原題:「A STAR IS BORN」
監督:ブラドリー クーパー
キャスト
ブラドリー クーパー:人気歌手 ジャクソン メイン
レデイ ガガ :アリー キャンパナ
サム エリオット :ジャクソンのマネージャー、ボビー
デイブ チャペル :ジャクソンの友達 ジョージ
アンドリュー ダイスクレイ:アリ―の父親 ロレンゾ
アントニー ラモス :アリ―の親友 ゲイのラモン
マイケル ハーネイ: アリ―の父親の友人で運転手ウォルフィー
ラフイ ガバロン :アリ―のマネージャー レズ
アレック ボールドウィン: TV アナウンサー
「IN THE SHALLOW、SHALLOW」、「IT THAT ALRIGHT」、「I"LL NEVER LOVE AGAIN] などの印象的な曲が映画の中で繰り返し流れるが、今回、ブラドリー クーパーとレデイ ガガの二人の名前で「A STAR IS BORN」というタイトルのサウンドトラックが出た。映画の中で歌われる曲は、みなレーカス ネルソン(ウィリーネルソンの息子)が、レデイ ガガと話し合いながら合作したとされる。映画はブラドリー クーパーが初めて監督した作品。
ストーリーは
カルフォルニア。
アリーは、昼間レストランのウェイトレスをして働き、夜は小さなゲイバーのステージで歌を歌わせてもらっている、シンガーソングライターだ。リムジンカーの運転手をしている父親とその仲間3人の運転手が住む家に同居している。父親は自分がフランクシナトラよりも歌が上手かったことが、唯一の誇りで家ではいつもオペラが鳴り響いている。
ジャクソン メインはカーボーイハットをかぶりジーンズ姿で、ヘビーなカントリーロックを歌う大スターで、彼のステージには何万人ものファンが駆け付ける。ステージに立つ前、彼は酒をあび、コカインを吸う。ステージの爆音で片耳は難聴になっていて、治療を必要としている。けれど彼は、気にしていない。
ある夜ステージの後、飲み足りないジャクソンは運転手に無理を言って車から降りて、小さなバーに入る。そこはドラッグクイーンの店だった。呼び込みの青年ラモン(アリーの親友)に勧められるまま店のショーを見ていると、シャンソン「バラ色の人生」LA VIE EN ROSEを歌う娘がいた。そこで歌い手のアリーとジャクソンは出会う。アリーのもとボーイフレンドに、いちゃもんを付けられ、アリーがその男をぶん殴るハプニングがあり、ジャクソンはアリーを外に連れ出して、殴って赤く腫れたアリーの拳を手当てする。夜明け前のドラッグストアの前で二人は話をする。どうしてシンガーソングライターとしてデビューしないの? アリ―は、「だって私の鼻が大きすぎて不格好なので、人前で歌う歌手としてまだまだだって、人は言うんだもの。」ジャクソンはアリーの額から鼻にかけて指でなぞっておまじないをかける。アリーは、夜空に向かって自分で作った「SHALLOW」を歌って見せる。
翌日はジャクソンのステージがあるので、舞台横で見られる招待券をアリーは渡される。でもアリーは稼がないと生活できない。朝、いつものように職場に着いて仲良しのラモンとウェイターの仕事を始めようとすると、気難しいマネージャーは、いつものように嫌みばかり浴びせかける。頭に来たアリーとラモンは二人顔を見合わせて、その場でウェイトレスとウェイターの服を投げ捨てて、ジャクソンのドライバーが待つ車に、二人して飛び乗る。ジャクソンの個人用の小型飛行機に乗って、ジャクソンの歌う会場に。
ステージでジャクソンは、アリーが駆け付けたことを知ると、「友達を紹介するね。」と言って「SHALLOW」を歌い始める。二人で歌う歌だから、ただ舞台横で見ているわけにはいかない。アリーはラモンに押されて、舞台に進み出てジャクソンとデュエットを歌う。その夜、二人は結ばれる。
これを切っ掛けに、アリーの歌唱力は、大型新人登場としてセンセーションを起こす。ジャクソンは、アリーとの関係を深め、コンサートツアーをすっぽかし、マネージャーに愛想をつかされる一方、アリーは人々に注目されるようになり、イギリス人のマネージャーがつくようになる。順調に売れ出すアリーを後目に、ジャクソンには仕事が来なくなり、酒とコカインの日々が繰り返される。それでもアリーのジャクソンに対する尊敬と愛情は変わらない。もと仲間だった親友の家に転がり込んでいたジャクソンを迎えにきたアリーにジャクソンはギターの弦の端で作った指輪を差し出す。それを見たジャクソンの親友家族は大はしゃぎ。今から結婚しちゃえよ。と、、二人はその日のうちに、彼らに祝福されて結婚する。
アリーの歌が売れ、バックシンガーやダンサーが付くようになり大忙し。仕事が来ないジャクソンに昔のマネージャーが、ボーカルじゃないが、後ろでギターを弾いてみろと言ってくれる。昨日まで自分がスターだったというのに、若い下手な歌手の伴奏を弾く屈辱。
アリーはグラミー賞候補者となる。.授賞式で感謝のスピーチをしているアリ―の前に泥酔したジャクソンが現れる。アリーはジャクソンが祝福に来てくれたと思い、ジャクソンをステージで迎えるが、舞台の真ん中で、酔って意識不明状態のジャクソンはオシッコを漏らす。
そんなことがあってもアリーはジャクソンへの愛は変わらない。アリーに支えられてジャクソンは施設に行ってアルコール薬物中毒の治療をする。回復してこれからアリーと一緒にコンサートツアーに行く予定を立てた。しかしアリーが出かけている間にアリーのマネージャーが訪ねてくる。マネージャーは、アリーの成功を願うならば2度とアリーの前に姿を現すな、と言う。ジャクソンはガレージで首を吊る。
ジャクソンの葬式とお別れ会の会場で、アリーは、「わたしを支えて。ジャクソンを愛してくれた皆さんの力で最後の歌が歌えるように、どうぞ私を支えてください。」と言って、「I"LL NEVER LOVE AGAIN」 を歌う。
というおはなし。
もう、涙ボロボロです。よくあるお話でストーリーが単純。それだけに共感も得られやすい。レデイ ガガの歌唱力、音感の良さ、自作自演で魂を吐露するような歌を歌う様子が素晴らしい。本当に天才的な歌い手だ。そして、彼女の素顔の美しさ。自分の主張をはっきり持った、実力のある歌手だが、彼女がまだ32歳と知って、そのあまりのマチュアなことに驚いた。
生粋のニューヨーカーのシンがーソングライターで、ファッションアイコン。6グラミー賞受賞、世界で最もベストセリングアルバムを出し続けている歌手。女性への暴力と差別に反対するアクテイビスト。癌治療ファンデーションにも、野生動物保護活動にも関わっていて毛皮取引に反対してア二マル柄の服に血を体に塗りたくってパフォーマンスをした事も記憶に新しい。今回トランプ大統領の使命した最高裁判所判事の就任に対しても強い反対声明をしていて、この映画のためにTVショーやインタビューに応じるごとに、この女性差別主義者の判事就任に抗議している。右腕の裏側にトランペットのタットーを入れている姿が可愛い。
映画を監督、主演したブラデイ クーパーは43歳。3年続けて世界で最も高い出演料を取る俳優の一人だそうだ。4回アカデミー主演候補、2ゴールデングローブ賞。長い事テレビシリーズ「セックス アンド シテイ」シリーズに出演して人気を得て、映画「ハングオーバー」2009、「アメリカンスナイパー」2014、芝居で「エレファントマン」を主演。30代でアルコールと薬物中毒で苦しんだ経験も持っている。
この映画は、クリント イーストウッドが、ビヨンセを主演にして映画化する予定だったが、次期イーストウッド監督と言われるブラデイに、バトンが渡されて、レデイ ガガ主演で作られることになったという。
この映画は4回目の「スター誕生」のリメイク。無名だった妻に先を越されたオットが爆沈する筋の映画だ。
オリジナルは、1937年、ウィリアム ウェルマン監督、ジャネット ゲイナーとフレデリック マーチのカップル。30年代のデプレッションから戦争前後の暗い世相のなかで、ノースダコダ生まれの、美人でない、ごく普通の女の子がスターになる夢を見てそれを実現する物語に人々は夢中になったという。映画で夫役のフレデリックが落ち目になって死んでいったことに、人々はさんざんと涙を流した。サイレントムービーの時代だ。ジャネット ゲイナーは最初のアカデミー主演賞受賞者となった映画だが、まだ生まれて無かったから、私は見ていない。
次に出て来たのは17年後の1954年。ジュデイーガ―ランドとノーマン メインが演じた。夫のノーマンも、妻を歌手として成功させた後、自分が売れなくなって、妻がグラミー賞受賞する場で、「俺は仕事が欲しいんだ。」と叫んで、式をめちゃくちゃにした末、飲んだくれて水死する。これも私は見ていない。
その次に22年後 1976年に出て来たのが「A STAR WAS BORN」だ。バーバラ ストレイザンと、クリス クリストファーソン。彼はグラミー賞受賞のステージに酔っぱらって登場して、「この賞は俺が欲しい。」と、これまた絶叫した末、自動車をぶっ飛ばして事故死した。バーバラの歌唱力は素晴らしいが、久しぶりに映画を観てみたら、バーバラの話をする声のピッチが高くてものすごく不快だった。話し声は低くないと説得力がないし、落ち着かない。画面が変わるごとにバーバラが派手な70年代の服をつっかえとっかえして出てくるのも不自然でおかしい。70年代の映画って、こんなだったんだ。映画がほとんど娯楽の中心で、ファッションを先導していた時代だったのだろう。
そしてこの最新版、2018年ブラデイ クーパーの作品が、何とオリジナルからは、81年目に再登場したわけだ。いかに男が外面に反して、内部が弱くて嫉妬深くて、ロクでもないかを示している、、、、のかしら。4人の男が居る。1937年に女房がオスカーを獲ったことで嫉妬して死んだフレデリック、1954年に女房のトロフィーをつかんでダダをこねた末、水死したノーマン、1976年に女房のトロフィーを持って「俺がこれ欲しい」と叫んで車で暴走死したクリス。そして、2018年にステージで泥酔してオシッコを漏らした末、首を吊るジャクソン。こんなことで良いのか。お と こ。
ショービジネスにとって、どんなに歌手が歌い手として優れていても、レコード産業や、関連雑誌やマスメデイアのパペット、繰り人形でしかない。どんなに創意あふれる感受性の豊かな歌い手も、それを宣伝して売り出し、マネージする人無くしては世に出ることができない。またいったん世に出てしまったら自分だけの意志で、歌を作り続けることができなくなる。資本主義、商業主義社会で歌い手がプロであり続けるためには、捨てなければならないものが多すぎる。人を生かすも殺すも商売次第だ。
しかしこういった商業主義的エンタテイメントの世界の冷酷さとは別の、次の課題として、男が女房の尻の下で、自分の尊厳を保って生きて行けるのかどうかという男の課題。人は一人前になるために人気歌手の荷物持ちをして奴隷のように尽くし、やっと一人前になって栄光の時代を迎えても、それは長く続かない。ならば次世代に人気を譲って、落ち目になったら再びバックコーラスで歌うなり、荷物持ちを引き受けるなり、伴奏者になったりしておとなしく仕事を続ければ良いのだ。職業に貴賤なし。女房の収入が多ければ、その尻の下で家庭を支えればよい。定年まで働いてそれなりの業績を残し、退職金は動けなくなった時のためにとっておき、再就職してタクシーの運転手になったり、マクドナルドの皿を洗ったり、ビルの掃除をしたりして、元気で人の役に立っていることを、自分で祝福してやればよいのだ。人はそうやって人生を生きているのではないか。死なないでください。
映画の最後の方で、泣き崩れるアリーに、もとジャクソンのマネージャー(サム エリット)が言う。「アリー、自分を責めちゃだめだよ。悪いのはジャクソン。これはジャクソンの問題なんだ。これがジャクソンの人生だったんだ。」そのとうり。74歳の名優、サム エリオットがかっこよくキメている。ジャクソンは深く深く文字通り子供の様な純粋さで妻を愛していた。だからもう行き場がなかった。死ぬしかなかったのだ。
小さなことだけど、アリーのマネージャーを快く思っていないジャクソンが、ぶしつけに「あんた、ソックス履いてないじゃん。」と言う。イギリス人のマネージャーは、にっこり笑って靴下を履いてないように見えるけど、丁度靴に隠れるように靴下履いてるんだよ。と言って靴下を見せる。いま、ヨーロッパの男のファッション雑誌で、昔みたいに長い靴下を履いているようなモデルは居ない。みんな素足だ。流行に鈍感。アリゾナみたいな田舎からきてカントリーなんて、どんくさい歌を歌ってるアメリカ人にはわからないことだけどね、、、というニュアンスが会話に垣間見られてすこし笑った。
また一瞬だったけれどTVアナウンサーが出て来て、これがハリウッド大物俳優のアレック ボールドウィンだった。これは彼のお遊びですか。端役にも手を抜かないクーパー監督。
アレーの親友のゲイのラモン(アントニー ラモス)が、端役だけれどアリーのことを一番よくわかっている友達として出演していて、彼がとっても素敵。爽やか青年で忘れ難い。こんな人とアレーがずっと一緒に暮らしたら、こんな辛い思いをしなくて良かったのにね。
予定通りクリント イーストウッドがビヨンセで、この映画を撮っていたらどんなだっただろう、と想像してみるのも楽しい。
日本での公開は12月21日だそうだ。
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2018年10月30日火曜日
2018年10月21日日曜日
メッツオペラ「アイーダ」
ニューヨークメトロポリタンオペラ ハイビジョンフィルム2018
作品:アイーダ
作曲:ジョセッペ ベルデイ
イタリア語
上映時間:4時間
指揮者:二コラ ルイゾッテイ
キャスト
エジプト王(バス):ライアン スピード グリーン
エジプト王女アムネリス(メゾソプラノ): アニータ ラチベリシュビツ
アイーダエチオピア王女(ソプラノ) :アンナ ネトレブコ
ラダミスエジプト将軍(テノール): アレクサンドル アントネコ
ラムフィスエジプト祭祀長(バス): デミトリ ベロセルスキー
エチオピア王アモナスロ(バリトン):クイン ケリー
初演は1871年12月 エジプトカイロオペラ劇場。
エジプト総督イスマール イル パシャがヴェルデイの大ファンだったので、当時スエズ運河が開通しオペラ劇場ができたことを記念して、エジプトを舞台にしたオペラを作曲するよう依頼した。
ヴェルデイははじめ相手にしなかったが、総督がグノーとワーグナーにも作曲を依頼するつもりでいることを知って、当時もてはやされていたワーグナーに負けたくなかったので、あわてて引き受けた言われている。これほど重厚でイタリア様式のグランドオペラが、着手から僅か、5か月の速さで完成したとは信じ難いことだが、すでに名声も富も持っていたヴェルデイが、同い年でライバルのワーグナーに負けたくない一心だった、という姿を想像するとおかしくて少し笑える。
おかげでエジプトの高い芸術文化、栄光と偉大さを世界に見せつける絢爛豪華なオペラが完成して総督は大満足だったわけだ。いかに国際社会では、オペラが世界中の裕福な知識人階層や政治家たちや、マスメデイアの目を奪い、知的世界を満足させることが国家にとって大切なことだったかを表している。文化がその国の財産だった、昔の古き良き時代の話だ。 今やオペラ愛好家は減少を続け、裕福な知識人や政治家らは、芸術に興味を失くし、物質主義のギャンブルやドラッグで気晴らしをするだけだ。
第1幕
エジプトの将軍ラダメスと、奴隷のアイーダは密かに愛し合っている。アイーダはエジプト軍に捕らわれたエチオピアの王女で国王アモナスロの娘だが、今は奴隷としてエジプト国王の娘アムネリスの世話係だ。一方のアムネリスはラダメス将軍を片思いしている。ラダメス将軍は国王の命令で軍を率いてエチオピアを討伐に行く。
将軍ラダメスのアリア「清らかなアイーダ」でオペラが始まる。エチオピア軍を降伏させてアイーダが昔育った故郷に帰してあげたい、アイーダの為ならどんなことでもしてあげたいと歌う。
体重が120キロくらいありそうな居丈高な軍装に身を包んだラダメスが切々と歌い上げるテノールの姿に、思わず目がウルウルして騙されそうになるが、何ですか。一体、どこの故郷ですか。敵国エチオピアに攻め入り、アイーダの故郷を蹂躙し国土接収し、軍を壊滅、市民を死傷させ、それでいてアイーダを故郷に帰してあげたいって、どんな故郷だよ、と言いたくなる声はこの際封じておく。
それに対してオペラの設定では20歳というアイーダの方は若いながら、ラダメスよりは多少現実的で、自問自答の胸の苦しみを吐露する。アリア「勝ちて帰れ」の歌詞の概要は、
ラダメス 愛する人 私の父を打ち負かし
祖国と宮殿を破壊して
勝って帰ってきて
ああ神々よ、何て恐ろしい事
私のお父様、あなたの胸に娘を抱いて
エチオピアを抑圧する軍を打ち破って
でもわたしの恋はどうなるの ラダメスの死を願うなんて
二人の愛する方の名前を呼ぶことができないなんて お父様 ラダメス ああ
神々よ わたしの苦しみを憐れんでください
こんな苦しみが晴れることがないのなら、どうぞ死なせて。
舞台の両側は15メートルくらいの高さの石のファラオの立像が立っている。国王の高座はたくさんの巫女で囲まれている。人々は戦いの勝利に祈りを捧げている。それを背景に、第1幕は愛し合う二人のアリアが聴かせどころだ。アイーダの嘆きはオペラの中で何度も繰り返し歌われて、涙を誘う。今回のカップルは大型で、二人合わせると最低体重200キロ以上にはなるだろう。ソプラノは素晴らしい。が、すごくパワフルで、20歳の清純でけなげな元王女様を想像するのは少し難しいかもしれない。
第2幕
「凱旋の歌」で始まり一番のオペラのハイライト。華々しいファンファーレとともに堂々とした国王の高座を前にして、凱旋してきた兵たちが行進をする。それぞれ異なった部族ごとに違うカラフルな戦闘服に身を包んだ兵たちが100人くらい。次々と敵国から奪ってきた珍しい動物の毛皮や絨毯や家具など捕獲品が並べられる。バレエ団のお祝いのダンスを踊る。舞台の上には200人くらいの役者達コーラス部隊が出演している。そこを馬車に乗って胸を張ったラダミス将軍が現れる。大歓声。色とりどりの華やかで派手で晴れやかで楽しい。このオペラの一番の見せ所だ。わたしはこの「凱旋の歌」がオペラの中で一番好きだ。元気が出る。仕事が順調で、思いのほか難しい仕事が片付いたときなど、この歌を知らず知らずに鼻歌で歌っている。気持ちの良い朝、ウォーキングを始めるときも、この歌だ。5キロ歩いて帰ってくる頃には、鼻歌気分ではなく、息が上がってヘロヘロで帰って来る毎日だけれど。
第3幕
エジプト国王は、凱旋したラダメス将軍と娘のアムネリスとを結婚させて,次期国王に任命するつもりでいる。アイーダは、ラダメス将軍が連れて来た捕虜になかに父親を見つけて駆け寄る。第3幕はラダメスとアイーダの逢引のシーンで始まる。しかしラダメスが現れる前に、アイーダの前に父親のアモナストが現れ、エジプト軍の配備をラダメスから聞き出すように頼みこむ。卑怯な国王だ。アイーダはラダメスが国王の娘を結婚すると思い込んで、絶望しているので、やけくそでラダメス将軍に迫って、エジプト軍が配備されていない場所がナバダの谷であることを聞き出す。それを闇にまぎれて聞いていた父親アモナストが現れて、ラダメスに、自分はエチオピアの国王だと名乗りを上げる。一緒にナバダの谷から逃げようと提案するアイーダを前に、ラダメスが軽率にアイーダに逃げ道を教えてしまった自分を責める。アイーダと父親は逃亡し、ラダメスは逮捕される。
ラダメスを愛するアムネリスは、自分を愛してくれるなら、アイーダ父娘の敵を逃亡させた罪を赦してもらえるように国王に話してあげる、自分を愛して下さい、と迫るが、ラダメスは拒否する。頑固な男だ。彼は死刑が確定し生きて石棺に入れられる。しかし石棺になかでは、アイーダが彼を待っていた。二人は抱き合いながら死ぬ。というお話。
舞台が上下2段になっていて、地下の石棺の上が祭壇。ここで巫女たちがアムネリスとともに祈りを捧げている。
ラダメスは男の中の男だ。
ラダメスのことをずっと片思いしてきて結婚することになっていたエジプト王の娘アムネリスが、自分を愛してくれさえしたら王に命乞いをしてあげると申し出て、ラダメスを救おうとする。彼女の愛こそ片思いの純愛だ。なのに、ラダメスは歌う。
あなたに憐れみなど受けたくない
わたしはアイーダのために死ぬことが至上の喜び
わたしの純粋な想いとわたしの名誉は永遠
わたしは卑劣でも罪人でもない
でも軽率だった
アイーダのために死ぬ運命を受け入れる
わたしの心は喜びでいっぱい と。
何て奴。アイーダに頼まれて軍の秘密を洩らしたラダメスは、アイーダに裏切られたのに、アイーダを恨まない。自分だけが軽率だったと言い、逃亡したアイーダを責めず、ただただアイーダが無事でいて欲しいと祈っている。しかし、ね。自分の命を守ろうとする自己防衛は人間の本能ですぜい。自分のことをひたむきに思ってくれたアムネリスに、彼女の思い通りにこれからはあなたを愛します、といえば命が助かるだけでなく明日にはエジプト国王。愛も地位も名誉も富も財産も目の前に置かれて、それでもラダメスは自分を見捨てて父親と逃亡したアイーダを愛しているから、自分は喜んで死罪を受けると宣言するのだ。ああ、こんな男がオペラの中だけでなく本当に居るのなら死ぬ前にお目にかかりたい。
オペラ「アイーダ」の愛の三角関係は、文字通りの正三角形なのだ。3者ともに、カーブも変化球もない直球。アムネリスは、ずっとラダメスを愛していて彼が他の女を愛していても「忘れる」と言ってくれさえしたら赦してあげる寛容な愛で、ひたすら自分を見てくれる日を待っている。アイーダは、一度は父親にたぶらかされるが、ラダミスを愛する気持ちに変わりはない。ラダメスは、アイーダが裏切ろうが、逃亡しようが、そのために自分が死刑になろうとも「ドンウォーリー、アイーダ命」なのだ。まさに正三角形の三角関係。
オペラの中でしか見られなくなった純愛。
否、それほど稀だからオペラにまでなった ということか。
ソプラノでアイーダをやったアンナ トブレコの声がどうしてもマリア カラスの声に重なる。カラスが歌う「勝って帰れ」の哀しい嘆きの歌をCDで繰り返し聴いてきた。カラスの品格のある硬質な声が、比べるとずっと柔らかくて温かみのあるアンナ トブレコの声と中和されて、聞いているととても心地よかった。
土曜日の午後、大きな音響で4時間、たっぷり堪能した。
日本での公開は11月2日からだそうだ。あたたかい飲み物を入れた魔法瓶と甘いお菓子と温かいひざ掛けをもって行かれることをお勧めする。
2018年10月2日火曜日
映画「JIRGA」
監督:ベンジャミン ベルモア
キャスト
サム スミス
シャーアラムミスキム ウスタド
アミ―ル シャ タラシュ
アルゾ ウェダ
イナム カン
音楽:AJ TRUE
オーストラリア軍は2011年から、9.11後の米国によるタリバンへの報復合戦に加担するかのようにアフガニスタンに兵を送り、現在に至るまでアフガニスタン政府に介入してきた。以降、アフガニスタンの市民と軍人を合わせて、戦争被害の死亡者は11万人をはるかに超える。一方オーストラリア兵の戦死者は41名。現在オーストラリア兵は、カブールでアフガニスタン兵、警察官への訓練に携わっている。
2001年の派兵以来、戦闘に関わりのない一般市民が戦闘に巻き込まれ死亡する事故が後を絶たない。イラク湾岸戦争のときも頻発したが、上空偵察機によって人が集まっているところが爆撃されるから、市民が結婚式や親戚の集まりをしている市井の人々が誤爆されて死亡する。一方的で不正確な情報によって攻撃され手、全くタリバンと関係ない人々が亡くなる。「敵」よりも罪のない市民の死亡者数が上回るのだ。
2009年に、オーストラリア軍でも、兵士が狙われて死亡したことで怒って常軌を逸した部隊が、一般家庭に手りゅう弾を投げ込んで、沢山の子供達とその母親たちを死亡させた。部隊長らは、軍隊内警察によって逮捕され、殺人罪を問われたが、裁判開始直前に訴えが下されて、結局誰も罪を問われなかった。2012年にも2013年にもオーストラリア兵によって同じような一般市民と子供が殺される事件が起こったが、裁判には持ち込まれていない。軍隊内の無規範、残虐性と、正義感や良心の不足、軍規のゆるみ、あいまいさ、なれ合いといった軍内部の超保身主義は赦しがたい。
もと兵士の告白で、センセーションを起こしたのは、「武器の置換」だ。彼によると兵隊はいつも余分の銃を持ち歩いていて、間違って丸腰の市民を殺してしまっても、銃を死体と一緒に置いておいて、あたかもゲリラが交戦したのでやむなく殺したように見せかけて罪を逃れるのが普通だ、という。こうして戦争犯罪は常に顔のない、ずる賢い、卑怯者によって闇に葬られる。
悪いのは、もともとはソビエト介入時に、タリバンに武器を供給した米国であり、その後現在でもシリアに武器を売りつけている米国や、サウジアラビア、カタール、フランス、トルコ、ブルガリアといった国々の死の商人たちだ。各国が軍事介入するのは、正義や民主国家建設のためではなく、もうかって儲かって仕方がないからなのだ。
「JIRGA」は、オーストラリア人監督による、オーストラリア俳優主演のアフガニスタンで撮影された映画だ。JIRGAとは、アフガニスタンの伝統的な年配者たちによる会合のことで、これは物事の善悪を裁く裁判所の機能を持つ。
映画のストーリーは
3年前にオーストラリア兵としてアフガニスタンに派兵されていたマイク ウィーラー(サム スミス)は、カンダハーで自分が誤って撃ち殺してしまった男のことが忘れられない。男が倒れ、妻と子供達が泣き叫びながら死体を家の中に引きずり入れていた様子が、繰り返し思い出されて、この家族に自分が貯めて来たドルを渡したいと思ってきた。そして、遂にアフガニスタン首都カブールに戻って来た。しかし、頼みにしていたかつての運転手に、カンダハーはまだタリバンが根拠地にしているところを通らなければ行けないので、危険すぎて行くことができない、と断られてしまう。マイクは仕方なくタクシーで、カンダハーまで行くことにする。しかし、当然タクシードライバーは、危険を理由に乗車を拒否する。しかし、とりあえず観光地だったバーミヤンまで行ってみよう。
二人は出発する。
ドライバーは歌の上手な気の良い老人だ。美しい山々が連なる果てしのない砂塵舞う荒地を車が行く。トルコ石のような美しい湖にボートを浮かべ、湖畔で焚火をたいてドライバーの作る食事をし、夜を明かす。二人の間には長い時間を共有する男同士の友情が芽生える。ドライバーは、翌日にはカブールに帰るつもりでいる。そこをマイクはドル札を手に、ドライバーに頼み込む。カンダハーまで。命かドルか。
ドライバーはとうとう断り切れなくなって車の行先をカンダハーに向ける。しかし予想通りにタリバンによるチェックポイントがあった。マイクはとっさに車から飛び降りて逃亡する。たった一人で、砂漠をドル紙幣をつめたバッグをもって歩くうち、砂漠の熱で脱水して倒れる。
行き倒れのマイクの命を救ったのはタリバンの小部隊だった。根拠地の洞窟で、タリバン兵士たちは討議する。マイクを殺すか、生かしておいて身代金を取るか。タリバン兵士たちは、マイクが自分の罪を償うためにここに来たことを知り、カブールまでの道を教える。マイクは遂に3年前、武装部隊の一員として市民の家を急襲して罪のない村人を殺した村に着く。村の長老たちはマイクの話を注意深く聞く。マイクが殺した男は、村で唯一の音楽士だったという。寡婦となった男の妻は、マイクに靴を投げつけて怒りを表す。長老たちは、長い討議の後、殺された男の10歳になる息子に、どう罪を償わせるか決めさせようと言う。憤怒でいっぱいになった息子は長刀を持ち、いったんはマイクの首をはねようとするが、自分の罪を告白して償いをしようとしている、うなだれオーストラリアから来た男の姿を見て刀を納める。長老は、「報復はたやすいが、赦しは崇高な行為なのだ。」という。
というお話。
この映画を観たのは、アフガニスタンの砂漠を見たかったからだ。すべての文明の源であり、アレクサンダー大王が征服することを夢に見た美しい国。世界で唯一、ラピスアズーリの宝石が産出できる。オランダの画家フェルメールが、この石を砕いて青い服を着た女を描いた、その紺碧の色。
それと全く異なる青、ターキッシュブルーの湖の美しさが例えようもない。世界一美しいと言われるカナダのレイクルイーズよりも優雅で美しい、ミルクが混じった深い深い青色。それから、遠く彼方にそびえる山々、ヒマラヤに続くヒンドゥクシ山脈の5000メートル級の山々、その後ろに7000メートル級の山脈が連なっている。溜息とともに見とれるばかりだ。
この映画の脚本を書き、自らカメラを回し、編集した映画監督ベンジャミン ベルモアは、戦地の危険を避けパキスタンで映画撮影をする予定で、すでに数千万円の前金を払って現地入りしたが、パキスタン秘密警察が映画の内容を知って、不快感を示したため撮影がすべてキャンセルされ、クルーは放り出され、仕方なく危険を承知でアフガニスタン現地で撮影したそうだ。
黒いターバンを巻き、アイラインをひいたタリバンの男達による部隊が砂漠で行き倒れたオージー男を救出して根拠地の洞窟に連れてくるところなど、本当に本当のタリバン部隊やISIS兵に見つかったら、どういうことになったか想像するだけでドキドキするが、そんな命知らずのオージー撮影クルーを、よくやったと言うべきか、愚か者というべきかわからない。
映画のストーリーは単純だ。マイクはオーストラリアの志願兵であり、自ら選んで職業軍人となり、人を殺すこと破壊することを訓練されてアフガニスタンに派兵された男だ。オーストラリアに帰れば ヒーロー扱いだ。軍事恩給が出て、普通に市民より良い生活ができる。3年前に誤ってアフガニスタンの市民を殺したことで、3年もの長いあいだ罪の意識にさいなまれてきた、とは考えにくい。貯めたドル束をもって、いまだ戦争中の現地にもどり、自分が殺した男の家庭に謝罪するなど、もっと考えにくい。嘘っぽい話を美談にしている。
そのオージー男が大事に抱えて国から持ってきたドルを、アフガニスタンの孤児は受け取ることを拒否する。10歳の孤児がすごい。「血にまみれたドルなど要らない」、と彼は言う。「報復しない、賠償を求めない、赦しを与える。」これはもう神の言葉だ。この息子の結論を導き出した村の長老たちも立派だ。「報復はたやすい。赦すことは困難だが人として最も崇高な行為だ。」と彼らは言う。また、マイクがタリバンに捕えられたとき、タリバンでさえマイクのドル束を取ろうとしなかった。彼らは「money is curse」と言った。何と誇り高き男達か。戦争によってドルが飛び交う。ドルなど呪われた存在でしかない。そして10歳の少年の言う通りドルは、blood money で、受け取る価値などない存在なのだ。マイクはドルの札束を砂漠の風にまかせて捨て去り、アフガニスタンの人々に赦されて帰る。とてもアフガニスタンの人々がかっこ良い映画なのだ。
モスクから聞こえてくるコーランも美しい調べだが アフガニスタンの独特の音楽が終始流れて、そこにアフガニスタンの自然描写が観られて美しい。AJ TRUEの作曲した数々の音楽が、絶えることがない。湖を背景に年老いたタクシードライバーが、ハッシッシを吸い、バケツの底を叩きながら歌う民謡が、この上なく美しい。
キャスト
サム スミス
シャーアラムミスキム ウスタド
アミ―ル シャ タラシュ
アルゾ ウェダ
イナム カン
音楽:AJ TRUE
オーストラリア軍は2011年から、9.11後の米国によるタリバンへの報復合戦に加担するかのようにアフガニスタンに兵を送り、現在に至るまでアフガニスタン政府に介入してきた。以降、アフガニスタンの市民と軍人を合わせて、戦争被害の死亡者は11万人をはるかに超える。一方オーストラリア兵の戦死者は41名。現在オーストラリア兵は、カブールでアフガニスタン兵、警察官への訓練に携わっている。
2001年の派兵以来、戦闘に関わりのない一般市民が戦闘に巻き込まれ死亡する事故が後を絶たない。イラク湾岸戦争のときも頻発したが、上空偵察機によって人が集まっているところが爆撃されるから、市民が結婚式や親戚の集まりをしている市井の人々が誤爆されて死亡する。一方的で不正確な情報によって攻撃され手、全くタリバンと関係ない人々が亡くなる。「敵」よりも罪のない市民の死亡者数が上回るのだ。
2009年に、オーストラリア軍でも、兵士が狙われて死亡したことで怒って常軌を逸した部隊が、一般家庭に手りゅう弾を投げ込んで、沢山の子供達とその母親たちを死亡させた。部隊長らは、軍隊内警察によって逮捕され、殺人罪を問われたが、裁判開始直前に訴えが下されて、結局誰も罪を問われなかった。2012年にも2013年にもオーストラリア兵によって同じような一般市民と子供が殺される事件が起こったが、裁判には持ち込まれていない。軍隊内の無規範、残虐性と、正義感や良心の不足、軍規のゆるみ、あいまいさ、なれ合いといった軍内部の超保身主義は赦しがたい。
もと兵士の告白で、センセーションを起こしたのは、「武器の置換」だ。彼によると兵隊はいつも余分の銃を持ち歩いていて、間違って丸腰の市民を殺してしまっても、銃を死体と一緒に置いておいて、あたかもゲリラが交戦したのでやむなく殺したように見せかけて罪を逃れるのが普通だ、という。こうして戦争犯罪は常に顔のない、ずる賢い、卑怯者によって闇に葬られる。
悪いのは、もともとはソビエト介入時に、タリバンに武器を供給した米国であり、その後現在でもシリアに武器を売りつけている米国や、サウジアラビア、カタール、フランス、トルコ、ブルガリアといった国々の死の商人たちだ。各国が軍事介入するのは、正義や民主国家建設のためではなく、もうかって儲かって仕方がないからなのだ。
「JIRGA」は、オーストラリア人監督による、オーストラリア俳優主演のアフガニスタンで撮影された映画だ。JIRGAとは、アフガニスタンの伝統的な年配者たちによる会合のことで、これは物事の善悪を裁く裁判所の機能を持つ。
映画のストーリーは
3年前にオーストラリア兵としてアフガニスタンに派兵されていたマイク ウィーラー(サム スミス)は、カンダハーで自分が誤って撃ち殺してしまった男のことが忘れられない。男が倒れ、妻と子供達が泣き叫びながら死体を家の中に引きずり入れていた様子が、繰り返し思い出されて、この家族に自分が貯めて来たドルを渡したいと思ってきた。そして、遂にアフガニスタン首都カブールに戻って来た。しかし、頼みにしていたかつての運転手に、カンダハーはまだタリバンが根拠地にしているところを通らなければ行けないので、危険すぎて行くことができない、と断られてしまう。マイクは仕方なくタクシーで、カンダハーまで行くことにする。しかし、当然タクシードライバーは、危険を理由に乗車を拒否する。しかし、とりあえず観光地だったバーミヤンまで行ってみよう。
二人は出発する。
ドライバーは歌の上手な気の良い老人だ。美しい山々が連なる果てしのない砂塵舞う荒地を車が行く。トルコ石のような美しい湖にボートを浮かべ、湖畔で焚火をたいてドライバーの作る食事をし、夜を明かす。二人の間には長い時間を共有する男同士の友情が芽生える。ドライバーは、翌日にはカブールに帰るつもりでいる。そこをマイクはドル札を手に、ドライバーに頼み込む。カンダハーまで。命かドルか。
ドライバーはとうとう断り切れなくなって車の行先をカンダハーに向ける。しかし予想通りにタリバンによるチェックポイントがあった。マイクはとっさに車から飛び降りて逃亡する。たった一人で、砂漠をドル紙幣をつめたバッグをもって歩くうち、砂漠の熱で脱水して倒れる。
行き倒れのマイクの命を救ったのはタリバンの小部隊だった。根拠地の洞窟で、タリバン兵士たちは討議する。マイクを殺すか、生かしておいて身代金を取るか。タリバン兵士たちは、マイクが自分の罪を償うためにここに来たことを知り、カブールまでの道を教える。マイクは遂に3年前、武装部隊の一員として市民の家を急襲して罪のない村人を殺した村に着く。村の長老たちはマイクの話を注意深く聞く。マイクが殺した男は、村で唯一の音楽士だったという。寡婦となった男の妻は、マイクに靴を投げつけて怒りを表す。長老たちは、長い討議の後、殺された男の10歳になる息子に、どう罪を償わせるか決めさせようと言う。憤怒でいっぱいになった息子は長刀を持ち、いったんはマイクの首をはねようとするが、自分の罪を告白して償いをしようとしている、うなだれオーストラリアから来た男の姿を見て刀を納める。長老は、「報復はたやすいが、赦しは崇高な行為なのだ。」という。
というお話。
この映画を観たのは、アフガニスタンの砂漠を見たかったからだ。すべての文明の源であり、アレクサンダー大王が征服することを夢に見た美しい国。世界で唯一、ラピスアズーリの宝石が産出できる。オランダの画家フェルメールが、この石を砕いて青い服を着た女を描いた、その紺碧の色。
それと全く異なる青、ターキッシュブルーの湖の美しさが例えようもない。世界一美しいと言われるカナダのレイクルイーズよりも優雅で美しい、ミルクが混じった深い深い青色。それから、遠く彼方にそびえる山々、ヒマラヤに続くヒンドゥクシ山脈の5000メートル級の山々、その後ろに7000メートル級の山脈が連なっている。溜息とともに見とれるばかりだ。
この映画の脚本を書き、自らカメラを回し、編集した映画監督ベンジャミン ベルモアは、戦地の危険を避けパキスタンで映画撮影をする予定で、すでに数千万円の前金を払って現地入りしたが、パキスタン秘密警察が映画の内容を知って、不快感を示したため撮影がすべてキャンセルされ、クルーは放り出され、仕方なく危険を承知でアフガニスタン現地で撮影したそうだ。
黒いターバンを巻き、アイラインをひいたタリバンの男達による部隊が砂漠で行き倒れたオージー男を救出して根拠地の洞窟に連れてくるところなど、本当に本当のタリバン部隊やISIS兵に見つかったら、どういうことになったか想像するだけでドキドキするが、そんな命知らずのオージー撮影クルーを、よくやったと言うべきか、愚か者というべきかわからない。
映画のストーリーは単純だ。マイクはオーストラリアの志願兵であり、自ら選んで職業軍人となり、人を殺すこと破壊することを訓練されてアフガニスタンに派兵された男だ。オーストラリアに帰れば ヒーロー扱いだ。軍事恩給が出て、普通に市民より良い生活ができる。3年前に誤ってアフガニスタンの市民を殺したことで、3年もの長いあいだ罪の意識にさいなまれてきた、とは考えにくい。貯めたドル束をもって、いまだ戦争中の現地にもどり、自分が殺した男の家庭に謝罪するなど、もっと考えにくい。嘘っぽい話を美談にしている。
そのオージー男が大事に抱えて国から持ってきたドルを、アフガニスタンの孤児は受け取ることを拒否する。10歳の孤児がすごい。「血にまみれたドルなど要らない」、と彼は言う。「報復しない、賠償を求めない、赦しを与える。」これはもう神の言葉だ。この息子の結論を導き出した村の長老たちも立派だ。「報復はたやすい。赦すことは困難だが人として最も崇高な行為だ。」と彼らは言う。また、マイクがタリバンに捕えられたとき、タリバンでさえマイクのドル束を取ろうとしなかった。彼らは「money is curse」と言った。何と誇り高き男達か。戦争によってドルが飛び交う。ドルなど呪われた存在でしかない。そして10歳の少年の言う通りドルは、blood money で、受け取る価値などない存在なのだ。マイクはドルの札束を砂漠の風にまかせて捨て去り、アフガニスタンの人々に赦されて帰る。とてもアフガニスタンの人々がかっこ良い映画なのだ。
モスクから聞こえてくるコーランも美しい調べだが アフガニスタンの独特の音楽が終始流れて、そこにアフガニスタンの自然描写が観られて美しい。AJ TRUEの作曲した数々の音楽が、絶えることがない。湖を背景に年老いたタクシードライバーが、ハッシッシを吸い、バケツの底を叩きながら歌う民謡が、この上なく美しい。