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2026年9月13日日曜日

わたしがそうりだいじんになったら

私が総理大臣になったら、という題で小学校低学年の時に作文を書かされた記憶がある。
私は「ぎっちょ」で、左で字を書く変な子だったので、学校で笑われていたから、他の子は作文で「わたしがそうりだいじんになったら、学校給食のミルクをなしにします。」とか、可愛いことを書いていたのをしり目に、思うことを書き連ね、紙が足りなくなって裏までぎっしり書いたことを覚えている。1949生まれ、まだ左利きが脳の欠損によるものだとか、就学前に悪い習慣を直さなければいけない、などと言われて左利きが市民権を獲得していなかった。左で鋏を使ったり絵を描く姿を、おもしろがって隣のクラスの先生まで見物にくるような文化程度の低い学校だった。
そのころから、精神年齢は変わっていないので、同じ題で書き連ねてみたい。

私が総理大臣になったら
1)日米安保条約を廃棄して、日米協定を再考する。
2)在日米軍基地を閉鎖し、自衛隊を災害救助隊に改め、「陸海空軍その他の’戦力はこれを保持しない」という憲法に従い、専守防衛に徹する。
3)閣議決定に法的強制力をなくし、すべての立法は国会で論議決定されなければならない。また法案の事前審査を認めない。ついでに、国会議員の世襲制を禁止する。また国会議員の給与は国民の平均給与額を超えない。
4)包括的差別禁止法を制定。性別、年齢、宗教、人種、民族、文化、性的嗜好による差別を禁止し、罰則を厳しくする。
5)議員は定期的にメデイアの会見に応じ、事前に質問内容を知らされず、質疑に応じなければならない。また記者クラブは廃止する。
5)海外からの移住者を受け入れる。難民を受け入れ、外国人への生活と教育を支援する。また留学生を受け入れ、援助し育成する。
6)製造業を奨励し、国内生産を上げる。中小事業所を支援し町の工場を支援する。
7)食料増産を目標に米作り農家を支え、食料の海外依存を止める。
8)すべての新築の家屋、ビルなど建物の屋上に、太陽光パネルを置き、植物を植えることを義務とする。(すでに豪州では施行されている。)
9)マイナンバーは希望者のみ、従来の健康保険証を併用する。
10)病院の長期入院の慣行を再考する。出産や手術による入院期間を短縮し、地域医療を活性化する。
11)精神病院強制入院制度を廃止する。また患者への拘束をいっさい禁止する。
12)死刑制度廃止。
13)すべての小学校、中学、高校に専門のサイコセラピストを置き、子供の自殺といじめ対策を徹底する。
14)小学校から性教育を徹底する。

まだまだありそうだが、紙が足りなくなった。で、、、ぎっちょは、どんなに笑われても治らなくて、直す気もなくて、今に至っている。

2026年9月8日火曜日

兵衛大叔父のチューリップ

私にとっては「鎌倉のじいちゃん」大内兵衛がラッキーだったのは、若いときに海外留学で、はじめはニューヨーク、のちにハイデルベルグで学んだことで、広い見識を持ち大局から世の動きを見ることができるようになったことだと思う。
初めのニューヨーク留学は、彼が東京大学を卒業し大蔵省に就職した2年目に、大蔵省留学生として28歳で3年間(1916-1919)派遣された。
次のドイツ留学は、彼が編集担当した東大経済学部雑誌「経済学研究」に森戸辰男が「ピョートルクロポトキンの理念」についての論文を載せたことで、森戸は逮捕され大学が罰金刑をうけて、彼が停職処分を受けたあと復職できるまで〈1921-1923)ハイデルベルグに留学できたことだ。

彼の時代は進学する人の数も少なく、中学に進学したエリート達は英語をものにして、高校で2-3か国語をこなし、大学では英独語などの外国語の原書を読んで議論ができるレベルだったそうだ。そういえば父も、その父(大内兵衛の兄)も日記は英語で書いていた。

1938年2月1日に、大内兵衛(1888-1980)、有沢広巳(1896-1988)、大森義太郎(1898-1940)、脇村義太郎(1990-1997)、高橋正雄(1901-1995)、美濃部亮吉(1904-1984)の6人は、中国への宣戦に反対したことを理由に、共謀して「無産運動の理論的指導を行い、労農派の勢力の拡大を測り共産運動をした」として検挙された。
近衛文麿内閣の政府、検事、警察は、これらの学者が、日本の軍国主義を批判したことをもって、治安維持法で起訴しようとした。しかし、これら学者たちは、統計学をもとに社会科学の視点から日本が戦争に勝てる国力を持っていない確信をもっていた。戦時中、シンガポール陥落、南京進出、敵の戦艦沈没と。多くの日本人がお祭り騒ぎをしていた間中、兵衛は「すぐ負けるから」と父に言っていた。若くして外国を見て歩いた人の目は、開戦に至る10年も前から、中国侵略には無理がある、対米戦争で勝てるわけがない、とわかっていた。

鎌倉のじいちゃんの思い出は、彼が愛したチューリップ畑だ。鎌倉から江ノ電に乗って、駅からかなり歩いた急坂の上、古い木造の家に住んでいた。風通しの良い格調ある大きな家だった。道路からてっぺんの家までの広い斜面には、彼が植えたチューリップがみごとな絨毯のように広がっていた。こまめで歩くのも何をするのも早くて、よく笑うじいちゃんのチューリップだ。
影響を受けて父も熱心に、庭にチューリップを植えた。球根を掘り出して、縁側で乾かし毎年植えなおす。世界一オランダがきれいだ、とよく言っていた。結婚前、訪ねてきた母が庭中にチユーリップが咲いていて、それを褒めたので将来の妻のために、帰るときチューリップを切って渡したのだという。その手が激しく震えていたのは「もったいなくて」だった、と父から何度も聞かされて、そのたびに笑った。

母は宇佐美誠次郎(大内兵衛の弟子)の妹だった。彼は論文をマルキストと断じられ、治安維持法で検挙され厳しい実刑を強いられた後、「死んで来い」と終戦まじかの中国の最前線に送られた。生きて帰れたのは奇跡だった。心も体も大きな抱擁力のある叔父だった。会えば、「何読んでるの」ロマンロラン、「バイオリン何弾いてるの」メンデルスゾーン。これだけの会話しかないのに、ずっと横に居て寄りかかっていると、しみじみ心が満たされてくるような温かい人だった。
写真は大きな大きな宇佐美誠次郎叔父と、小柄で茶目っ気いっぱいの大内兵衛大叔父。
もう昔のことなので、この写真しか手元に残っていないのが悲しい。



2026年9月3日木曜日

氷河崩壊

雪渓を横断する。滑り落ちないように重い荷を背負った体重を移動させながら、一歩一歩地球が形成された太古から一度も溶けることのなかった硬い雪を踏みしめる。アイゼンをかませて永久凍土に爪を立てる。原始からあった氷河に頼りないピッケルを打ち込む。偉大な自然に対して何とちっぽけな命だったろう。
穂高、槍が岳、立山、剣岳、白馬岳、八ヶ岳、谷川岳。無限に広がる抜けるような青い空。
山は良い。山は清潔だ。乾いた風、岩と岩と岩。

1970年初めブント(共産主義者同盟)に関西から塩見孝也氏が、一片の文章を持ち込んで、ブントは真っ二つに分かれた。大事な人たちは獄中だった。現状分析が間違っている、と言っても仲間の多くがそちらに行ってしまった。それ以上に悲惨だったのは、残った者たちが方針が違うだけで更に2分解3分解したことだった。昨日隊列を組んだ仲間が、拉致され凄惨な暴力を振るわれる。血を血で洗う内部抗争に、査問もスパイ容疑も自殺者も出た。政治本来の暴力性というだけでは説明できない、この時代を生きた者たちは、この罪の重さから逃れられない。

学生運動を何よりも軽蔑し活動家を嫌っていた山岳部の先輩は、私が山の行程表を持っていくと、黙って丁寧に見てくれた。その人は、自分の登山靴の踵を雪の斜面に直角に立てて、数百メートルの雪渓を一気に滑降する伝説の山屋だった。
山にはいつも単独で行った。山はいつも大手を広げて向かい入れてくれた。雪渓や稜線を歩くから山焼けで顔が埴輪のように赤く腫れあがって、鼻から皮が2枚3枚とむけてくる。会う人はギョッとするが全然気にならない、お構いなしだった。
山は生きている。太古以来降り積もった雪が雪渓を作り、雪の底から氷河を形作り厚い氷の下では氷の塊が動き回っている。太古の雪も呼吸しているのだ。
剣岳の三ノ窓、小窓雪渓、立山の御前沢氷河、白馬岳の大雪渓、杓子氷河。その雪渓を吹き渡る乾いた冷たい風が蘇ってくる。

地球が温暖化しなくても、CO2が上昇しなくても気温が上がれば氷は溶ける。重い氷を乗せた岩は重さで崩れる。雪崩も山崩れも自然の動きだ。人は山を征服することはできない。人は自然を懐柔することなどできない。

連日、報道されるネパールチベット国境での氷河崩壊は、死者1200人、行方不明4000人という大規模な災害となった。私の職場にも30人ばかりのネパール人移民が働いていて、友達を失った人も居て胸が痛む。

山は太古の時代から空に向かってそびえ立ち、人に生命の源である水を与えてきた。どんなに科学技術が発達しても、人は山の形を変えることはできない。空を人の力で覆い隠すことも、できない。アイアンドーム、ミサイル迎撃防空システムなど、作り話だ。砲撃ミサイルで自国の空を、敵国の空から守ることなどできない。 軍拡の愚かさを人はいつになったら気付くのだろうか。