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2022年8月12日金曜日

米国中絶禁止法に反対する

米国連邦最高裁判所は、今年6月25日に妊娠中絶禁止の裁定を下した。共和党は大喜び。1973年に妊娠中絶が合法化されて50年、民主党のバイデン大統領は、この日を「SAD DAY」と言い、アメリカの歴史を50年逆戻りさせた、と怒りを表明した。カナダのトルード大統領も、これは「ATTACK」だ、と激しく批判した。
全米26州で中絶は即時禁止されることになり、そのうちの13州では中絶クリニックは直ちに閉鎖、職員は直ちに解雇。違法者には終身刑を含む厳刑が待っている。なんと愚かな裁定だろう。何と野蛮な国だろう。
ディズニ―製作会社は職員が自由に中絶できる州に旅行できるよう休暇を許可すると、この禁止法が裁定されたその日に発表した。営利企業として勇気ある発言だ

どんな悪法下にあっても、人は生まれ、そして死んでいく。
私は妊娠、避妊、中絶、子育てはすべて当人とそのパートナーとの極めて個人的な課題だと思う。人と人とが出合い、一緒に時を過ごすようになり妊娠したり、避妊したり育児したりすることは、当事者の判断で決めることであって、他人や社会や法律が規制すべきではない。ただ二人が決めことをするために助けになる決まりごとが必要だ。それは以下のことだ。

1)12歳からの性教育、ジュニアスクール(中学)からは本格的な避妊技術を含む性教育を徹底する。
2)学校を含む公衆の女子トイレに無料のパッド、男子トイレに無料のコンドームを置く。
3)各警察署、学校に性暴力専門家を置き24時間オープンの相談窓口を置く。
4)避妊薬と、アフターピル(緊急避妊薬)を医師の処方箋で、どの薬局でも買えるようにする。
5)望まない妊娠のための妊娠中絶を認め、それを健康保険扱いにする。以上だ。
私は戦後ベビーブーマーの一人だがまともな性教育も生理に関する教育も授けられなかったために知識不足と先達なしの、ひどい暗黒の少女時代を過ごした。自分で自分を守るしかないとわかって、恋人ができてからは、まだ避妊薬が厚生省で認められていなかったので、非常に高額な違法ピルを産婦人科医から買わなければならなかった。出産後は専門医に埋め込み式の避妊器具を入れた。まわりで同じことをしている人は余り居なかった。自分の体を自分でコントロールすることが、1970年代の、産婦人科学が異常に遅れている日本の女性の間では非常に困難だった。 
夫の立ち合いで、夫の手で手伝ってもらいながら出産したが、当時まだそれが珍しく、雑誌に取材を受けて記事が掲載されたりした。産院では産婦は出産後7日間シャワーも風呂も禁止で、医師の診察後にやっとシャワーが浴びられるというような、とんでもない産科学がまかりとおっていた。女はピリオドを恥ずかしいことのように隠し、ろくに避妊知識もない男に女が避妊を任せっぱなし、妊娠すれば闇産院に中絶を頼むようなことが一般的だった。50年も経っている。時代は変わらなければならない。米国のように歴史を逆戻りさせてはいけない。

避妊も妊娠も二人の問題だ。よく話し合いわからないことは調べ、医学知識を借りながら決めるべきだし、早いうちから正確な性教育を受けていれば、興味本位のエログロのぞき見趣味は押さえられる。恋愛は激情に走ることもあるから、うっかり避妊を忘れる事もある。72時間以内に安全にアフターピルで妊娠を予防することも大事だ。やむを得ず妊娠を継続できなくなったら、他の病気を同様、健康保険で安全な手術を受けるべきだ。
こんな当たり前のことを、全く同じ内容で50年前から言っている。50年前も今も決して過激な主張ではない。リベラルや左翼や革新や新しがり屋をたくさん見てきたが、私の1)ー5)までの主張に100%同意してくれる男はわずかだった。
米国では法によって妊娠も避妊も政府によって規制されることになった。「わからずや」ばかりでがっかり、先が思いやられる。

ジョンレノン作「マザー」を歌ってみた。
ジョンは父親に捨てられ、母親に死なれ、恵まれない幼少時代を祖母のもとで育った。ジョンが歌うこの歌は、彼の心の叫びのようで、ただただ悲しい。日本語訳は、以下。

かあさん あなたは僕という子供をもった  でも僕にはあなたは居なかった そばにいて欲しかったのに だから僕は言うことにする  さよなら かあさん さよなら
とうさん あなたは僕を捨てた  でも僕はとうさんを捨ててない  ぼくはとうさんが必要だった でもとうさんは僕が必要じゃなかった だから僕は今だから言うよ さよなら とうさん さよなら
子どもたち 僕みたいになってはいけないよ 僕は一歩一歩あるいてくることができなかった 走って此処まで来た  だから今言える さよなら さよなら
I am singing [ MOTHER ] written by John Lennon.
When John was a little, his father left and mother passed away, then he was grew up by his grand mother. Lonely childhood made this song.

Mother, you had me but I never had you
I wanted you ,but you didn't want me
So I, I just gotta tell you Goodbye Goodbye
Father, you left me but I never left you
I needed you ,you didn't need me
So I ,I just gotta tell you Goodbye Goodbye
Children , don't do what I have done
I couldn't walk and I tried to run
So I , I just gotta tell you Good bye Good bye


2022年8月4日木曜日

ジュリアンアサンジに自由を

ウィキリーク創始者のジュリアンアサンジは、米国政府の秘密情報を暴露報道したことで米国からスパイ罪で告発され、2010年エクアドルのラファエルコレア大統領の計らいによりロンドンのエクアドル大使館に7年間保護されていたが、2019年大統領が変わるとイギリス警察により逮捕され、ベルマッシュ刑務所に身柄を移された。
2022年英国の最高裁判所は、彼の米国に引き渡しに同意、2022年6月17日英国内務省長官は、米国引き渡しを正式に承認した。 それに対して弁護側が現在控訴中だ。彼が米国に送還されたら、スパイ罪他17件で起訴され、予想される刑は禁固刑100年余り(実質終身刑)だそうだ。絶対に彼を米国に引き渡してはならない。

ジュリアンアサンジは1971年クイーンズランド生まれのオージーだ。子供時代は、母親が離婚した夫に息子を取られないように匿ったため数十回転校を繰り返し、自宅学習で学業を学んだという。16歳のころから天才的な能力を発揮して、PCのハッキングを始め、20をすぎるとオーストラリアに於ける初めてのインターネットサービスプロバイダの立ち上げに関わる。また人権活動家がその分野で機密データを保護するための暗号設計システムを作った。
2009年ケニアにおける虐殺を暴いた調査でアムネステイインターナショナル国際メデイア賞受賞、2008年「エコノミスト」によるインデックスオブセンサーシップ賞受賞。2010年ニューステーツマン誌による「世界で最も影響ある50人」に選ばれ、「タイム」誌では「パーソンオブイヤー」第1位に選ばれた。

ウィキリークが最も注目されたのは2010年バグダッドで米軍の空爆で、武器を持たないジャーナリストや市民を、米兵たちが大笑いしながら面白がってボタンを押して殺害しているヴィデオの流出だろう。2010年アフガニスタン戦でもイラク戦でも同様の米軍の情報がリークされ世界に衝撃を与えた。2016年の米国大統領選でも民主党ヒラリークリントンが、いかに同じ民主党候補のバーニーサンダースを汚い収賄と策略で追い落としたかを暴露したのに加え、民主党の全国委員会と民主党幹部の7万通の秘密文書を公にした。クリントン財団は、サウジアラビアとカタールの金を使ってイエメンが戦争と飢餓で6万人を死に追いやり、同時にリビアの戦争も、カダフィの殺害もすべてクリントンの発案だったことが暴露された。
アサンジは、数々の米軍による湾岸戦争やリビア攻撃、ニカラグア介入、イエメン内戦、アフガン戦争での違法行為、残虐行為を告発した。またフランス政府の選挙を含め、CIAと国家安全保障局によって使われる監視プログラムを公にし、米国の外国の選挙に対する干渉を公表した。またエドワードスノーデンが香港からモスクワまで逃げるのを手伝った。彼は腐敗した権力者がもっとも秘密にしたいことを暴露し続けた。真のジャーナリストであり弱者の立場に立った良心的な告発者だ。
ベトナム戦争時、マスメデイアではなく自らの意志で現地に飛んだ岡村明彦、沢田教一、石川文洋ら戦争カメラマンが捉えた衝撃的な映像が、米国をはじめ世界の人々の良心に訴え、反戦運動が世界に広がり、米軍を撤兵させる力になったように、ウィキリークの情報は、私たちに必要な情報だ。ジュリアンアサンジの米国送還を許してはならない。

クイーンの「LOVE OF MY LIFE」を歌ってみた。1975年、フレデイマーキュリーが7年間一緒に暮らした恋人、メアリーオースチンに書いたラブソング。歌詞は

 ぼくの愛 生涯で一番大事な人 君は僕を傷つけた 僕の心を壊して 行ってしまうなんて 僕の愛 信じてくれないの 帰ってきて 僕から奪わないで どうしてわかってくれないの きっと君は 思い出すよ すべて終わって 壊れてしまった後 君はちょっと 大人になって 時間が経って 思い出させてあげる 帰ってきて 僕の愛 僕の一生かけた愛 本当の愛を
I am singing [LOVE OF MY LIFE] written by Freddie Mercury and recording by The Queen in 1975.
Freddie and Mary Orstinn had lived 7 years together however their relationship broken after Freddie found himself a Gay. Later Mary married with other man and Freddie got male partner, but Mary supported Freddie as a life long lover.