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2019年3月16日土曜日

映画「ビールストリートの恋人たち」

「二グロルネッサンス」と、アメリカ文学史上呼ばれる時期がある。1920年代のことで、黒人でも「歌ったり踊ったりするだけでなく、芝居も出来るし物も書ける」ことが白人社会に認識されるようになったことが、ルネッサンスだという、白人が白人のために作り出した極めて原始的な規定だ。しかし現実にそうした時期を経た後で、1940年代になって、やっと本格的な黒人作家、リチャード ライトや、ジェームス ボールドウィンが華々しく登場する。

Richard Wright リチャード ライト(1908-1960)は、小説「アメリカの息子」(Native Son)が新聞に掲載されてベストセラーとなり、一躍流行作家となるが、早くから黒人差別社会で知に目覚めた者として,キリストの受難ごとき、差別と苦渋に満ちた人生を送る。彼はミシシッピーの開拓地で,水車小屋で働くシングルマザーの子供として育ち、貧困から基礎教育を受けられず、読み書きの能力を自力で身に着け、黒人は入れない公立図書館の前で、親切な白人が自分のために借り出してくれる本をむさぼり読み、知識を自分のものにする。理由もなしに黒人が白人に嬲り殺されるような南部から、北部に出ることを夢みて、意を決してシカゴに移るが、そこでも「私の毎日は一つの長い静かな、たえず抑えられた恐怖と緊張と不安の夢の連続だった。」(ブラックボーイ)と、言わしめる差別にさらされた。
そこで彼は、全世界の労働者が肌の色に関わりなく団結できる、という呼びかけに魅せられて共産党に入党する。しかし自分がいかに黒人差別をテーマにした小説や論評を書いても、共産党は人種差別問題に関心を払わない。自分の課題とする人間の解放、自由と権利の獲得といったものは無視され続行け、ライトは共産党を去る。マルキストは社会を変革するが、人間を解放しない。ライトは、アメリカ社会に絶望してパリに移り、ボーヴォワールなど実存主義者などと交流しながら、「アウトサイダー」として生き、パリで52歳の若さで亡くなる。

何故リチャード ライトについて書いているかと言うと、彼の存在なしにジェームス ボールドウィンが作家としてこの世に出ることはなかったからだ。リチャード ライトや、ジェームス ボールドウィンの作品は、1960年から70年にかけての米国の公民権運動の高まりとともに、紹介されて広まった。抑圧される黒人の文学が自然発生的にブラックパワーとして湧き上がって社会的に認識された。1990年代、娘たちがマニラインターナショナルスクールに通っていた時、英語の教科書にリチャード ライトの作品「ブラックボーイ」が収録されていた。現代アメリカ文学の代表として、中学校の教科書に紹介されていたのだ。

James Baldwin ジェームス ボールドウィン(1924-1987)は、リチャード ライトの支援を受けて、作家として世に出たが,ライトより16歳若い。ゲイでもあった。ライトと同じように流行作家になり、やがて行き詰まりフランスに渡り、そこで亡くなった。
彼はニューヨークのハーレムで生まれ貧乏人の子沢山、9人兄弟の長男として家庭内暴力と街中でのポリスによる暴行を受けながら成長する。暴力にさらされても、筆で抵抗を試みて、13歳のころからエッセイや小説を書いて、学校が発行する雑誌や新聞に投稿した。公民権運動にも積極的に関わり、マルコムX,マルチンルーサー キング牧師や、ハリー べラフォンテ、シドニー ポアチエ、マイルス デビス、画家のビュフォード デラ二などと交流した。代表作は、「山に登りて告げよ」、「アメリカの息子ノート」、「ジョバンニの部屋」など。

ボールドウィンもライトも、全米に沸き上がり広がりつつある黒人の公民権運動に積極的に関わっていたが、1970年までに、FBIが調査したファイルが、ボールドウィンのは1884ページ、ライトは276ページ、トルーマン カポテが110ページ、ヘンリー ミラーがたった9ページだった、という興味深い数字もある。いつでも拘束して締め上げられるように準備しておくのがFBI長官エデイ フーバーの趣味だったんだな。

ところで、ここでやっとボールドウィン原作の映画の話になる。前置きが異常に長くなったのは、映画の看板に、「ボールドウィン原作のロマンテイックドラマ」と説明してあったので、え、、待てよ、ボールドウィンってそんなに有名で誰でも知っている作家だったっけ、と疑問に思ったからだ。特に1960年代の公民権運動に関心のある人でないと、増してアメリカ以外の国の人だと、そんなに知られていない作家なのではないだろうか。それにロマンテイックドラマなど書いていない。血を吐き出すように、自分が体験してきた黒人差別の痛みと疼きを表現してきた作家だ。映画の「ロマンチックドラマです」という宣伝だけ見ると、ボールドウィンって、ロマンス物ばっかり書いているハーレクインシリーズの作家か、と間違われるかもしれない。別にそれでもいいけど。

映画:「IF BEATLE STREET COULD TALK」
邦題:ビールストリートの恋人たち」
監督:バリー ジェンキンス
キャスト
キキ レイン   :テシュ
ステファン ジェームス:フォニー
レジナ キング    :テシュの母親、シャロン
コールマン ドミンゴ :テシュの父親
マイケル ビーチ   :テシュの父親
エド スケルトン   :警官ベル
マイケル ビーチ   :フォニーの父親

2019年アカデミー賞でテシュの母親を演じたレジナ キングが助演女優賞受賞、GG賞でもレジナ キングが助演女優賞受賞。

ストーリーは
1970年代ニューヨーク
デパートの売り子をしている19歳のテシュと、22歳の大工フォニーは、父親同士が仲が良かったので、子供の時からいつも一緒に遊んで育って来た。テシュが美しい女性に成長し、フォニーが真面目な働き手として独立するころには、二人が恋人同士になるのは、ごく自然な成り行きだった。二人は一緒に暮らすためにアパートを探す。70年代のニューヨークで黒人カップルに、快くアパートを貸してくれる大家は余りなかったが、ユダヤ人の大家は二人の初々しい姿を見てアパートを貸すことにする。
ある夜、白人の経営する食品店でいつものように買い物していたテシュは、白人の若者にしつこい嫌がらせを受ける。怒ったフォニーは、この男を店からたたき出す。それを見たパトロール中に警官ベルは、白人青年に暴力をふるった黒人フォ二ーを逮捕しようとする。そこをテシュとフォニーを子供の時から知っている店主が出て来て、二人は真面目なトラブルなど起こしたことのない子供達だ、と間に入ってその場を収める。しかし、これを根に持った警官ベルは、フォニーに執拗に付きまとうようになる。

じきにフォニーは、ビクトリアという娘をレイプした容疑で逮捕される。被害女性は暗がりで連れ去られたので加害者を見ていない。しかし警察署でこの男だ、と言われて信じて、その通りの供述をした。その時間フォニーはテシュと他の友達と食事をしていたが、事実よりも、現場でフォニーを見たという警官の証言が、採用された。テシュは妊娠していたので、意を決してテシュは両親と姉に告げる。家族はテシュを祝福する。
その後、被害者の女性はプエルトリコに帰国してしまい、裁判は無期限に延期され、フォニーの拘留は長引くことになった。テシュの母親シャロンは、希望を失いそうになる娘とフォニーのために、お金を集めてプエルトリコに飛び、被害女性に会って裁判で証言するように頼み込むが、拒否される。被害者不在のまま裁判は長引き、フォニーは出所できる予定が立たない。裁判で刑期が言い渡されないまま、何年も あるいは死ぬまで刑務所に不法に入所させられている黒人が沢山いた。そういう時代だった。

テシュには元気な男の子が生まれる。以前はテシュ一人で刑務所に面会に通ったが、いまは二人して通う。刑務所の面会室で、自動販売機で買ったサンドイッチを、いまは親子3人で手をつなぎ合ってお祈りをしてから、分け合って食べる。つかの間の家族の小さな幸せの時間が過ぎていく。
というお話。

派手なカーチェイスもなければ、激しいい殴り合いや、喧々囂々の争いの場面もない。激しく笑いこけたり、泣きじゃくったり、怒鳴り合ったりすることもない。
人種差別が当たり前の社会で、意味もなく黒人の若い女が嫌がらせをされ、理由もなく黒人の青年が、白人にヘビのような目で地獄に落とされる、白人中心のいびつな社会だ。そんな中で人々が懸命に生きようとしている。大声を出すことをせず、静かな怒りを胸に秘めて、黙々と耐えて生きている。

映像の光と影の使い方が秀逸だ。色彩が鮮やかで、美しい。
この監督バリー ジェンキンスは、2016年アカデミー賞で作品賞を獲った「ムーンライト」を作った監督だ。これは作品賞だけでなく、助演男優賞にマハシャラ アリが、助演女優賞にナオミ ハリスが獲得した。「ムーンライト」も映像が美しく、海岸のシーンや光の中の木々や風に揺れる花々などの映像美に魅せられた。登場人物の顔の大写しもこの監督の得意技のようだ。役者の心の動きを、表情の変化で上手に捉えている。
「ムーンライト」も、この映画もストーリーはあまり重要ではない。前者は少年の成長がただ淡々と描かれており、とくに筋といったものはないし、この映画も劇的なストーリーなどはなく、ただ幸せなカップルの顔の大写しと、刑務所で面会する二人の心の動きが描かれる。とても抒情的な映画だ。
ドラマチックなストーリー展開が好きな現代っ子だったら2時間余りの映画に、みごとに寝てしまうだろうが、私は好きだ。
作曲家ニコラス ブリテルの音楽が とても心地良い。ジャズとブルースが、静かに嘆きの歌を奏でている。