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2008年9月29日月曜日

映画 「ウォーリー」


デイズ二ー映画制作のSFアニメーション「ウォーリー」を観た。「ファインデイング 二モ」の、アンドリュー スタントン監督。 男の子の名のウォーリーでも、悩ませる心配させる の WORRYでもなく、「WALL-E」とは、「WAST ALLOCATION LOAD LIFTER EARTH CLASS」 の略で、地球のごみ処理ロボットのことだ。

今から800年後の話だ。
地球に住んでいた かつての住人はすべて 他の星や宇宙船に避難 移住した。放射線や化学物質で汚染された地球は 完全に人々から捨てられて、命あるものは死滅した。その廃墟に残った ごみ処理ロボット達も、ウォーリーを除いて、皆役目を果たし、エネルギーを使い果たして動かなくなっていた。地球上ただ一台 残されたごみ処理ロボット ウォーリーの友達はただ一匹のゴキブリだった。 毎朝 日が昇ると ウォーリーはごみを集めて圧縮してはそれを積み上げていく。なにか面白いものや再利用できそうなものは 拾って集めて、夕方になると ガレージの自分の部屋に持って帰ってくる。自分の部屋では 1969年のミュージカル「ハロー ドリー」をVHSビデオで観て、自分でも踊ってみたりしている。ウォーリーは孤独だ。

ある日、轟音とともに、ロケットが着陸して、偵察ロボットを地球に残していく。ウォーリーはその白い美しい偵察ロボット、イブの姿に魅せられて、恋をする。イブは地球に生命体があるかどうか調査する為に来たのだった。そんなとき、ウオーリーは 鉄くずの残骸の下から 小さな芽を出したばかりの緑の植物を見つける。有頂天になって、それをイブにプレゼントする。生命体を受け取ったイブはそれを自分の体内で処置しようとして、故障して 動かなくなってしまう。ウォーリーは動かなくなったイブを 眺めの良い山頂や 港に連れて行って、懸命に話しかける。自分の行くところ どこにでも連れて行って 片時もイブを離さない。

そうしているうちに またロケットが来て、もう動かなくなったイブを連れ去ろうとする。ウォーリーは 必死でイブについていき 人間の住む巨大な宇宙船に中に侵入する。ここでは人間は働いてものを生産する必要がないので 太った豚のような姿になっている。何もかもが機械がやってくれるので 手足も退化している。目も前のコンピューターを作動させるだけで 食べ物も飲み物も目の前に来る。コンピューター画面しか見る必要がないので、視野も退化して狭くなっている。宇宙船の船長はこのうち宇宙船を提供している会社のしもべでしかない。こうしたなかで、ウォーリーとイブの恋の行方は、、、。 というお話。

すべての生命体が死に絶えたニューヨークで パワフルに休まず ごみを処理するウォーリーが 仕事を終え、自分の部屋に戻れば ごみの中から拾ってきた物をより分けて、自分の古くなった部品を自分で修理して取り替えたり、古いミュージカルビデオを見て 愉快になったりする姿がとても人間的だ。アニメーションでロボットの表情ひとつに喜怒哀楽を表現させるテクニックに脱帽。観ながら、すっかりウォーリーに感情移入してしまう。動かなくなったイブをいつも連れ歩き、雨が降れば 自分は濡れてもイブには傘をさしかける、本当に人間的。イブも笑い顔がすごくかわいい。

ロボットが人間的で、生き残って退化した人間が獣以下、という設定がおもしろい。退化した人間の姿が ブラックユーモアになっている。コーラとハンバーガーで生きているアメリカ人の将来、行く末を明確に描いている。 ウォーリーがどうしてロボットなのに人の心を持つようになったのか、命令に忠実なイブまでが 何故ウォーリーの恋心によって、変わってしまったのか 不明だが、ウォルトデイズ二ーがこの映画で対象にしている年齢層を考えれば 細かいことを追求しても仕方がない。子供がこの映画を観ていのちの大切さや 相手を思いやること、緑を守ることの意味を考えるのが大切だ。 とても、良い映画で、子供の為のアニメーションにしておくのは もったいない。

ウォールトデイズ二ー社は 手塚治虫を実によく研究して とりこんでコピーしている。「ライオンキング」が、40年前の彼の作品「ジャングル大帝」の まるっきしコピーなのは、名目瞭然。 このウォーリーも 彼の「火の鳥」のテーマに似ている。 「火の鳥」は 「黎明編」、「未来編」、「ヤマト編」、「宇宙編」、「鳳凰編」、「復活編」に分かれた5部作だ。 第一部、「黎明編」が発表されたのが1955年。連載されては雑誌廃刊、また再編されては出版社倒産と、何度も憂き目に会いながら、1976年、朝日ソノラマ発行の月間「漫画少年」で、完結した。この30余年前の5冊を持っている。紙が赤茶けているが内容は現代そのもので手塚ワールドは、時を経ても いつも新しい。

この完結編の中で 事故で脳挫傷した少年が 体は人間、脳の3分の2は 人口脳を埋め込まれて再生する話が出てくる。体は人間、脳はロボット、でも心は人間だ。少年の目から見ると 有機質の人間は 醜い物体だが、美しい人間の姿に見えるのは 無機質のロボットだ。そして、少年は一人のロボットに恋をして、やがて互いに愛し合うようになる。勿論、人間達から、理解を得られない。恋の末路は悲劇的だ。

「火の鳥」では、この人の心をもった 人工脳の少年とロボットの少女が ロビータのもとになり、「火の鳥」第一巻のはじめにもどっていく。最終的にはロビータは、ひとつのロビータが 人間に死刑を要求されたために、人間に仕えていた何万 何十万というロビータがすべて 自ら溶鉱炉のなかに飛び込んで 鉄くずとなって、人間社会からロボットは消えていく。

手塚治虫はすぐれて、ヒュ-マニストの作家だが、子供向けの漫画だからといって ハッピーエンドの御伽噺は 決して描かなかった。 漫画の中で、科学者は 死んだ人の命を人工機能によって再生し、命の創造に着手する。死に絶えたはずの動物達を 人工羊水のなかで育てている。二つの死体から 一つの完璧な体を作ろうとする。人の記憶を残して、人の心をもったロボットを製作する。 それらが、とても斬新な発想で、こういったストーリーを彼が書き始めた1955年ごろ、世界は まだ月の探索どころか、コンピューターもなかった。それを思うと、今、改めて、手塚治虫は とてつもない想像力を持った 大きな子供だったんだ、と思う。