまわりはこの土地従来の乾燥に強い木、ユーカリがどこにでも生えている。この木は脱皮することで大木になる。剥がれ落ちた幹は 下草や落ち葉と一緒に土を覆い隠す。またこの木は特有のガスを発生させて燃えやすく、いったん火が出ると、地面を覆っている下草とともに、一気に燃え上がる。私達は、自分たちのまわりに、弾薬庫を抱えているようなものだ。

ビクトリア州とニューサウスウェルス州で、ブッシュファイヤーが コントロール不可能な勢いで燃え上がった悪魔のような週末だった。  日曜、月曜と、被害地に留まって人々を励ましてきたケビン ラッド首相は、火曜日になって、会期中で予算編成期だった国会にもどってきて、家を失った人々には新しい家を、燃えた学校には新しい校舎を、消失したコミュニテイーは必ず、もとどうりに戻すまで援助をやめない、と約束した。

自然がいっぱいのラリア、世界遺産のグレイトバリアーリーフ、エアーズロック。そんな遠くに行かずとも、私達が住むシドニーやメルボルンのビジネス中心街から 15分車で走れば海があり、森があり、旅行者が絶えない。 しかし、この国の農業は塩害と旱魃で、苦しんでいる。おまけに何年かごとに繰り返す大規模なブッシュファイヤー。

この国土に未来はないのかもしれない。
他に希望のある土地が 地球上に残っているとすれば、だが。

2009年2月10日火曜日

ブッシュ ファイヤー2


2月10日 朝7時の時点で、ビクトリア州のブッシュファイヤーによる死者173人。
750家屋全焼、5000人が家を失った。
この週末に起きた山火事は オーストラリア史上 最大の自然災害となった。

日曜日から36時間の間に $20ミリオンの寄付金が集まり、6000人の献血が 集まった。消火作業のボランテイアは 何千人にも上る。

メルボルン北東部のキングスレイクでは、街そのものが消失した。死者のなかには、ブライアン ネイラーというニュースアナウンサーもいて、彼による 山火事のニュースをテレビで見た人も多いと言うのに、彼は仕事の後 家に帰って 家族と共に帰らぬ人となった。

最後まで自分の家を守ろうとして、消化作業をしていて、火がまわったときには 道路が倒れた大木で封鎖され 逃げられなかった人夫婦が 覚悟を決めて、家族に携帯電話で、さよならを言ってきた という話も。

着の身着のまま 逃げて 避難所で 残してきた馬や、犬を気使う人びと。財布も持たず、猫だけを連れて 家を後に避難した家族。

焼け爛れた牧場を、放心したように 歩き回る 羊や牛たち。 せっかく生き残ったのに、銃で安楽死させるのだそうだ。焼けた野原を歩き回り、足の裏に火傷を負っているので、そこから感染して 苦しむことになるので 先に楽にしてやるのだそうだ。

人々は喪に服している。

異常乾燥と40度を越える熱風と、放火犯の3つが、被害広げた。 助け合いが当たり前の健全な社会が わずかな異常者のために、破壊される。放火犯は 厳罰されるべきだが、多くの放火犯は 自分で気がついているかどうかわからないが、精神病者だ。小さいときから暴力が 日常だった生い立ちや、環境の劣悪が 精神病の引き金にもなる。一見 愉快犯といわれる犯罪も、犯罪がおかされる前に治療できていれば、未然に防げる場合もある。放火対策は、精神病対策として、きちんと社会で捉えられなければならない と思う。

今日は 雨だ。

2009年2月9日月曜日

オーストラリアのブッシュ ファイヤー


ビクトリア州も、ニューサウスウェルス州も燃えている。
たったこの1日半の、ブッシュファイヤーといわれる山火事で、今現在、わかっているだけでも死者108人。750軒の家が全焼。 車の中で亡くなっている人の数や、確認できた人だけで、死者108人のため、これから焼けた家の中で 発見される遺体の数を考えれば、死者は 170人を越えそうだと言う予想だ。

真夏のいま、40度を越える暑い日が続いていた。 風が強く、気温が高くなると、ラリアならどこにでも生息していて、青いガスを発酵するユーカリの木が 燃え始める。火は風に乗って、100メートルを 簡単に飛んでいって、飛び火する。車で避難しようとする人々を、火の通り道になった アスファルトの道路が あっという間に車ごと人々の命を奪っていく。

ビクトリア州ではメルボルン北部がいまだ30箇所で、燃え続けていて、ニューサウスウェルス州では セントラルコースト、南海岸地域46箇所で、火の勢いは衰えていない。

ニューサウスウェルス州の別々の場所で、34歳と、15歳の放火犯容疑者が逮捕された。 一人殺せば殺人、沢山殺せば英雄、全部殺せば神様だ、、、という言葉を 初めて聞いたのは チャップリン、二回目に聞いたのは ゴダールだった。君は神になりたかったのか?

たった1900万人の人口の国で、一日で108人死亡者が出るということが、どんなことなのか。

窓を開ければ、黒い燃え殻が風にのって部屋の中に入ってくる。家のずっと遠くでは、まだ燃えているのだろう。 どうぞ、死なないで、これ以上、死なないで、と祈ることしかできない。

2009年2月3日火曜日

映画「グラン トリノ」




男が 多少の危険を伴うが、どうしてもやらなければならない と、いう仕事が出来たとき、何をしてから 出かけていくだろうか。

頑固一徹の老人 ウォルト コワルスキー(クリント イーストウッド)は 庭の芝を刈り、散髪屋に行き、風呂にゆっくりつかり、棺おけに入るときのために 背広をあつらえて 愛犬を隣に預けて、、、そして出かけていくのだ。

映画「グラン トリノ」を観た。良い映画だ。
クリント イーストウッド主演 監督の映画だ。今年になってから、この一ヶ月で、観た映画は11本。繰り返しみたいと思う映画はなかったが、この「グラン トリノ」は、別々の日に、3回観た。そして、同じところで 派手に笑い 同じところで、たっぷり泣いた。人のことをよくわかっていて、喜怒哀楽のつぼを心得ているイーストウッド監督にとって、観ている観客は 手のひらの上で 泣き笑いする たわいのない幼児のようなものだろう。
フィルムにまったく無駄がない。どの場面も、どんな会話も、ストーリーにとってなくてはならない必要最小限が 計算されつくしている。彼の制作する2時間のフィルムが洗練されているのは 無駄がそぎ落とされているからだ。

イーストウッドは 俳優として、私の子供の頃からのヒーローだ。日曜日の連続テレビ番組「ローハイド」ではハンサムなカウボーイ、「マカロニウェスタン」で暴れまくり、「ダーテイーハリー」で、銃を連射するキャラハン刑事だった。
監督としても、「ミステイックリバー」、「ミリオンダラーベイビー」でとても良い仕事をしている。

映画のストーリーは、
ウォルト コワルスキーは、若いときは コリアン戦争で出兵した退役軍人、デトロイトのフォード自動車を定年退職し、妻を失ったあとは、同じく年取った ゴールデンレトリバー犬と暮らしている。独立していった二人の息子達との関係は冷え切っている。家の修理をし、朝夕 家の前のカウチで新聞を読み、夕方には 通りをながめてビールを6本ほど、、。 3週間ごとに散髪に行き、昔からの床屋と悪態を付き合うのと、たまに古い友人達とパブで冗談を言い合う以外は 人々とのわずらわしい関わりを持たず、悠々自適の生活に満足している。

デトロイトも、この20年ほど 車の市場を日本車に奪われ、景気は後退するばかり、失業者があふれ、ギャングがはびこり、隣近所の人々はどこかに移っていって、気がついてみると ウォルトの家は、中国人の住宅ばかりに囲まれていた。前庭の手入れをしない となりの家の中国人家庭も、腹立たしいが、独居生活の父親の老人ホームの入居をすすめる息子も腹立たしい。

ある日 ガレージに賊が入り込み、ウォルトが大事にしている1972年フォード車グラントリノを盗まれそうになる。隣の家の 息子タオが、従兄弟のギャングに脅されて 忍び込んだのだった。もちろん、タオは失敗する。翌日、ギャングは タオにヤキをいれようと、連れて行こうとするが、母親やしっかりものの姉やおばあさんは、タオに しがみついて離さない。ギャング達が年寄りや女性に暴力をふるう様子を見て、ウォルトは黙っていられず 介入する。
それを契機に、ウォルトと隣近所のモン族の人々との 交流が始まる。

モン族は 中国、ラオス、タイ国境山岳地帯に住む少数民族で、政治的、宗教的に迫害され、このデトロイトに亡命してコミュニテイーを築いたのだった。人々は礼儀正しい よく互いに助け合う人々だったが、差別されている少数民族だけに アメリカ生まれの2世のなかには差別や失業から、ギャングが形成されて、人々は困り果てていたのだった。

隣の家は 高校生の姉とタオと、母親、おばあさんの一家だった。タオをギャングから 引き剥がしてくれたことで、モンの人々はウォルトが断っても断っても、恩人扱いして料理などを 届けてくる。姉のスウがしっかりしているのに、父親のいないタオは、内気で社会的訓練が全くできていないのを見て、ウォルトは タオを一人前の男にしてやらなければ、と思う。タオに隣近所の家の修理や 街路樹の手入れの仕方を教え、道具を与えて、大工仕事まで紹介してやる。

しかし、モンのギャングは、ウォルトが介入したことで、益々 タオ家族への嫌がらせも攻撃的になってくる。暴力がエスカレートしていった先には、、、。
というお話。

映画の内容は 差別社会、若者の暴力、銃所持、少数民族差別、失業などの社会問題を扱っていて 深刻だ。しかし、映画で、会話が 機知に富んで ユーモアたっぷりで笑わせてくれる。 まず、ウォルトの頑固親爺ぶりが、徹底している。終始、ウォルトの息使いが音になって 映像とともに流れるので、 若い女の子のヘソ出しファッションや、タオが失敗するごとに、ウォルトの深い深いため息が聞こえてきて、笑ってしまう。その効果で、観客はウォルトの眼で、映像を見ることができる。

妻が死ぬ前に ウォルトの心の支えになって欲しいと、言われていた牧師が、ウォルトを頻繁に訪ねてくる。ウォルトは それがわずらわしくてならない。 モンのギャングに襲われたウォルトは、牧師に、「どうして警察を呼ばないのか」と詰問されて、「コリア戦争では状況は一挙に悪くなったりする。殺される寸前に おまわり呼んで、来てくれるか?」とまじめな顔で言い返す。「牧師さんは 高い教養を持ちすぎて人生経験のない子供みたいなもんだ。そんなに人の生と死をわかりたかったら赤ん坊でも産んでみてくれ。」などとも。 また、「男なら、何をすべきか、神様が教えてくれなくたってわかってる。放っといてくれ。」と言う。 これが一番 彼が言いたかったことだ。

イタリア人床屋との悪態のつき合いもおかしい。
タオが 何か家の修理でも手伝いたいと家に来ると、ウオルタは、家の前の木を指して、実を取りにに来ている鳥の数を数えていろ、と命令しておいて、自分は ひょうひょうと横で、芝を刈り 庭を整備して草木に散水しているのも おかしい。タオが好意を持っている女の子に話しかける勇気がないのをウオルタが からかうシーンも笑える。このユーンという女の子の名前が ウオルタはどうしても覚えられなくて、最後までミャウミャウ(ねこの鳴き声)だ。

深刻な社会問題、出口のないアメリカの病巣を扱った映画なのに、不思議と明るい。 過酷な抑圧された少数民族で、自由のアメリカに亡命してきても 差別と暴力に蹂躙される若い人々の 押しつぶされそうな魂にもイーストウッド監督は、限りなくあたたかい目 をむけ 希望を指し示している。 観客は 映画を観て どんな暴力の嵐の中にあっても自分を失わないで生きたいと思うだろう。
何度みても、この映画 大泣きしてしまう。