ページ

2008年10月31日金曜日

いよいよイタリア ベニス!







オーストリアのザウスブルグからべネト平原を抜けて 橋を渡ってやっと夕方になってからイタリア ベニスに入った。憧れのベネチアだ。
グルスコ(こんにちわ)とダンケシェーン(ありがとう)が、ボンジョールノとグラーチェに取って代わる。なりふりかまわずこれを連発する。

まずホテルコンチネンタルに。ベニス市内に車は入れない。重い私達のスーツケースはベニスの入り口 セントルチア駅でバスからボートタクシーに乗せられてホテルに先に運ばれていった。

事前にツアーダイレクターから クギを刺されていた。イタリアに外国人が望むようなホテルはない。イタリアで観光客に気に入ってもらいたいと思っているようなサービス業関係者など居たためしがない。出した料理が気に入らなければ食べなければ良い。外国人がお望みの物など出すつもりはない。子供じゃあるまいし10時以降にカプチーノなど飲む奴は馬鹿だ。お湯で薄めるようなアメリカンコーヒーなど作れない。飲みたければアメリカで飲んでくれ。というのがイタリア人だから、ホテルに入って、文句を言わないで、と。

人ごみを歩いて橋を渡りホテルに到着。娘とツインの部屋は小さいが別に文句を言うほどのことはない。ただ、バスルームに窓があり、レースのカーテンがあるだけで、向かいの建物の窓も開いている。夜暗くなってから どちらかのバスルームの明かりを点けると 中が丸見えになる。他の人は気にならないのだろうか。窓に大きなバスタオルをかけて、カバーして、やっと安心してお風呂につかる。

夕闇迫る外に出てみると、狭い路地の両側は宝石店、仮面専門店、ベネチアグラス専門店が並び、人々がぞろぞろ歩き回っている。ベネチアグラスでできたアクセサリーも パーテイーに使う華やかな仮面も、素晴らしい。全部持って帰りたい。

夕食はホテルのレストランで。ベランダから運河を通ってくる風が心地よい。イタリアのよく冷えた白ワインを早いピッチで飲みながらコース料理を。前菜にスパゲテイがでた、とても嬉しい。と思ったら、メインにチキン。イタリアに来てパスタとピザ以外のものを食べたくない。鶏肉に呪われているのか?と、思っていたら、勘違い。イタリアでも北イタリアの教養人は、パスタやピザのような南イタリアの貧乏人の食べ物は食べないのだそうだ。知らなかった。イタリアでは北と南とは まるで言葉も人種も違うのだから 食習慣が違うのは当然だ。ベニスは かつて完全に独立した共和国だった。商業都市として東西の貿易の要として富を謳歌した。ベニスとナポリなんかと一緒くたにしたら 叱られる。全然別の国として考えなければいけないのだ。

ベニスの2日目はサンマルコ広場までボートで行き、サンマルコ寺院を見学する。829年アレクサンドリアから持ってきた聖マルコの聖遺骸を祭った寺院。内部は床も壁も みごとなモザイクで埋め尽くされている。ベネチア共和国の富を象徴したような建物。とにかく大きい。カメラに収まりきらない。 寺院の前には 高さ96メートルの大鐘楼が立っている。
サンマルコ寺院のとなりがドウカーレ宮殿。共和国時代の総督の住居、政庁、裁判所だった。ここでも教会と権力者の住居は隣同士だ。白とピンクの大理石でできた建物。これも巨大な ゴシック様式の建物。内部は見られなかったが 2階3階の広間は16世紀の美術品で飾られ、世界最大の油絵テイントレットの「天国」や フレスコ天井画があるそうだ。

この宮殿の横からゴンドラに乗って運河から街を見物する。ドウカレ宮殿から運河を隔てた隣の建物は 昔 政治犯を収容した牢獄だ。かかっている橋の名は、ため息の橋。この橋を渡れば二度と外には戻れない囚人が ため息とともに振り返ったからだという。カサノバは収容されたが脱獄して、女泣かせを止めなかった。実在の人物だそうだが、晩年はどんな生活だったのだろう。映画「カサノバ」では、私の大好きな、オージー俳優で今年28歳で亡くなったヒース レジャーがカサノバの役をやった。彼が演じると女たらしも 全然いやらしくなくて、当時のベニスの貴族達の豪華な暮らしぶりや華美な服装が美しくて楽しい映画だった。 ゴンドラからその鉄格子や、ホテルダニエリのわきを通り、様々な建物を見る。こぎ手はしまのシャツにベレー帽のハンサムな青年、大きな櫂で小運河を自由に漕いでいく。でもカンツオーネを歌ってはくれない。

陸にあがって、地元のガイドについて 沢山の教会、沢山の像や家々、建物を見た。かつて政治を司っていた貴族達の家や貿易物資を保管する巨大な倉庫などを見た。人がやっと行き交うことが出来る狭い路地を通り抜けると 広場に必ず井戸がある。それを中心に人々の生活が広がっていった様子がわかって、興味深い。狭い路地にある小さな靴屋が手製の靴を作っているところを覗いたり、沢山の橋をわたり、そこを潜り抜けるゴンドラに乗った人々を冷やかしたりした。

ランチはスタンドカフェで、立ったままピザを温めてもらってコーヒーを飲む。見る物が多すぎて どんなに歩き回っても追いつかないのでとても座ってゆっくり何かを食べている余裕がない。15ユーロ。高い。3000円で立ち食いそばならぬ、立ち食いピザを食べたことになる。

朝から快晴、強い太陽の陽に照らされて早朝から歩き回っているので足の痛みもはんぱでないが、今日しかベニスに居られないと思えば、我慢も出来る。    その痛い足で、ガラスファクトリーに行く。せっかくベニスに来たのだ。どんなに高くても 一番気に入ったグラスを買おうと思っていた。一つ一つ 熱い炉で口で息を吹き込んで 手作りで作った本当のグラス、、、一生の宝になるだろう。職人が目の前でガラスの馬を作る。熱い竈から出したガラスの塊をちょっとペンチで引っ張ると馬の脚ができて、あっという間に完璧な馬の置物ができる。魔法を見ているようだ。ガラスの色付けは 紫はアメジスト、赤は本当の金を溶かして色付けするそうだ。赤に凝った金の飾り絵柄の入ったワイングラスをセットで買う。しっかりした足がついていて、ひとつでもとても重い。値段などひとつ200ドルでも300ドルでも どうでも良く、クレジットカードを渡して、シドニーまで送ってもらうように依頼する。本場に来て、作るところを見て本物を買ったという満足感で、充分だ。

夕方は、ボートで1時間 ブラノ島に行く。ボートと食事で65ユーロ。ブラノ島は それぞれの家が自分の色を持っていて、並んでいる家々が緑、ピンク、青、黄色、紫、というように どの家も同じ色はない。そんな家並みが御伽噺に出てくる家のようで 愉快で楽しい。レストランでワインを飲みながら、スズキのような白身の魚を食べる。エビフライ、イカフライ シーフードパスタも出てくる。満腹のおなかをかかえて、お土産屋を見て ボートでホテルに帰ると もうすっかり夜中で まわりの宝石店、仮面専門店などみんな店じまいしている。仮面を買って持って帰りたかったが、泣く泣くあきらめてベッドに入る。 

2008年10月30日木曜日

インスブルックとザウスブルグ







オーストリアのインスブルックは、街のどこを見ても 背景に雪山がある、素晴らしい街。 ホテルの窓から見える雪山と街の灯は、美しく、明け方、上ってくる太陽の光をあびた山々の輝き、そして光がさして来て徐々に街が目覚めていく様子が美しく いつまで見ていても見飽きない。 インスブルックを離れたくない。山のある光景が どんなに人の心に潤いと、落ち着きを与えてくれることか。オーストラリア大陸の平板な土地に暮らしていて、毎日の風景の中には山も、谷も、川も湖もない。窓を開けた時に 山が見えたらどんなに素晴らしいだろう。
しかし、旅は続く。 人は生まれるとき、場所も環境も、とりまく社会状況も 自分で選ぶことは出来ない。生きていくうちにそれを変える事はできる。しかし、全部はとても変えられない。部分だけだ。

インスブルックでは、過去2回、冬季オリンピックが開催されている。街から山に残されたスキージャンプ台が見えて、木々を伐採して作られた周囲が無残だ。地元の人がスキーを楽しむのはさぞ楽しいだろう。しかし国際試合のために山を切り刻み、ジャンプ台など作って自然を破壊した残骸を 雪のない時期に見るのは悲しい。
ジャンプ台の真下に ウィルテン バジリカ(WILTENER BASILLICA)という、ロココ調の教会がある。外側は普通の教会だが、内部が素晴らしい。白と金色に輝く装飾で 祭壇は目の覚めるよう。丸天井はカラフルな絵、壁の一つ一つが入念にデコレイトされていて無数の絵と彫刻で埋められており、芸術の極致。山に囲まれた美しい街に住む人々の心の豊かさを示すような 美しい教会だ。

この美しいインスブルックに2,3年 暮らしてみたい気持ちを残したまま、バスはザウスブルグに向かう。 毎年、ザウスブルグ音楽会が開かれる モーツアルトの生誕の地。強力な大司教が支配してきた歴史から、イタリアとの結びつきが強く、荘厳な寺院やイタリア風建築物が多数ある。 モーツアルトの生家を訪ねる。
何年もヴァイオリンを弾いて来て、好きな作曲家は、と聞かれると、いつも躊躇なくモーツアルト、と答えてきた。いつも良い演奏家によるモーツアルトの曲を聴くと 貧困のどん底にあって、これほど美しい曲を 自分の命を削って つむぎ出したモーツアルトの短い一生を思って泣きたくなる。モーツアルトが大好きだ。彼が生まれたアパートを見上げ、狭い階段を4階まで登る。 入場料6,50ユーロ。

意外なことに 家の中を見て回ったが、あまり感動もしなかったし、インスピレーションも受けなかった。人が多すぎる。部屋の一部がお土産屋になっていて、彼の顔写真つきのチョコレート、彼の顔のボールペン、彼の鉛筆立てを ぶったくりというような値段で売っている。通俗すぎる。彼が生まれた部屋に、ベビーベッドがあって、中に人形が寝ているのは 気持ちが悪い。悪趣味だ。 それでも、木の床をミシミシ踏みしめながら、当時、この家の人々が寒さを凌いだ 陶器製のヒーターに触れ、天井の低さを感じ、窓から乾いた空気を胸いっぱい吸ってきた。

ザウスブルグに来て、サウンドオブミュージックが好きな人は、ここでトラップ一家のあとをたどり、マリアが居たノンベルグ修道院や、家族が隠れていたザンクペーター教会や、一家が音楽祭でエイデルワイスを歌った野外劇場などを 見て回るツアーに行く。けれど、わたしは無視。限られた時間に何もかも見ることは出来ない。

街からバスで、私と娘は ヒットラーのイーグルネストを見にいった。1834メートルの山の頂上にヒットラーのために建てられた山荘、イーグルネストがある。ヒットラーを現人神として熱狂崇拝していた マーチン ボーマンがヒットラーの50歳の誕生日にプレゼントした山荘だ。山荘に通じるふもとにはヒットラーの私邸や、2000人のSS 親衛隊の住居があったそうだ。
現在はオーストリア政府観光局のものになっていて、5月末から10月までの夏の間 山道を往復する特殊なバスで、アクセスできるようになっている。バスの終点から歩いて124メートルのトンネルを通り抜け、124メートルの高さのエレベーターで 頂上の山荘に行く。

硬い石灰石でできた山を切り開き、いくつものトンネルを掘り、資材を運び、山の中央を掘りだし ぶち抜いて山頂に至るエレベーターを作った。この無謀な建設には 当時ドイツの最新の技術が使われたという。 124Mのトンネルの頑強、堅固な姿はあきれるばかり。そしてエレベーターは、天井も壁も、床も金色に輝く箱で、その豪華なこと。今まで見たこともない立派なエレベーターだ。ヒットラー50歳の誕生日に最大最高の贈り物をしたかった信奉者の狂気が充分うかがえる。 山荘には大きな暖炉のある大広間、ヒットラーの部屋、秘書で死ぬ前に彼の妻となった エバ ブラウンの部屋などがある。今はレストランとして観光客に利用されている。山荘から頂上までは50メートルくらいの きつい登りで山頂に立つことができる。素晴らしい眺め。紅葉で山々が色とりどり。とても寒い。山荘に戻って ランチ代わりに アップルケーキとコーヒーをいただく。12ユーロ。

夜は街に下りてきて、デイナーは カステラー二 パークホテルで またチキン、、、泣けてくる。ホテルの部屋に戻ると 部屋の気温が29度もあって、暑くて寝られない。娘がレセプションに電話でエアコンを入れるように頼むと 「今は秋だから エアコンはない。暑いなら窓を開けてください。」と言われる。これには笑った。それからは、しばらくの間 「今は秋だから」を連発して娘と笑うことになる。外は寒いのに部屋の気温が29度なのも、暑くて眠れないのも、携帯電話が何故か使えないのも、ホテルにコンピューターがないのも、寝坊して朝食をかきこむことになったのも、みんなみんな秋だから、、、というわけだ。  

写真1は モーツアルトの生家
写真2は ヒットラーのイーグルネスト
写真3は インスブルックの教会

2008年10月29日水曜日

ミュンヘンとインスブルック







ドイツ ラインランドから バスでミュンヘンに立ち寄る。

街の中心、マリエン広場の市庁舎に、ドイツ最大の仕掛け時計:グロッケンスパイルがある。1568年のバイエルン大公ヴィルヘルム5世と、ローレン皇女レナータの結婚式の様子を再現したもの。32体の等身大の人形が この地方の踊りや 騎士の馬上の試合などを舞う。これを見るために、午前11時と12時に、市庁舎前は人々で埋まる。是非 見たいと思っていたが、来る途中の道路が混雑していて、着いたのが12時半、みごとに見逃した。残念でならない。

ミュンへンは バイエルン国立オペラ劇場も有名。ここでルードヴィッヒ2世が ワーグナーのオペラ「ローウェングリーン」を観て感動してその後 生涯 ワーグナーのパトロンを勤めた。王家専用席のある 格調ある 歴史的なオペラハウスだ。ウィーンでウィーン交響楽団の新年コンサートを聴き、ミュンヘンでシュトラウスのオペラ「こうもり」を観たらば、もう完璧、これ以上のお正月はありえない。

今回はミュンヘンの仕掛け時計は見逃し、オペラハウスはバスで通過するだけ。ふてくされて、すし屋へ。しかし、こ、、、これは 何ですか。春巻きの干からびたもの、かっぱ巻き、死んだ魚としか形容できないような刺身が、プラスチックの皿に乗って回っている。中国人の怖い化粧をした女の子が 乱暴にお茶をドンと置いていく。これは危ない。かっぱ巻きだけを 何皿も食べて、15ユーロ払って出る。銀座老舗のすし屋並みの料金を取って、小学生が 海苔巻き作りに挑戦してみましたー、というような 海苔巻き失敗作を食わされた。

再びバスで一路 オーストリアのインスブルックに向かう。バスから眺めるドイツの石作りの家々が オーストリア領に入ると 木造の家に変わってくる。緑が一層 濃くなり 紅葉した木々も見えてくる。そうだ。秋たけなわなのだ。春になったばかりのシドニーから来た。オーストリアで日本のような鮮やかな紅葉が見られるなんて、なんという贅沢。スズカケの木、プラタナス、カエデの緑、黄、紅が調和して美しい。国境を越えても オーストリアは同じドイツ語の国だ。グーテンモルゲンや、グーテンタークでなく、朝でも夜でも使える挨拶言葉「グルスコ」と、ダンケシェーン(ありがとう)を、連発する。

インスブルックは、世界で一番美しい街。小さな街の四方を雪を抱いたチロルの山々が取り囲んでいる。街のどこで写真を撮っても バックに雪山が写る。聞くと 2日前に冷え込んで新雪が降ったばかりだという。雪山と紅葉した低い山々が重なり合って それが街のどこからでも見えて、手が届きそうだ。 街の中心にあるスワロスキ本店でバスを降りた。水晶のアクササリーや動物の置物を作っているスワロスキは チェコスロバキアかハンガリーのものかと思っていたが、インスブルックが本拠だと初めて知った。4階建ての店内を100%観光客の顔で見て回る。色々見て 娘にネックレスを買う。100ユーロ。 ここから歩いて街を見ながら ヒルトンホテルへ。

夕食はチロルの山小屋でチロルの伝統料理を、というコースがあったので申し込む。時間になると、バスが迎えに来て、結構暗い夜の山の中に入っていく。バスのあとは、馬車で山道をさらに登る。2頭立ての馬車の御者の横に座らせてもらって、足元の2匹の犬を抱き寄せる。御者が可愛がっている8ヶ月のセパードと白いテリア犬。寒いので毛布を膝にかけると犬達ももぐって入ってきて可愛い。30分余り 馬車が走っているうちにセパードが何度も馬車から飛び降りそうになり 首輪をしっかり掴んでいなければならなかった。真っ暗で何も見えなかったが、きっと山兎とか 狐とかあるいはもっと怖い動物でもいたのだろう。

着いたチロルの山小屋で、大ジョッキのビールにチキン、ポーク、ザワークラフト(キャベツ酢漬け)が出た。驚いたことに、木の器に載った肉や野菜をナイフもフォークも無しで食べる。それがチロル風 と聞いて 仕方なく手掴みで食べる。飲んで、食べて、愉快な気分で 深夜ホテルに帰って、爆睡する。

写真右は、ミュンヘン市庁舎(仕掛け時計は左の方)
写真中央は、インスブルックのゴールデンルーフの建物
写真左は、インスブルックから見える山々

2008年10月28日火曜日

ドイツ ライン河下り




ベルギーのブルッセルから バスでドイツ領に入り ケルンを訪れる。


日本語でケルン、英語でコロンだが、現地ではコロンのコを ケにちょっと近いケで、コロンと発音していた。
ライン河の左岸、鉄道の駅の横にある大聖堂が有名。世界文化遺産。夫からコロンの教会が素晴らしい、素晴らしいと 聞かされていたので、しっかり見てこなければ とおもいつつ、そびえ建つ かのコロン大聖堂を仰ぎ見る。
高さ157M、奥行き144M。幅86Mのドイツ最大のゴシック建設。1282年から630年余りかけて、建設された。内部にはバイエルン王ルードヴィッヒ1世が納めた 鮮やかなステンドグラスがある。

ミサをやっている最中だった。朗々としたテノールで、牧師が 鐘を鳴らしながら お祈りをとなえている。美しい。心が安まる。 かのルードヴィッヒが 作らせたというステンドグラスは今まで観たどのステンドグラスよりも精巧で豪華絢爛。字の読めない人のために、イエスキリストのお話を絵でわかるようになっている。色合いが美しく、700年も前に造られたものとは思えない。

コロンの大聖堂を見た後は 売店でコロン4711を買う。このコロンを父が昔 使っていた。緑のラベルがなつかしい。 オーデコロンはここ GLOCKENGASSE4711番地が 発祥の土地だ。オーデコロン4711は、昔、水質のよいコロンで作られていた。1792年に生業を始める。2年後にナポレオンが占領、兵士達が好んで このコロンを求めて国の妻や恋人に贈るため フランスの持ち帰ったところから オーデコロンは世界中に広がった。

父の仕事柄、日本人が外国に出ることが まだ稀だったときから、外国帰りの人が 家を訪れていたので、まだデパートにも売っていなかった、コロンとか、スコッチとか、ブランデーが 家にはあった。まだ小学生のくせに、コロン4711とか レミーマルタンとか、ジョ二黒、オールドパー、バレンタイン、バット69なんかを知っていた私は、見様によっては 生意気な子供だと思われていたのかもしれない。

コロンからセントゴアへバスで行き、そこからライン河を船で下る。
ライン河の源はスイスの山中に発している。フランスとドイツの国境を流れ、オランダのロッテルダムで北海に流れ込む。河の両側に 美しい葡萄畑が広がり、河沿いに、ホテルやリゾートハウスが立ち並んでいる。どの建物も 窓を花ばなで飾り立てて 美しい。約2時間ほどの乗船の間に、8つくらいの古城が船から見られる。 船は3階建ての広いデッキを持った船で、中にバーやお土産を売る売店がある。窓きわに座っていたら 甘いドイツの白ワインを出された。 河の両岸とも深い緑、そこを玩具のような赤い電車が走っていく。教会、鐘楼、白い壁に黒い屋根の家々、本当に美しい光景だ。
古城の多くは ホテルやユースホステルとして使われている。一つのお城は日本人に買われた、と聞いた。
河がくねっていて流れが急になる、難所といわれるところに ローレライの像がある。昔から 少女ローレライが唄を歌って 船の舵取りを魅了させて、船を沈めたという昔話がある。ハイネの詩に ズイルヒャーが曲をつけて ローレライの歌が生まれた。船がここを通るとき ローレライの歌が船内で流れたので、大きな声で日本語で歌う。

船を下りてから バスでハイデルベルグの街を見る。夕方の6時になっていたが まだ明るい。ここはヨーロッパで一番古い大学 ハイデルベルグ大学がある、小さな街だ。街から見上げた崖の上に大きなお城がある。とても大きな城で、これがハイデルベルグのトレードマークになっている。街の家々の窓には鉢植えが並び、ゼラニウムやベコニアが窓を飾っている。どの家の鉢植えもよく手入れされていて 町全体とよく調和していて美しい。

ランチはコロン大聖堂の横にあるマクドナルドで、6ユーロもするバーガー。芸術を愛したルードヴィッヒにゆかりのある地でマクドナルドとは 我ながらあきれるが、ここのトイレを借りなければならなかったので、仕方なく、、。
デイナーは、ラインランドのルネッサンスホテルでターキーを食べる。もさもさした肉に ほんのご愛想程度の野菜。ああいやだ。小魚の佃煮で白いご飯が食べたい。
ホテルはルネッサンスホテル。一日歩きくたびれて 帰ってすぐに死んだように熟睡するので どんなホテルだったか、何も覚えていない。

写真1は、ケルン大聖堂。
写真2は、ライン河下りの船。

2008年10月27日月曜日

ベルギー ブルッセル







ロンドンからドーバー海峡を渡って、フランス領のカラスから ベルギーのブルジェスの街に入る。

英語でブルジェスと呼んでいたが、現地の人はブルッシゥと発音していた。ここは中世の建物、教会がそのまま残っている街を運河が巡らされている、美しい御伽噺のような街。街そのものが 天井のない美術館と呼ばれている。

新作の映画「IN BRUGES」(ブルッジェスにて)の紹介を9月の日記に書いたが、ここが舞台で、二人のヒットマン(殺し屋)を主人公にしたブラックユーモアの 大人のテイストの映画だった。ヒットマンが飛び降りた教会の鐘楼や、広場がそのまま出てきて おもしろかった。 16世紀から続いているという 伝統的レース作りを見学して、ムール貝にビールという食事を考えていたが、小さな街中をあふれかえる観光客、人と人の波で どのレストランもカフェもいっぱい。そんな込み合った石畳を 観光客を載せた馬車が行き交う。全く馬が可哀想。辟易して、ブルッセルに向かう。

ブルッセルはEUの本部が置かれ ヨーロッパの各種機関の代表が集まった ヨーロッパの首都的な存在。ブルッセルの街の中心は 近代的な大型ホテルが林立し、ブランドショップが立ち並ぶ。
しかしいったんグランドプレイスに立ち入ってみると いっきに中世の時代に立ち戻る。GRAND PLACEは、素晴らしい。200メートル四方を、全部壮大なゴシック建築の建物の囲まれた大きな広場。 ビクトル ユーゴが世界で最も美しい広場と、言い、ジャン コクトーが「豊穣なる劇場」と形容した広場だ。一方はブルッセル市庁舎、他方は王の家と呼ばれる市立博物館、他方はギルトハウス。広場に面した美しいゴシック建築は、ホテルとして使われたり、宝石屋、レストラン カフェになっている。有名なベルギーチョコレートの老舗ゴデイバもある。ベルギービール醸造博物館もあり、ビールが供される。ベルギービールは 有名。全土で110もビール醸造所がある。
ギルトハウスは 肉屋のギルト、花屋のギルトなどが集まった建物で、ドアに白鳥の彫り物がある建物は 昔の精肉店ギルトで、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を 考案した場所だそうだ。今はラ メゾン シーニュというフレンチレストランになっている。 中に入ってみたかったが 夜遅くならないと開かない高級レストランだそうで、閉まっていて残念。尊敬するマルクスとエンゲルスの 終始変わることのなかった友情に思いをはせ、写真をパチリ。

ベルギーではフランス語圏とオランダ語圏とドイツ語圏とが あって、カトリック75%、プロテスタント25%。 熱狂的国民的スポーツというのが どの国にもあるが、ここでは ピジョンレース(鳩のレース)だというのが とても変わっている。小さな鳩が飛ぶのに熱狂するなんて、、、それに比べたら野球に熱くなる日本人や ラグビーに狂うニュージーランド人の方が 健康的な気がする。

ランチは 観光客ひしめくブルッシェで、オランダ語のメニューが読めなくて メニューひとつひとつを英語で説明してくれるような親切なウェイターもいなくて、ムール貝のワイン蒸しなど、メニューで見つけらないまま 2つしかチョイスのないランチコースを注文するはめになった。かくして、運河の風に吹かれながらムール貝でビールをやる計画がオジャンになる。
出てきたのは、ポタージュスープとローストチキンの半身。おいしかったが量が多すぎて 半分もやっつけられない。デザートにケーキが付くのを、辛うじて押しとどめ、ケーキの代わりにコーヒーで許してもらった。15ユーロ。$30以上の観光客価格。

デイナーは 昼食が重かったので全然おなかが空かない。 カフェでケーキとお茶。カプチーノ:3,30ユーロ。ケーキ:5ユーロ。
どちらも観光客しか来ないような店なのに 言葉の通じない客に対して一歩も譲歩しない。メニューを見て、このワッフルの上には何が載っているの?と英語で聞いているのだから、英語で説明してくれればいいものを ウェイターは愛想良く にこにこ笑って フランス語で答えると サッと行ってしまう。紳士的で慇懃だが、頑固なヨーロッパ人のかたくなさが 垣間見える。ぜんぜん嬉しくない。

写真右は、ギルトハウス:マルクスとエンゲルスが共産党宣言を考案した場所と言われている。
写真左は、二枚ともグランドプレイス

2008年10月26日日曜日

ロンドン その2







写真中央は、ロンドンアイ ロンドンの新しい名所となった観覧車。

写真左は、ロンドンアイの夜景。初めて見たとき 思わず歓声をあげた。

写真右は、ウェストミニスター寺院。
王室教会で英国王室の戴冠式が行われる。代々の国王が埋葬されている。ウェストミニスター宮殿(国会議事堂)と この王室教会が隣り合っているところから見ても英国では政治と国王と教会とが 非常に強い絆で結ばれている関係であることを示している。歴代の国王が埋葬されていて、エリザベス1世の墓も、ギロチンで殺されたスコットランド女王メアリーの墓もある。

入り口で渡された説明のテープを聴きながら棺を見て回る。宗教と習慣の違いだろうが、遺体を入れた棺が、どれだけデコレートされて封印されていても それが床にデンと安置され、その周りを見物客が連日、ぞろぞろと見て回ることを許す というクリスチャンの感覚がわからない。棺の中で遺体が時間の経過とともに どう変化していくか、だいたい想像できるので、そんなものを聖なるものと捉えて何世紀もの間 教会の中で、大切に保存することを、埋葬というのが、よくわからない。
日本人の感覚では埋葬と言うと 灰となり、土に還るこというので、生産的で清潔だ。
ゾロアスター教の鳥葬なんかも気持ちが良いが、やはり私が死んだときは 細かい灰になるまで きちんと焼いて、そして海に流してもらいたい。七つの海の間を悠々とたゆたい、陽の光にくすぐられ、豊かな気持ちで波と遊んで眠りたいものだ。

ロンドン その1







米国の低所得者むけ住宅ローン、サブプライムローンの破綻に端を発する金融業界で未曾有の金融恐慌が 進行しつつあると言われている。全米証券会社第4位のリーマンブラザーズ破綻、第3位のメリルリンチが金融大手のバンクオブアメリカに救済合併された。のちに ワシントンミューチュアルが貯金の急激な流出、取り付けによって倒産した。 1930年代の世界恐慌を上回る経済破綻が起きている、とも言われている。

この間 オーストラリアドルが落ちて、米ドルに98セントくらいだったのが、あっという間に66セントに落ちたり、また上がったり、まさにヨーヨーのようにお金の価値が上下している。

そんな時期にノーテンキに旅にでて、ロンドンに着いた。ホテルでテレビのスイッチをひねると、イギリスの首相が鎮痛な顔をして 大不況に備えなければならない。失業率は飛躍的に上がるだろう。この国の労働者を守る為に海外からの労働者の受け入れを厳しく制限するつもりだ、と話していた。

不況だ、経済危機だ、暴動だ、革命だ と 高度経済成長期に、叫んでいた岩田弘。いまごろ どうしているだろう。わたしは 完全な経済音痴。金融破綻 といわれて、だから どうしたらいいのか、ぜんぜんわからない。旅でも続けるしかないではないか。

写真右は、ロンドンのホテル。いま流行りのブテイックホテル。外から見ると ただのアパートとしか見えない。ドアにストリートナンバーのプレートがあるだけ。清潔で小さなホテルだった。ツインで、1泊190ポンド($380)だったが、ヨーロッパをひとまわりしてロンドンに帰ってみると、1泊240ポンド($480)になっていた。オーストラリアドルが急降下したため、ホテル代が40%ちかく値上がりしたことになる。

写真中央は、バッキンガム宮殿。 おもちゃの兵隊みたいな楽隊、赤い制服に毛皮の帽子の近衛兵、騎馬隊が行進してきて交代式をする。ロンドンの名物だから行進が始まる11時半には 宮殿前は観光客でいっぱいになる。 夏の間は、宮殿内部を一般公開していたそうで、いま人気の画家フェルメールの「音楽の稽古」があるそうだが、私のいたときは公開されておらず内部をみられなくて残念だった。

写真左は、ウェストミニスター宮殿 現在の国会議事堂。権威の象徴のように やたら巨大でそびえ立つて威圧する。そ、、そんなに偉いのか?  13世紀から審議の場として使われ、議会政治が生まれた場所。全長300メートル、部屋数1100、11の中庭、100箇所の階段をもつ。テムズ河を渡って吹き付ける北風を受けながら 建物の端から端まで歩いただけで もうヘトヘト。
写真1 ウェストミンスター
写真2 バッキンガム宮殿衛兵交代
写真3 ホテル

2008年10月22日水曜日

ヨーロッパ旅行から帰ってみたら


3週間かけてヨーロッパを旅行してきた。
ロンドンを始発点に、ドーバー海峡を渡り、フランス領からベルギーのブリュッセルに、1泊。ブリュッセルから ドイツ領にはいり、ケルン、ボン ライン河クルーズを経て ハイデルベルグからラインランドで一泊。
ラインランドからミュンヘンを経てオーストリア領に入り、インスブルッグで一泊。翌日はザウスブルグでもう一泊。翌日はオーストリア領から一挙にイタリア領に入り ベニスへ。ベニスで2泊したあと ローマでも2泊。
フロレンスでゆっくりしたあと、今度はスイス領に侵入、ルツエルンで2泊、山を見て、パリに入って二泊、そこからまたロンドンにもどって、ミュージカルなど観て 帰ってきた。

良い旅だった。 訪ねた各地のことを思い出しながら 今後ゆっくり書いていきたい。
帰途はロンドンから11時間のフライトで成田空港に着き、5時間待たされて、成田からシドニーまで10時間のフライトだった。ロンドンーシドニーでは ちょうど中間点に成田があるので 乗り換えのあいだ 成田でシャワーや仮眠が出来るかと思ったが満室で ままならず 2日前に歯磨き、着替えしたままの姿で 疲れて、重いスーツケースを押しながら ヨレヨレの姿でシドニーの自宅に帰宅したら ベッドには、醜いトドが居た。と、思ったら、きりっとネクタイして仕事にいっているはずの夫が下痢と高熱で苦しんでいた。

台所は熊が襲ったキャンプと言う感じ。むきだしのパン。からからにひび割れしたチーズの大きな塊、カビのはえたにんじん、芽の出たジャガイモ、腐ったハム、古い卵、真っ黒なバナナ、、、洗濯機の横には、半乾きの20枚のパンツ、、、 土曜日に急に寒気がしてー、とか 日曜にどうしたとか 言い訳めいた夫のことばが きれぎれに聴こえるけど、全部無視して、ガガーっと 家中を掃除機をかけて ごみをまとめて どんどん出す。夫の洗濯物をチェーック、、、全然きれいになってない。失格!洗い直し。 留守の間、夫が使った皿やナイフ スプーンをチェーック、全然きちんと洗えてない、失格! 洗い直し。同時に洗濯機と乾燥機を回しながら、掃除機をかけた後は ぞうきんがけ。 私のかわいいお風呂場をチェーック。怖い顔で、夫に「私のお風呂場とトイレを使わなかったでしょうね。」と確認。やっと安心して夫用の すごく汚い お風呂場をタワシでガガーっと掃除 洗浄。3日間下痢が続いていると言うトイレを 最強の消毒剤で磨きあげる。

これでやっと 家中が私の家らしくなってほっと安心。日曜に ロンドンを発ち、火曜に帰宅した今まで シャワーもなしで同じ服だったことに気がついて やっとお風呂。歯磨き シャワーでお気に入りジーンズを着て、ああ、やっと、家に帰ってきたんだわ、と、にっこり。ここで、コーヒー。

おもむろにスーツケースを開けて、3週間持ち歩いた衣類をクリーニング屋に出す袋にまとめ、洗濯物を洗濯機に入れ、できた順から乾燥機に入れて、買って来たウイスキー3本を隠し、チョコレートやら お土産は あげる人ごとにまとめ、 空になったスーツケースを 棚の上に片付けて、夫のために買ったセーターや本を夫の机に並べ、ああこれでやっと、全部片付いたわー。とまた、にっこり。ここでコーヒー。

すっかり忘れていたけれど、左右違う色の靴下はいて、這ってトイレに通っている夫、、、おやおや どうしたの??? 熱を測ってみると、39,5度。あら、あなた 病気だったのね!!!