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2020年8月19日水曜日

腑に落ちないコビッド対策

    歌は、詩は浅川マキ、かまやすひろし作曲の「にぎわい」

世界人口78億人のうちコビッド感染で、この半年間に78万人近くの死者が出ていて、21兆人が感染したと報道されている。米国人は世界人口の5%に過ぎないのに、コビッドによる死者は世界中の死者の4分の1を占めていて、米国の健康保険制度が破綻を示していることを明白に証明した。米国は国土の大きさや軍事力や経済力の大きさを世界の誇ってきたが、いまコビッドで世界一の死者を出した上、1930年代の経済恐慌よりも高い失業率や経済状況に陥りつつある。5時間、無料給食を受けるために並んで待つ人々の様子を見て、どうして暴動が起きないのかと思う。

一方で直接貨幣や金を扱うことなく「情報」という形のないものの売り買いで世界の富を、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル(GAFA)は稼ぎ出し、彼らの富は増大するばかりだ。
ウバは気軽に安くタクシーが使えて、クレジットカード決済なので便利だし、ピザや有名レストランの食事まで運んでくれるので、市民生活にすっかり定着したが、今後はタクシーと言わず小型飛行機サービスでさらに利用者を広げていくそうだ。また、スペースシャトルが月に飛び、ついに私企業が月旅行を成功させたが、これからは月旅行がリッチのステイタスシンボルになるそうだ。

トマ ピケデイは2014年に、過去200年の資本主義が格差を拡大してきたことをデータで実証した。景気のよい時は、賃金労働者の報酬も上がり貧富の差が解消したような幻想を持つが、実は富裕層はもっと富を蓄積していた。貧富の差をなくすには、国家が「資本課税」を資本家から強制的に徴収するしかない、と彼は言う。しかし富裕層の存在に立脚して形成されている国の構造からして「資本課税」を取ることなどできるわけがない。力による転覆、暴力的な奪取なしに格差はなくならない。当分いま暴力革命は起きないし、貧富格差は広がり、それを支える国家の暴力装置は増大するばかりだ。

日本と違ってほとんどの国では、コビッドPCR検査は無料で、広範に行われている。オーストラリアでも国民健康保険を持つ人は、無料でいつでも、どこでも、何回でも、風邪症状があっても、なくても検査を無料で受けられる。
ただ検査で陽性反応が出ても発症しない人、発病しない人が多いことを考えると、今後も国の税金から健康保険でこのまま、毎日数千人、数百人と検査を続けていくだけでよいのか、疑問に思える。7月末になって外国帰りの人から感染が広がり、メルボルンの老人ホームではたくさんの人が亡くなり、ヴィクトリア州の州境は封鎖され、自宅待機でまた失業者が増えたが、オーストラリア全体でのコビッドによる死者の合計は、8月19日現在で363人。死者のほとんどが70歳以上の老人で、90歳代が一番多い。30代が一人、子供は皆無。(注:オーストラリア人の平均寿命は男子:79.4、女子:84.9歳)

ロンドンでは住民の13%が、コビッドの免疫があるそうだ。
何故PCR検査をやめて、代わりにコビッド免疫検査を大規模にしないのか。
コビッドは免疫がつきにくいというが、検査反応が陽性でも無症状なら免疫がつかないのが当然だろう。免疫値がどの程度の値だと免疫が付いたと言えるのか、またその免疫がどのくらいの期間有効なのか、試してみないとわからない。いま世界中が毎日PCR検査の結果、何人が陽性で何人が死んだかが報道されていて、ワクチンの完成に希望をつないでいる。ワクチンができるまで、このままPCRテストをずっと続けていくのだろうか。ワクチンが出来ても、それは大きな薬品会社の利益になるだけで、副作用は当然起きるだろうし、それを拒否する人の数は莫大な数になるだろうし、また混乱も避けられないだろう。

いま免疫検査を広げて、検査結果で免疫値の高い人からこれまで通りに通学、通勤させ、店もショッピングセンターも、劇場、映画館、エンタテイメントもすべて開けて経済活動をもとに戻すことはできないのだろうか。経済活動を再開させ、失業対策をするべきではないだろうか。70歳以上で免疫値が低い人だけ自宅待機する、ということができないのだろうか。ワクチン開発についても、PCR検査の精査度は70%ともいわれているが、情報は十分でないような気がする。コビッド禍では、わからないこと、腑に落ちないことが多い。

2020年8月13日木曜日

老人ホームの職員は人殺しか


歌は「おじいさんの時計」(MY GRANDFATHER'S CLOCK)

私たちは天災に災いされ続けている。
オーストラリアでは昨年2019年10月から全国各地でブッシュファイヤーが燃え広がり、33人死亡、4.3万平方キロメートル、2500件の家屋が焼失、その間の煙による被害で、400人が喘息発作などで亡くなった。火災はその後、今年の2月に集中豪雨が襲い、ブッシュファイヤーは鎮火したが、焼けつくされた土地が、過去30年来の最大豪雨を吸収できず大規模な洪水が起きた。
シドニー中心地から電車で15分の所に住んでいるが、ブッシュファイヤーが続いた5か月間、煙りがシテイーを覆いつくしている中で呼吸障害で苦しんだし、その後の洪水ではアパートの駐車場が浸水して被害を受けた。

そしていまコビッドだ。メルボルンでは、1000人以上のヘルスワーカーがコビッドに感染した。ヘルスワーカーとして、ものすごいプレッシャーのなかでアップアップしながら働いている。オーストラリア全体で、昨日までに353人が亡くなった。ほとんど全部が70代以上の老人だ。
死者が老人ホームでで多発していることで、マスコミもビクトリア州政府も、鬼の首を取ったように老人ホームの管理責任を追及していて、老人ホームの職員は「人殺し」扱いだ。一方、病院に勤めるナースは、自分や家族を犠牲にしてコビッド患者のために働いているので「ヒーロー」だそうだ。わたしは医療通訳もしてきたが、一方公立病院で5年間勤めた後、今の老人ホームに移って15年経つ。公立病院でやってきたことと今やっていることと同じなのに。「ヒーロー」から「人殺し」になったらしい。
ともかく人々があまり語りたがらなかった「老人」の扱いについて人々が活発に論議するようになったことは良いことだ。オーストラリアはイギリスから放逐された犯罪者たちによって建国され、移民によって形作られてきた国だ。大きな土地、青い海と太陽、若い人々が希望をもって生き、子供を2人も3人も当たり前に生む社会だ。活力があるのは良いことだ。しかしイギリス人特有の「死」や「老い」などマイナスイメージのある事柄への話題が極力避けられる気質がある。若い人々は年を取った親の世話をしないし、年寄りも強い個性を持って個人主義を厳守するから独立した子供のやっかいにはならない。しかしコビッドは年寄りを殺す。やっとコビッドで老人ホーム死が増えて人々が「年寄り」を社会の中で、どうしたらよいのか、話し合うようになったことは、とても良いことだ。

老人ホーム死は、オーストラリアの雇用システムの問題だと思う。
ベビーブーマーとしては日本が高度成長期にあった時、1960年から80年くらいまで、その恩恵にあずかって、女子が4年制大学を出ても就職先には困らなかった。労働組合が力を持っていて、働く者が組合に入って雇用者から毎年給料を上げさせることが当たり前だった。しかし産業別組合への切り崩しや組合そのものが力を失った。オーストラリアでも、ナースの組合の組織率は20%弱だろう。組合費が高すぎて、末端労働者、パート、カジュアルワーカーには払えない。

オーストラリアに来たばかりのころ、一緒に働いているナースらが、シングルマザーで双子のお母さんだったり、出産2か月後のお母さんだったり、俳優になりたくて昼間学校に通っているので夜勤だけする人がいたり、歌が好きで夜はバンドを組んでバーでジャズを歌っているので午後の勤務だけ引き受けたり、多種多様なナースたちの活躍ぶりに驚かされた。中でも一番私を感動させたのは、何でも教えてくれて親切で何人分もの仕事をやってのける「できるナース」が、片目義眼だったことだ。日本では考えられないことだった。60歳代、70歳代で生き生きと働いているナースも多くて感動した。
週末しか働かない人、一つの病院だけでなく2,3か所の病院をかけ持ちして働いている人、こうした多種多様な人々をナースとして受け入れている病院システムの柔軟さに心から感動したものだ。職場は一つだけでなくてよい。雇用者に言われた日だけ働くのではなく、自分の生活に会った、曜日と時間帯を選んで自分で納得のいく働き方をする。何て自由なんだ。

しかしそれが良いことか、悪いことか。彼らは正職員ではなくカジュアルワーカーという時間給で働く人々だ。正職員に与えられる1年に6週間の有給休暇も、病気の時の有給病欠ももらえない。働けば働くほどお金にはなるが、有給休暇のないカジュアルは病気になったり、経済事情が悪くなって雇用にだぶつきが来ると仕事が十分得られない。
現在すべての公立、私立病院、施設は正職員とカジュアルを、半分ずつ抱えている。そこが問題だ。病院でカジュアルとして働くには、少なくても2年間大学で学び、准看護師の資格を得るか、3年間ナーシングを学んで看護師資格を取らなければならない。しかし老人ホームでカジュアルの、アシスタントナースとして働くには、6か月の職業訓練校に通うだけでよい。老人ホームの経営は、カジュアルで成り立っていると言って良い。中国人や、南アメリカやアフリカやアジアから彼らは留学生としてやってきて、、資格を取ってがむしゃらに働いて、永住権を取って、家族を呼ぼうとする若い人々が沢山、数えきれないほどいる。彼らは何か所かの老人ホームを掛け持ちして、昼夜、働く。こうして複数の老人ホームでコビッドの感染が広がった。
老人ホームの経営者は、このような最低賃金で働くアシスタントナースを最少限の数だけそろえ、正規職員を最低限に抑えて収益を上げようとする。その結果が、「老人ホーム職員人殺し説」だ。カジュアルワーカーを多数、抱える限り老人ホームは、死者を増やすだけだ。コビッドを機会に老人ホームは、カジュアルワーカーを減らさなければならない。職員全員に正職員としての権利を。

オーストラリアの失業率は長いこと5%前後だった。いまは7.2%だと言っている。
しかし7.2%の実態は、週に1日しか仕事をもらえないカジュアルワーカーは、失業していないからその中に入らない。だから失業率をいうときは、カジュアルワーカーに雇用を頼って居るオーストラリアでは、実際の失業率はその5倍はあると認識すべきだ。
それが働く者の「自由」の実態だ。自由に働ける時だけ、赤ちゃんを産んだばかりでも、日曜日だけでも、働ける時に、働けるところで、十分働けるはずだった「自由」は、飢える自由でもある。多種多様な働き方があっても良い。しかし、補償がなければ「自由」は自由とは言えない。補償なく働く人々、カジュアルを根こそぎなくす方法を考え、カジュアルと正規職員との差をなくす方法を考えなければならない。

2020年8月3日月曜日

たった一人だけ出演する映画を2本

映画はカメラ技術、撮影、舞台、音楽、音響効果、衣装、言語、歴史、時代考証、配役、すべてのジャンルを統合して作られる総合芸術だ。大型スクリーンでフルに映画館内に響き渡る音を全身で受けながら鑑賞するために作られている。だから映画は映画館で見なければよさがわからない。COVID災いで、外出が制限され映画が見られないことが辛い。仕方なくヴィデオを見ている。
映画製作にはとても大きなお金がかかる。いかにバジェットを抑えながら質の高い映画を作るか監督の知恵の使い方だろう。

登場人物がたった一人という設定で作られた2本の映画がある。「ALL IS LOST」と、「BURIED」。どちらもとてもよくできた映画だ。製作費を10倍以上、上回る興行成績を出した。芸術にとって、贅沢とはお金をかければ良い訳ではないということがよくわかる。どちらも忘れ難い作品に仕上がっている。

邦題:「オールイズロスト 最後の手紙」
原題:「ALL IS LOST」2013年作品
監督:J C チャンドラー
出演:ロバート レッドフォード
ストーリーは
男はヨットでインド洋を航海している。家族がいるのか、なぜ外洋に単独航海しているのかわからない。しかし慣れた帆の使い方、ヨットから眺める360度青い海から登る太陽、夕日を見つめる男の姿からは、余裕と真に海を愛する男の姿が想像される。
しかし不運は突然やってくる。貨物船から荷崩れして落としていった巨大なコンテナが漂流してきて、ヨットの横腹に激突し穴をあける。大急ぎで穴を埋めるが、終わらぬうちに大嵐が訪れてヨットは大海に浮かぶ木の葉のように波に遊ばれる。浸水中のヨットのマストが折れて男の頭を直撃する。

気を失っていた男が目を覚ました時には、船内は水に浸かりヨットは半没していた。GPSも無線の水に浸かって使えない。男は、ヨットを捨てて、救命ゴムボートに乗り移る。運び出したのは救命具、六分儀、水と缶詰。ヨットは沈み、やがて姿もなくなっていく様子を、ゴムボートから見つめる。運び出した頼みの水はコンテナに海水が混じって飲むことができない。六分儀で太陽の位置から現在地を予想する。徐々にボートが北上して流されていることがわかる。救命具に入っていた釣り道具で魚を釣るが、糸にかかった獲物はサメに奪われてしまう。大型貨物船が通りかかったので必死で発煙筒を炊くが、相手は気付かずに、ゆうゆうと横を通り過ぎていく。飲み物も食べ物もなく、希望も失われた。ガラスの瓶に助けを呼ぶ手紙を入れて海に流す。

漆黒の夜の海に遂に明かりが見える。男は最後の力を振り絞ってタライに日記帳をちぎって火を炊く。遠くに見える明かりは近付いてこない。錯乱状態になった男はボートの中にあるすべてのものを火の中に放りこむ。遂に火は燃えあがりゴムボートも燃えてしまう。男は海に身を投じる。静かな暗い海に沈んでいく無抵抗の男。そのとき底のほうから海上に光が差してくる。男は夢中で浮上していく。太い腕が男の腕をとらえる。
というおはなし。

最後の一瞬が感動的だ。この3秒のシーンのために105分の長い長い孤独な映画があったと言える。良い終わり方だ。見事だ。J C チャンドラーによる、76歳のロバート レッドフォード一人登場する映画。老いてもなおこの役者は美しい。
人が山に登るのも、ヨットで単独航海するのにも理由はいらない。人生が充実していてもしていなくても、生活に不満があってもなくても、人は山に登るし遠洋に出る。帰ってこられないかもしれなくても、全然かまわない。人とはそういうものだ。


邦題:「リミット」
原題:「BURIED」2010作品
監督:ロドリゴ コルテス
出演:ライアン レイノルズ
ストーリーは
2006年のイラク。アメリカ人ポール コンロイは米軍のトラック運転手として働いていたが、トラックごとアンブッシュに会って、誘拐された。気がついたときは棺桶の中に身を横たえて、その棺は砂漠に埋められているらしい。棺の蓋は鍵がかかっているのか、重くて持ち上げることができない。真っ暗な中で手探りしてみると、バッテリーが半分になった携帯電話とフラッシュライト、ライター、ナイフなどがある。突然携帯電話にかかってきた男の声に応えると、男は身代金を今夜の9時までに払わないと放置された棺桶の中で死ぬことになる、と予告される。

ポールは米軍国務省に電話して事情を説明するが、米国政府はテロリストとの交渉はいっさいしない。しかし軍の救助班が、君を救助するだろうと約束する。ポールは救助班に電話をつなげる。そうしているうちに近くで爆発音がして、棺桶の角が破損したらしく砂が音を立てて棺に流れ込んでくる。パニックに陥ったポールに向かって誘拐救助班は、、3週間前にもそうした米軍兵士が救助された事例を出して、ポールを安心させようとする。そうするうちに、ポールの雇い主から電話があり、ポールは自分がトラブルばかり起こしているという理由で会社から解雇されていたことを知る。死ぬ前に解雇されたら自分の死後、家族への補償金が一切出ない。ポールはあせる。自分を落ち着かせるように、田舎に居る妻に電話する。「一体何なの?」け気だるい妻の聞きなれた声。そして母親にも電話する。「自分は何も変わりなくやっているから元気でね」と、さり気ない別れの言葉。
誘拐救助班から朗報がもたらされる。「君の居所がわかったから、いまからドリルで掘り出してあげるからね。」ポールは希望を見出す。しかしドリルの音は聞こえてこない。やがて救助班の声、「違った、すまない、本当に済まない。」
遠くモスクからコーランを読む浪々とした声が聞こえる。棺桶のフラッシュライトが消え、漆黒の闇。
というおはなし。

登場する一人きりの役者が、狭い棺桶の中で身動きが極端に制限される中で、誘拐犯、イラクの米軍司令官、誘拐救助班、会社の雇い主、妻、母親などと、携帯電話を通してドラマが進行する。声だけの世界で、映画を見ている人々が、実際の映像をみているかのように豊かな想像ができる。軍人のプロフェッショナルな対応、妻の育児と日常生活に翻弄されている、あまり夫婦仲が良いとは思えない、教養も垣間見られない妻の口調、そして出来の良くない息子にも心優しいが、息子の心を読むことのできない母親。それぞれの性格や生活態度や、ポールとの結びつき方が、絵のようにわかる。95分間が、長く感じない。みごとだ。
究極の密室劇だから、閉所恐怖症の人が見たら気が狂うか、病状が悪化するから見てはいけない。