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2015年5月31日日曜日

映画「バードマン」舞台は映画より上か


       


原題:「BIRDMAN OR THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE」
邦題:「バードマンあるいは’無知がもたらす予期せぬ奇跡」
監督:エマニュエル ルベッキ
キャスト
リーガン トムスン:マイケル キートン
マイク シャイナー:エドワード ノートン
サマンサ トムスン:エマ ストーン
レスリー トルーマン:ナオミ ワッツ
この作品は、2015年アカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞した。主演のマイケル キートンは、主演男優賞ノミネート、助演男優のエドワード ノートン、助演女優のエマ ストーンは助演ノミネートされた。

ストーリー
リーガン トムスンは、もとハリウッドスーパースターで、「バードマン」という3本のブロックバスター映画を主演し、数十億ドルの興行収入を稼いでいた。しかし、そんな過去の栄光から40年も月日が経ち、妻には離婚され、娘はドラッグ中毒から抜け出したばかり、役者としては鳴かず飛ばずで冴えない。しかし、落ちぶれても役者魂は健全だから、一念発起してブロードウェイで芝居を監督、主演することになった。
芝居はレイモンド カヴァーの短編「愛について語るときに我々の語ること」だ。やっとのことで公演にこぎつけたと思ったら、役者の一人が怪我で降板することになり、ブロードウェイで活躍するスター、マイクが代役を務めることになった。マイクは良い役者だが、わがままで自己中心の芝居オタクだ。監督、主演のリーガンを怒らせてばかりいる。おまけに大事な娘が一番くっついて欲しくないマイクに「ホ」の字で、気になって仕方がない。おかげで初演はさんざんな結果で終わり、批評家からは、ひどく酷評される。それでも一旦始まった興行は続けなければならない。リーガンは芝居に、もっと強い緊張と臨場感をもたせるために、舞台で使う拳銃を本物のけん銃にすり替えた。そして、、、。
というお話。

「舞台は映画より上だ。」と映画の中で、主人公リーガンが言うセリフがある。本当だろうか。
掃いて捨てるほどの娯楽映画が制作され、映画産業は拡大する一方、派手で意味のない映画ばかりが幅を利かせている。そんな中で、良質の映画製作を続けている映像芸術家や映像作家たちは、確かに存在する。彼らが手掛ける先端技術を駆使して、映像、美術、脚本、原作、音楽、舞踊、衣装、フイルム編集すべてを統合した総合芸術として製作される映画というものは、そのスケールの広がりからして、芝居を超えているように思える。
しかし、一方で舞台はやり直しが効かない。舞台と観客との1回きりの真剣勝負だ。ミュージカルに出演(主演ではない、端役だ)している女性と話したことがあるが、舞台前と、舞台がはねた後とでは、体重が少なくとも3キロは落ちているそうだ。それだけ2時間の公演で体を酷使して全身を使って役を演じて体重をそぎ落としているのだ。
また、アマチュアオーケストラでヴァイオリンを弾いていたとき、舞台上では、オペラ「魔笛」をやっていた。冷たい女王とパパゲーノを前に、どっしり貫禄の王様が登場し、その場を収めるシーンで、王様がせりふを忘れた。舞台上の役者たちもオペラを見に来た観客も、沈黙の50秒だか1分だかの長かったこと長かったこと。遅れて王様が思い出して歌い出したから良かったものの、この歌い手はひどいトラウマを抱えたことだろうし、観客は彼らの公演に二度と来ないかもしれない。ことほど左様に、やり直しの効く撮影や、編集でミスを消せるフイルムと、一発勝負の舞台との差は大きいい。同様に、生で聴くオペラは、一流歌手の歌うオペラのCDより価値があるし、ライブミュージックはミュージックビデオより価値がある。

だから、舞台は映画より上だろうか。
そのライブでやり直しの効かない真剣勝負を映画でやろうとしたのが、この映画「バードマン」だ。長廻しのワンテイクカメラワークで映画を撮影した。フイルムを撮っては切って継ぎ足してパッチワークのように継ぎ接ぎしたうえ、CGテクニックを駆使して役者を使わずに動きを加えたり、背景を水増ししたりフイルムテクニックでカバーする。そういった現在の映画作りへの反抗、挑戦でもあったのだろう。ワンテイクだから、一人でも役者がとちったり、タイミングが他と合わなかったら、また初めからフイルムの撮り直しだ。準備不足とか、ハプニングとか、役者がどもったり、つっかえたり、ころんだりするのさえ許されない。カメラが行く先々で、準備万端、約束通りに登場したり、消えたりする役者たちの緊張は筆舌につくしがたいほどではないか。ブロードウェイの雑踏を歩くシーンがたくさん出てくるし、エドワード ノートンが素裸になるシーンも出てくるが、写ってならないものが写らないように、失敗の許されないカメラワークも、緊張の連続だったことだろう。

バックミュージックにドラム音を多用していて、画面に緊張感を与えている。ニューヨークの雑踏でドラマをたたくストリートミュージシャン、これを背景に芝居がうまくいかなくて、どなりまくるマイケル キートンとエドワード ノートンが とてもおかしい。いつまでも芝居バカで、役者狂い、二人ともいつまでも青春やっている姿。それが滑稽なのは、観ているわたしたちにも共通する「いつまでも成長できない自分のなかの青春」を抱えているからだ。

そんな成長できない「男」を、彼の芝居をよく理解して見守っている別れた妻が居る。彼が落ち込んでいるので励ましに来たら、すぐ図に乗って男は、妻とよりを戻そうとして俗物性丸出しにする愚かさ。そしてそんな父親を激しく批判しながらも、深い愛情で観ている若いが人生に疲れたドラッグ娘も、この男には、できすぎた良い娘なのだ。 40年前映画「バードマン」を主演した、かつてのスーパーヒーローというが、彼は自分なりに芝居の道を歩んできたのであって、冷たいが理解のある元妻と娘をもち、ブロードウェイで芝居を続けられる幸せな男ではないか。批評家にこてんぱんに批評されても、妻子にきついことを言われても、芝居のパートナーに演技で追い越されても、良いじゃないか。でも、それを良しとせずに、いちいち脳天から火がでるように怒り、ジタバタして、悩んで、過激に反応するマスター キートンが、とてもとてもおかしい。本当に役者がすべての人生なのだ。喜劇映画じゃないのに、とても笑える。

酔った勢いで芝居評論家に毒付いて暴力的ともいえる詰め寄り方をして、批評で「完全におまえをつぶしてやる、」とまで言わせる。この人は、最後の舞台で銃が放たれたと同時に、席を立って出て行った。このぼやけたシーンが良い。ここで感動した。芝居のパートナーに、「舞台でおまえが玩具の銃で脅かしたって全然怖がってなんてやれねえよ、」と言われて自分の演技に勢いがなくなったのを指摘されたと思い、怒り狂って本物の銃を出してくる、彼のとっ拍子もないアクション。これは何だ。舞台への愛、「舞台:いのち」という男の舞台への深い深い思いを描いた作品なのだ。
舞台の好きな人、役者をやって人の熱狂を体験してしまったことで役者としての昂揚感が忘れられない人、演じることが好きで好きで仕方がない人にとっては、この映画は忘れられない映画になるだろう。

画面が一様に暗くて、全部がいつも「舞台裏」みたいに見える感じで統一されている。
最後のシーンでは、「バードマン」は役者として突っ走っていって飛ぶが、墜落して死ぬと思うけど、「バードマン」は、人々に希望を与え続けていくことだろう。
役者は誰もが「役者ばか」で、役作りに悩み、役になりきって悩み、死ぬまで役者だ。実験的作風で、この監督の「舞台への愛」がしっかり伝わって来た。おもしろい作品だ。

2015年5月24日日曜日

ACOで16世紀のダブルベースを聴く

       


オーストラリアチェンバーオーケストラ(ACO)の定期コンサートを聴いてきた。
メンデルスゾーンを聴くために。オーストラリアに来て約20年。コンサートにはいつもオットか娘たちが一緒だったが、今回初めて一人で行って来た。これからは、一人でコンサートに行くことになるだろう、と思いながら、、、。
娘たちはそれぞれ専門の分野でプロフェッショナルになって自立し、家庭を持って、母親のクラシックコンサートなどには、とても付き合いきれなくなった。それはそれで喜ばしいことだ。 
だが、オットは、腎不全と心臓発作を起こし、腎臓透析を続けることなしに生きられないようになり、閉そく性呼吸器不全でネブライザーと吸入器なしに楽な呼吸ができなくなり、黄斑部変性で視力が落ち、本や新聞が読めなくなり、それらの総合的結果として、杖を使いよちよち歩きで50メートル歩くのが限度になった。
20年前に、「一緒にオペラに行きませんか?」の言葉ひとつで、やすやすと受けてしまったプロポーズを、いまさら後悔しても始まらない。オットが元気だったころは、オペラオーストラリアも、ACOも、シドニーシンフォニーも会員になって定期公演を毎回観ていたから、月に一度はオペラハウスに通っていた。ところがオットはオペラハウスの長い階段が昇れなくなり、徐々に劇場地下の駐車場からエレベーターまでたどり着くだけで、息が切れるようになり、オペラハウスは諦めて、エンジェルプレイスのホールの公演に切り替えたが、2階の正面席に座るとトイレのために階下か階上に行くエレベーターに乗せなければならない。遂にどんなに支えても連れていけないようになった。しばらくは、行きたいのに行けなくなったオットを置いて、一人でコンサートに行くことには、ためらいがあった。

久しぶりにチェンバーオーケストラの音を聴いたら泣けて、ヤバいのではないかと、ちょっと思ったが、そんなことはなく、かぶりつきの席でしっかり聴いてきた。何年か前に同じホールで、何だったか忘れたが忙しくて数か月ぶりでACOを聴き、ベートーベンの交響曲「田園」が始まったとたんに、音のひとつひとつが乾いた心に沁み込んで来て、初めて止まっていた呼吸ができるようになったかのように全身が震えて、涙が次から次へと流れて来て止まらなかったことがある。オペラも、数か月の間、聴く機会を逃していて久しぶりに、「ラ ボエーム」を聴いたとき、はじめのテノールの声で、いきなり涙が吹き出て来て、「ああ、こういう音が聴きたかったんだ、」と思いながら、ホールの暗闇で涙を流したことがあった。あれは何だったのか。

ACOは結成して今年で40年。団長のリチャード トンゲテイのもとに、団員20人の弦楽奏者が集まるオーケストラだ。若い演奏家育成に熱心で、ヤングACOを持っているので全メンバーを合わせると100人余りになる。トンゲテイは例えようもなく美しい音で1743年のグルネリを弾く。コンサートマスターのフィンランド出身 サトゥ バンスカは、1728年のストラデイバリウスを、匿名化から貸与されている。ヴィオラのクリストファ モアは1610年のジョバンニ パオロ マジ二を弾いて、チェロのテイモ ヴィッコ バルグは1729年のグルネリ、バイオリンのマーク イングワーセンは1714年のグルネリ、新しくイケ シーは、1759年のガダニーニを貸与された。彼らのユニフォームは、オーストラリアでデザイナーとしてデビューしで成功した日本人、イソガイ アキラのデザインだ。

曲目は
1) フェリックス メンデルスゾーン: 弦楽シンフォニー9番「スイス」
2) ジョバンニ ボテシーニ: ヴァイオリンとダブルベースのためのコンチェルト
3) ユーゴ ヴォルフ : イタリアン セレナーデ
4) フェリックス メンデルスゾーン: ヴァイオリンコンチェルト Eマイナー作品64

2番目、ジョバンニ ボテシーニ作曲の「ヴァイオリンとダブルベースのためのコンチェルト」が、とても良かった。初めてACOが、16世紀のダブルベースの演奏をお披露目してくれた。
これを作曲したボテシーニ(1821-1889)は、貧しいイタリアの音楽好きの家庭に生まれ育った。ミラノ音楽大学に入り奨学金を受けるのには、ダブルベースのポジションしか空いていなかった。だから彼はダブルベースを初めて大学で手にする。そしてすぐに立派な奏者となり、イタリア国内だけでなくウィーンで人気を得る。9つのオペラやレクイエムなどを作曲し演奏家としても作曲家としても成功する。彼は古楽器のダブルベースを再現して、好んで演奏した。むかしダブルベースは、3弦しかなく、ネック(指盤)は今のものよりずっと長かった。彼が、3弦の古楽器ダブルベースを初めて弾いたとき、「100羽のナイチンゲール(夜鷹)が鳴いているかと思った、」そうだ。パガニーニとも親交があり、古楽器の演奏を普及させた。

この古楽器を、ACOのダブルベースの演奏者マキシム ビビアウが、何度もイタリアとオーストラリアを往復して、パトロンの協力を得た末、遂に名器ガスパロ デ サルーを手に入れた。こういった経過が公共ニュースABCで報道されたから、これを見たくてこのコンサートに来た人が多かったようだ。作曲家ボテシーニが演奏した16世紀の古楽器ダブルベースが、今回のコンサートでACOのマキシムによって再現されたわけだ。
さて、ガスパロ デ サルーだが、これがとてつもなく大きい。普通のコントラバスの2まわり大きいうえ、ネックが長い。カナダ生まれのオージー大男のマキシムが手にしていると大きさがわからないが、ヴァイオリンとの二重奏になると、たちまちベースが巨大に聳えたって見える。ネックが長いので、駒のちかくでハーモニックスを弾くと、ダブルベースとは思えない、驚くほど高音の澄んだ音が出る。マキシムは、高音からおなかに響く低音まで、自由自在に広い音域を奏でていた。

ゲストヴァイオリニストのアメリカ人、ステファン ジャッキーは小柄で色白の美男子、ジュノンボーイか。彼の長くて白い白い指はしなやかで美しい。小柄で美しいヴァイオリニストと、どでかいオージーのダブルベースが二重奏を始めた途端、これがダブルベースとはとても信じられない音域とテクニック。ヴァイオリンとヴィオラかと思った。二つの音が、ぴったり寄り添って素晴らしいハーモニーを奏でてくれた。とても感動した。

最後はチェンバーオーケストラをバックに、ステファン ジャッキーの独奏によるメンデルスゾーン(1809-1847)のヴァイオリンコンチェルト作品64。とてもとても有名な曲だから、クラシック音楽が嫌いな人でも、聴けば、ああーこれか、とわかる曲だ。第1楽章アレグロ モルト アパッショネイトも、第2楽章アンダンテも、第3楽章アレグロもみんな有名。
メンデルスゾーンは裕福な名家に生まれ、天才的哲学者モーゼ メンデルスゾーンを祖父にもち、音楽家家庭に育った。10才でカール フレデリック ゼルターについてヴァイオリンを習い、ゼルターの親友だったゲーテに詩を教わって育つ。12歳で作曲を始め、15歳で交響曲を作曲、ウィーンでアイドルとなる。15歳で作曲したオペラのリハーサルの時、ゼルターに、「彼はモーツアルト、ハイドン、バッハと並ぶ歴史的な最もすぐれた音楽家として認められるであろう。」と紹介される。

このヴァイオリンコンチェルトは、メンデルスゾーンの親友だったヴァイオリニスト、フェルデイナンド デヴィッドのために作曲され、1838年に書き始めらたが、そのころメンデルスゾーンはドイツと英国の6つの音楽祭の総合監督に指名されており、バッハとシューベルトの作品をリバイバルさせるために力を注いでおり、おまけに、プロイセンのフレデリック ウィルヘルム国王の要請でベルリンでも活動していて、多忙を極めていたので、たびかさなるデヴィッドの催促に応えることができないでいた。作曲が完了し、親友のフェルデイナンド デヴィッドによる初演が実現したのは、彼が書き始めたときから7年が経っていた。デヴィッドのためにカデンッアがいくつも入った華麗なコンチェルトだ。7年かけて、練に練られ細部まで完璧に作られた1845年に完成したコンチェルト。ステファン ジャッキーは、繊細で水が流れるようなスピードと素晴らしい技巧をもって演奏した。

これからも、この作品は沢山の天才と呼ばれる努力家たちによって、何世紀も何世紀も、ひき続き演奏し続けられることだろう。これは本当に本当の、永遠不滅の名作だ。
コンサートが終了して、25ドルのホール地下の駐車料金をケチって路上駐車したパブまで歩く冬のシドニーの深夜ひとり。外気が冷たくて、星も月も見えないがメンデルスゾーンのメロデイーが胸に中で鳴り響いていて、ほっこりあたたかい。良い夜だ。

2015年5月17日日曜日

映画「若さの証明」反戦映画について

                  
       
今年は第一次世界大戦開戦から100年目にあたる。また、第二次世界大戦の終結から70年周年になるので、節目の年というわけで、ヨーロッパでは戦勝記念祭や、記念追悼祭など、大規模な記念祭があちこちで開催された。5月9は、第二次世界大戦の終結記念日だったが、丁度、イギリスでは総選挙が行われていて、結果が保守派の圧勝に終わったために、反保守派が街頭で抗議デモを行い、一部は暴力化した。また女性兵士の記念碑が、落書きされて無残な姿になって発見されて、大きくニュースで報道された。

第二次世界大戦は日本にとってアジア諸国への侵略戦争以外の何物でもなかった。旧満州国、中国、台湾、韓国、シンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシア、タイ、チモール、ニューギニア、サイパン、テニアン、グアムなどに侵攻し、日本軍は、軍民合わせて1900万人の人々を殺した。靖国神社には、200万人の日本兵犠牲者を祀っているが、アジアの1900万人の犠牲者に対して、政府は何もしていない。侵略したことについて、政府は誠意ある謝罪をしていかなければならないと同時に、当時の日本人兵士に対しても、謝罪し足たらない。誰もが喜んで戦地に向かった訳ではない。日本兵230万人のうち、140万人は餓死したのだ。戦場であったこと、人々が経験してきたことを、読み、観て、語り続けることが、今ほど大切な時はない。

戦争は人々の命を奪い、その時代を生きた人々の人生をことごとく変えてしまうものだから、ドラマにも映画にも、オペラにも、バレエにもなっている。ドキュメンタリーを除くと、戦争映画を背景にしたイギリス映画でもっとも印象深い傑作というと、「哀愁」があげられる。アメリカ映画だが、背景も登場人物もロンドンでイギリス映画といって許されるだろう。主演、ビビアン リーとロバート テイラー。若いイギリス軍将校とバレリーナの悲恋物語だ。「風と共に去りぬ」で一世を風靡したビビアン リーの初々しい美しさに見とれずにはいられない。こういったいわばメロドラマを、アメリカが戦中や戦争直後に平気で制作していることを考えると、国力の差を思わずにはいられない。まだ日本では人々が瓦礫の上で飢えていた時期に、ハリウッドではメロドラマを作る余裕も需要もあったのだ。
印象に残る戦争映画の中で、アメリカ映画では、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」があげられる。フランス映画では、ルネ クレマンの「禁じられた遊び」、イタリア映画では、「ひまわり」。これはマストロヤンニと、ソフィア ローレン主演。どれも不滅の名作、反戦映画の最高峰だろう。

映画 「若さの証明」 邦題はまだ未定
原題:「TESTAMENT OF TOUTH」
原作:ベラ ブリテン作 「TESTAMENT OF YOUTH」
キャスト:ベラ:アリシア ヴィカンデル
      兄エドワード:タロン エガートン
      ロナルド:キット ハリントン
      ヴィクター:コリン モーガン
      ジェフリー:ジョナサン バレリー
ストーリーは
1910年
英国ヨークシャーの旧家に生まれ育ったベラ ブリテンは、利発で行動的、オックスフォード大学に通う兄、エドワードととても仲が良かった。女の子は屋敷の中でピアノを弾き、刺繍をし、親が決めた結婚に従う、といった世の習慣のなかで、両親はベラに女らしい生き方をして欲しいと願っていた。しかしベラは書を愛し、詩をたしなみ、大学に行って文学を勉強したいと願っている。兄エドワードには、親しい大学の学友が何人もいて屋敷にも、よく出入りしていた。ロナルド、ヴィクター、ジェフリーなどの青年たちだ。彼らはみな、美しいベラに好意と、ほのかな恋心をい抱いていた。中でも作家志望のロナルドは、ベラの文才を認めて、ベラに書くことを強く勧める。そして遂に、ベラは両親の反対を押して、オックスフォードのサマービルカレッジに入学する。

しかしその年に戦争が始まる。ロナルドは、真っ先に戦場に送られる。ロナルドに惹かれていたベラは、自分だけ大学で勉強を続けていることに、居たたまれなくなって、休学届を出して、志願して訓練を受け、ロンドンの病院で戦傷者を看護する。しばらくして、戦場から一時ロナルドが帰ってきた。大喜びで彼を迎える家族やエドワード、ヴィクター達だったが、ロナルドはすっかり人が変わっていた。戦場の厳しさは、彼から希望や人間らしい感情を奪い去ってしまった。ベラは必死でロナルドに語り掛ける。そして、時間を取り戻し、正気をとりもどしたロナルドとベラは婚約する。しかし、彼は再び前線に戻っていく。べラは、ロンドンの病院で、ただロナルドを待つことができなくなって、自分も西部戦線 最前線の野戦病院に、従軍看護婦として志願して行く。そこは、地獄のような戦場だった。 そしてクリスマス休暇に戦線から一時帰るというロナルドの知らせを待つ、ベラと家族に送られてきたのは、ロナルドの戦死の知らせと血にまみれた軍服だった。

ベラは、北フランスの戦場に戻る。傷を負い失明した兵士が運ばれてきた。兄エドワードの親友ヴィクターだった。ベラの懸命の看護で回復してきたヴィクターに、ベラは、「戦争が終わったら一緒に住みましょう。」と提案する。ヴィクターはベラに婚約者がいると嘘をついてきた。ヴィクターはベラに会ったその日からベラを愛していて、ロナルドへの遠慮から嘘をついてきたが、いま愛するベラからプロポーズを受けているのだった。その夜、ヴィクターは、自ら銃で頭を撃ち自死する。失明したヴィクターにベラを幸せにできる自信がなかったのだ。エドワードの別の親友ジェフリーも戦死した。
やがて、野戦病院では収容できないほどの傷病者が、テントの外のぬかるみにまで運ばれて、並べられるようになっていた。その中に、べラは出血多量で意識のない兄、エドワードを見つける。ベラの懸命な看護で、エドワードは傷を癒し、また戦場に帰っていく。ベラは、母親急病の知らせを受けて、ヨークシャーの故郷に戻る。そこで、すっかり衰えた両親と、自分を待っていたのは、兄エドワードの戦死の知らせだった。ベラはみんな失ったのだった。
ベラはロンドンの大学に戻る。4年という歳月がたっていた。戦争が終わった。ロンドンは終戦を喜び祝う人々で浮かれ沸き立っている。しかしベラの顔に笑顔はない。
というお話。

映画の最初にシーンにすべてが語られている。
例えようもないヨークシャーの田園風景の美しさ。深い緑の池、樺の木々、一面の緑、咲き乱れる野の花々、水仙が咲き誇り、ラベンダーが香る美しい田舎。そこをエドワードとベラ、ロナルドとヴィクターがふざけながら、おしゃべりに夢中で歩いている。ベラは兄と一緒に大学に行って勉強し、自分の人生を自分の手でつかみたい。そんな時代を先取りしたような18歳の少女を熱のこもった目で見つめる青年たち。若者たちの命の躍動。みなベラにとっては大切な家族のような存在だったのだ。そんな未来のある若者たちを一人残らずベラは失う。激しい号泣や、諍いや、争いなどなく、ただ悲しいことだけが続いていく。そういった事実をベラが淡々と受け入れながら、歩んでいく。静かに時が流れ、ヨークシャーの美しい自然だけが何も変わらずに、春を迎えている。セザンヌの印象画をみているような美しい光景が続く。

抒情的で美しい映画だ。
ベラの半自叙伝。まだ女性が高等教育を受けることが珍しかった時代に、ベラはオックスフォードで文学を学び、戦時中は看護婦として最前線の野戦病院に行き、そのことごとを書いた。女性による戦争従軍記録として、彼女の著作は英国で高く評価されている。日本では与謝野晶子の時代。野上弥栄子、林扶美子、円地ふみこ、岡本かのこ、宮本百合子などが物を書き出すのは、もっとずっと後のことだ。

スウェーデン人の女優アリシア ヴィカンデルが、とても美しい。同じスウェーデン出身のイングリット バーグマンに共通する知的で硬質な美しさだ。深い悲哀を胸に秘めて前を向いて歩んでいく姿が健気で清々しい。細くて頼りなげだが、柳の枝のようにしなやかで強い。とても勇気付けられる映画だ。どんな時代でも、自分の足で生きようとする女性の姿に尊敬と敬愛の思いが湧き上がる。

2015年5月6日水曜日

バリナインの処刑について


                  

2005年に、インドネシアのバリで起きた、9人のオージーによるヘロイン密輸事件で、首謀者と認定されたアンドリュー チャン(31歳)と、ミュラン スクマラン(34歳)の二人が、この4月29日に処刑された。犯行当時二人は、21歳と24歳、チャンはシドニー生まれ、スクマランはロンドン生まれのオージーだった。9人の若者達は10年前、自分たちの体にヘロインをガムテープで巻きつけて、インドネシアに入国しようとして、バリの空港で逮捕された。これを「バリ ナイン」と言っていた。

チャンとスクマラン二人のついて、最高裁で死刑が確定してからのオーストラリアのマスコミの過熱ぶりは目に余るものがある。二人の家族への密着報道、銃殺刑が執行される島の紹介、処刑後の棺から、墓に立てる十字架まで国営放送だけでなく、すべてのマスメデイアが、狂ったように現地報道合戦を続けた。本人たちや家族のプライバシーなど、この数か月間無きに等しかった。

これに輪をかけたように、オーストラリアのトニー アボット首相と、ジュリー ビショップ外相は、インドネシア大統領に「恩赦」を繰り返し、繰り返し願い出ていた。グリーン党まで死刑反対の見地から、インドネシアに圧力をかけていた。「恩赦」も「嘆願」も「懇願」もここまでくると「押しつけ」、「強要」、「脅迫」に近かったと思う。死刑が決行されたことで、インドネシア大使は、さっさとオーストラリアに帰ってきてしまい、大使館を留守にしている。大使の引き上げだけでなく、国交断絶までにおわせるような勢いだが、これは、常軌を逸している。

死刑と言う懲罰は、何も生まない。死刑制度には反対だ。たかが14キロのヘロインのために二人の若者の命を断ち切る必要も価値もない。そういった見せしめによって、ヒロインの密輸が無くなるとは思えない。だから二人の死刑には反対だった。

しかし、インドネシアとしては法に従い、最高裁の決定した刑を執行したに過ぎない。ジョコ ウィドト大統領は、ジャカルタ市長だったときから、市民の味方として汚職を追放し最低賃金を上げて市民の生活を守る努力をして人気を獲得し、大統領の座に就いた。彼は従来の大統領のような軍出身者でも、官僚エリ―ト出身でもないから、政敵に囲まれている。いま司法が決定した刑を大統領一人の恩赦で覆したりしたら、国内の反対勢力が黙っていない。手ぐすねを引いてジョコ ウィドトを大統領の座から引きずり下ろそうとしている、汚職まみれの官僚と手を血で汚した軍人が待ち構えている。どんなにオーストラリア政府関係者や、ヒューマンライツや、宗教関係者が「恩赦」を願っても、大統領としてはそれを聞きいれる選択肢はなかった。
インドネシア政府は、法に従い、正しいことをした。大統領が「恩赦」に応じなかったからと言って、怒って大使を引き揚げたりして、子供じみたヒステリーを起こすのは止めた方が良い。子供が親に無理難題を押し付けて、親が応じないと怒って床に転がって駄々をこねる幼児を思い起こさせる。
 
それよりも、なぜ、これほどオーストラリア政府がインドネシア政府を露骨にたたくのか、そして、なぜ「今」なのかを、冷静に考えた方が良い。
数か月、人々が「死刑だ、銃殺だ」とマスコミに踊らされていた間、すっかり忘れ去られていた人々が居る。インドネシアの小さな港から、壊れかけたボートに乗ってオーストラリアを目指してやってきていた、シリア、イラク、などの国から戦火を逃れてきた亡命者、避難民だ。トニー アボット首相は、これらの人々を海上で見つけて、コーストガードを使ってインドネシアに送り返している。舟が途中で沈もうが、火災を起こして乗っている人々が海の藻屑をなろうが、知らぬふりだ。

5月2日、3日の週末2日間だけでイタリアのコーストガードが救出、保護したアフリカからの難民の数は、6000人に上ったと報道された。国内経済よりも、人命救助人命尊重を第一としているイタリア政府の爪の垢でも、トニー アボットに飲ませたい。

バリナインの人命救助ばかりに人々の目を向けさせて、何百人何千人の難民から目をそむけさせているオーストラリア政府の右傾化には注意が必要だ。インドネシアは、人口2億3000万人、世界第4位の大国だ。世界最大のイスラム人口を持つ国でもある。オーストラリアは、いまアイシスと戦うために、まっさきにイラクに軍を送りだし、米軍との共同軍事演習を繰り返し、高価な戦闘機を購入し、着々と戦時体制を整えている。難民をシャットアウトして、国民意識を高め、愛国心を強調している。10年前のオーストラリアの空気と今の空気は、全く異なる。日本もそうだが、世界中一体、どこに行こうとしているのか。国境線が高くなってきている。危険な兆候だと思う。