2016年9月26日月曜日

映画 「スノーデン」

     


原題:「SNOWDEN」
監督: オリバー ストーン
キャスト
エドワード スノーデン : ジョセフ ゴードン レビット
リンゼイ ミルズ     : シャイリー ウッドリー
ドキュメンタリー作家ローラ ポイトラス: メリッサ レオ
ガーディアン・グレングリーンウオルド : ザーカリー クイント

ストーリー
エドワード スノーデンは2004年、大学を離れると、ごく普通のアメリカ合衆国市民としての愛国心から、軍隊に志願する。日本のアニメやコンピューターゲームにはまって、オタク少年時代を過ごし、インターネット上で新しいゲームのソフトを開発するなどに時間を費やして高校も大学も中退してきた。ここで 軍人になって心身ともに鍛え直してみたい、という訳だ。しかし彼は、軍事訓練中に事故で両足を骨折して、軍人になる夢を捨てざるを得なかった。
そこで彼は米国中央情報局(CIA)に面接に行く。CIAは9.11のあと、局員を大幅に増員する必要に迫られていた。運よくスノ―デンは採用される。新人として訓練を受け始めて見ると、スノーデンのコンピューター技術が、ずば抜けて優れていることがわかり局長から目をかけられてシステムエンジニアとして重宝されるようになる。

彼はCIAと、NSA(国家安全保障局)で、コンピューターセキュリテイーの業務に就いて、スイスのジュネーブや日本の横田基地に派遣され情報収集業務に携わる。日本では中国からのサイバーアタックから防衛するための技術を開発 指導していた。優秀な仲間たちに恵まれ、私生活では、カメラマンの恋人と一緒に暮らすようになり、技術者として公私ともに順調だった。高額のサラリーも保証されている。アメリカ合衆国大統領選挙が行われ、グアンタナモベイ収容所の閉鎖、核兵器縮小を提唱するバラク オバマが大統領選挙で勝ち抜いた。スノーデン自身は共和党支持者だったが、尊敬するジョン マケインがオバマを支持するならそれが良いと考えていた。

しかし、すべてが順調という訳にはいかない。CIAとNSAの情報網は、とどまることなく拡大されて、テロの要注意者だけでなく全世界の普通の人々まで監視する体制が出来上がっていた。フェイスブック、ツイッター、アップル、マイクルソフト、ヤフー、グーグル、パルトーク、ユーチューブ、スカイプ、AOLなど、すべての民間通信企業がNSAに協力していた。これでは世界中に使用者の信頼を裏切っていることになる。CIA,NSAの盗聴システムの前では、個人の秘密など何も許されない。自分が上司に提供した情報によって、親しくなった友人がCIAの罠にはまって、家族を失うなどの不幸に陥る姿を目の当たりに見て、徐々にスノーデンはCIAとNSAの存在そのものに疑問を抱くようになる。
疑問を口にしただけで、今度は自分が恋人との友人関係や家の中での会話までがボスによって盗聴の対象になっていることを知って、スノーデンは、世界中の人々が自分たちが知らずにいるうちに私生活が盗聴され情報収集されている事実を公表しようと決意する。

休暇を取り、恋人を実家に帰し、ドキュメンタリー映像作家ローラ ポイトラスと、英国ガーデアン紙記者のグレン グリーンウオルドに連絡を取り、香港で合流、CIAとNSAのやっている膨大な秘密情報を暴露する。

という事実に基ずいた半ドキュメンタリー映画。社会派の監督オリバー ストーンが制作した。
事実、スノーデンの2013年5月のCIAの実態暴露は、世界中を震寒させた。CIAは世界中のインターネット民間企業の協力を得てインターネットと電話回線を通じて個人の情報を個人の了解なしに盗聴、情報収集していただけでなく、各国大使館と 同盟国であるフランス大統領やドイツ首相の個人パソコンデータや携帯電話の盗聴までハッキングしていた。これをはじめのうちは、オバマ大統領も知らなかった。あきらかに国家犯罪だ。
スノーデンは米国から拘束されることを避けるため、香港から脱出、アイスランドに政治亡命を求めるが拒否され、ベネゼイラのチャンドス大統領による亡命受け入れ、エクアドル政府の亡命申請受持、などを経て、ロシアに向かう。この間のスノーデンの命を懸けた逃走劇には本当にハラハラし通しだった。毎日、ニュースにかじりついていた記憶がある。スノーデンはモスクワ空港のトランジットというロシアの司法権力が及ばない場で、アメリカのスノーデン拘束要求にも応じず、ジュリア アサンジのウィキリークの援助と支援、弁護士のアドバイスを受けながら、ロシアとの交渉を続けた。

私たちは、いまウィキリークのジュリアン アサンジに対して米英豪諸国がどんな卑劣な方法で、彼をロンドンのエクアドル大使館に幽閉させて、彼の口を封じようとしているかを知っている。アメリカ軍事情報を公表したとして、秘密軍事裁判と秘密軍事監獄で、いまもチェルシーマニングがいかに厳しい懲罰で苦しんでいるのか知っている。だから、スノーデンがCIAの手に落ちたらどんなことになるか、子供でも先が読める。国家犯罪を暴露した、勇気ある人に安全で安泰な一生は保証されない。

映画ではスノーデンが秘密情報をマイクロチップにコピーして持ち出すスリル満点のシーンと、ドキュメンタリー映像作家ローラ ホイトラスとガーデアングレン グリーンウオルド記者と合流して、記事が発表されたあと、香港を脱出するまでの、スパイ映画的ドキドキハラハラシーンが、見所になっている。初めて、ことの細部を映画で知らされて、なるほどと、頭の良いスノーデンに舌を巻く。世界中から集まって選りすぐりのスパイ養成所と化したCIAで働く優秀な仲間たちは、数か国語を操るなど、当たり前。そんな彼らの職場を、これまた上部機関が盗聴しているが、仲間と手話で会話するなど、スノーデンは、自分の多才な能力を発揮する。CIAオフィスには入る時も出るときも全身スキャンで口の中から肛門まで調べつくされる。厳戒ゲートからいかに、秘密情報をコピーしたマイクロチップを持ち出したのか。小さなミス、ちょっとした不自然さがあったとしたら、今日の私たちが知らされたCIAの国家犯罪は、知らされることなくスノーデンの命は闇に葬られていた。勇気あるスノーデンは現代の英雄といって良い。

さて、私たちはいま毎日使用しているインターネットと携帯電話を通じて「まるはだか」にさらされていることが分かった。CIAの検閲システムで、電話をすれば通信者の名前、住所、相手の名前、住所、居所、通信内容の録音、通話に利用されたカードなどを、たちどころに知られる。インターネットメール、チャット、通話ヴィデオ、写真、ファイル転送、ヴィデオ会議の録画、スカイプ、そこから割り出された親族、友人たちの住所、職業、銀行口座、給料、ホリデーの予定まで すべての情報を把握されている。おまけに、自分だけでなく、自分が会ったこともない遠い親戚が どっかの国で浮気性の男に騙されてお金をむしり取られていることや、友達の友達がテロリストの友達に繋がっているかもしれないことまで、ハッキングされている。私が知らない私まで敵は知っているわけだ。

映画のなかで、こんなシーンがある。スノーデンは恋人に、国がすべての私生活をハッキングしている、と打ち明ける。恋人にはその「意味」が解らない。なぜそれがいけないの?私には秘密なんてないわよ。あなたを本当に愛しているから疑ったりしないで。わたしたちは幸せじゃないの、と。スノーデンは、説得をあきらめる。 言ってもわからない。
国によって「まるはだか」にされた人々が、秘密なんてないから見られても大丈夫、と言って声を上げないでいると、おとなしいヒツジの群れは兵器産業の意向通りに意味のない戦争に駆り立てられ殺されていく。国は国をテロから守るためと言っているがそれは口実に過ぎない。国がハッキングして掌握した情報は、人々をコントロールするために使われる。情報を沢山持つ国が、世界を掌握する。社会全体が情報収集されることによってコントロールされる。私たちが私生活を侵害され「まるはだか」にされていることが問題なのではない。そういった人々の情報を、国が収集することで国によって社会全体がコントロールされて、方向付けられることが問題なのだ。

スノーデンは、もともとは共和党支持者でアメリカ合衆国憲法の基本理念である「リバテイ」自由を自分の信条としていた。個人の自由が守られる国でなければならない。国は個人の了解なしに個人の私生活を脅かしてはならない。強い個人の自由なしに、それを支える国はありえない。そういった強い信念がいまに至ったのだと思う。
現在スノーデン本人のツイッターアカウントを、世界中のフォロワーが見守っている。彼の出す情報は瞬時に世界中の支持者の間に広まる。私たちにできることは、スノーデンやジュリア アサンジやチェルシー マニングを支持し、国による情報収集。盗聴、ハッキングの監視システムを壊すこと。マスコミの垂れ流す情報をうのみにせず、草の根の情報を大切にすること。国による特定秘密保護法を廃棄させること。など、たくさんある。
とても良い映画だ。

https://www.youtube.com/watch?v=X41bfQa7xFQ

2016年9月3日土曜日

大内姓が嫌いだ


                  
大学1年の頃、会う男会う男に「ねえ 結婚してくれない?」と聞いていた。大内の名前が嫌で嫌で、どんな男でもいいから結婚してもらって苗字を変えたかった。
父は早稲田大学政治経済学部で教務主任をしていて、大口昭彦早大全学連委員長を退学させたばかりだった。伝説になるほどやぼい学生服にゲタ姿の大口さんは正義の味方ヒーローだった。

ベトナムの民衆は何十年も独立戦争を戦っていた。米国軍の北ベトナム爆撃は激しさを増し、ナパーム弾でベトナムの山林を焼きつくし、ベトコンなどと共産主義者のレッテルを張り付けて女子供を殺しまくっていた。沖縄の米軍基地はベトナム攻撃への出撃基地だったし、東京の王子には野戦病院が建てられ、新宿を米軍爆撃機のための燃料を運ぶ列車が通過し、佐世保には原子力潜水艦が入港し、国内の米軍基地では、ベトナムで戦死した手足や頭のない米軍兵の死体がきれいに作り直されて、ジェット機で米国に帰っていく。日本も戦場だったのだ。
私が初めてデモで逮捕されたのが大学1年、1967年11月だったが、悪いことなどしていない。こんな悪い米国大使館に石を投げて何が悪いか?
18歳で未成年だったから未決釈放になって、父が警察署に迎えに来てくれた。「ごめいわくをおかけしました。」と、頭を下げたら父は無言でチョコレートを差し出して、ニッと笑ってくれた。その前、高校時代も何度か父は学校に呼ばれていた。フォークソングのレコードを貸し借りしたり、校長のお話の時間に屋上でギターを練習していた、とかいう人畜無害、清廉潔白のなんでもない事で、親を呼びつける、とんでもない学校だった。ろくでもないことで私のために父は呼ばれ、自分が大学で教えた昔の教え子に頭を下げることになって、口惜しかったのかもしれない。

結局大学1年の時に家を出て、同棲希望者にはたくさん出会ったが、結婚してくれる人はいなかった。早く結婚して名前を変えたかったのは、父に迷惑がかからないようにしたかったのだ。
父の父親は父の子供の時に亡くなっていて、その弟だった大内兵衛が父には親代わりだった。当時学生運動がらみで兵衛の大叔父さんの動静が話題になることも多かったので、ともかく私は大内姓が、嫌で嫌で捨てたくて仕方がなかった。

父は学者としては凡庸で何も冴えた研究成果は残さなかったが、若い人達が大好きで良く世話をした。父の仲人で結婚した教え子は数えきれない。卒業後も父を頼って、家に飲みに来るもと教え子が多く、いつも家には若い人、若かった人たちがたくさん居て賑やかだった。
長男だった父とその母親は、亡くなった満鉄の幹部だった父親、大内要が残してくれた阿佐ヶ谷の100坪以上ある大きな屋敷に住んでいた。その後、母親が亡くなり父は、大内兵衛の弟子だった宇佐美誠次郎の妹ふみと結婚した。戦争が始まり、片目が弱視だった父は徴兵を逃れ、教師が足りなくなった両国にある安田学園で教鞭をとることになった。このときの学生たちを、結婚したばかりだった父も母も特別に可愛がった。自分たちとそれほど年の違わない学生たちは、クラスの全員が、毎週日曜日には阿佐ヶ谷の家に遊びに通ってくるほど父を慕ってくれて、それは父が死ぬまで続いた。

戦争が長引き、父の愛した高校生たちまでが特攻隊の順列に並ぶようになり、父と母は千葉県飯岡に疎開する。そこで一緒に疎開した宇佐美誠次郎は、疎開先でお世話になっていた旅館の娘と結婚した。この旅館に大内家と宇佐美家、総じて世話になっていたのに、無学無教養の旅館の娘が嫁に、、と実に親戚は冷ややかだったようだ。ようだというのは、私はまだ生まれていないが、母や叔母たちが後年、誠次郎の嫁の話が出るたびにグジグジ言うのを聞かされていたからわかる。私は宇佐美誠次郎の叔父さんも叔母さんも、宇佐美正一郎の叔父さんも叔母さんも大好きだった。この人達が私にお古のバイオリンくれて、父に余裕がない時でもレッスンを続けるように言ってくれた。
このころどさくさの中で、父は東京中が焼け野原になるという確信から、阿佐ヶ谷の屋敷を父親代わりだった兵衛の叔父さんに差し上げてしまう。戦時中のことで金銭のやりとりや土地の登録がどうなっていたのかわからないが、父に聞いてもこの件に関しては決して口を開かなかった。父は自分の父親が自分のために残した100坪余りの阿佐ヶ谷の屋敷を叔父さんに譲った。父は何があったのか決して言わなかったが、自分は親不孝者だった、と死ぬまで言っていた。
母は私が高校の頃、自分が昔住んでいた阿佐ヶ谷が今はどうなっているのか見たい、と言うのでそのあたりを連れて歩いたことがある。近所だったという大工の家がまだあって、嬉しそうだったが、どこからどこまでが屋敷だったのか皆目わからないまま帰って来た。

兵衛の大叔父さんは、亡くなる数年前から認知症が出てきてベッドの前のテレビをつけ放しにしていて見るでもなく見ないでもなく過ごしていたと父は言っていた。
亡くなって、お通夜に続く葬式からいったん帰ってきた父は ひどく怒っていて叔父の通夜でずっと付き添っていたが、丸一日水も飲めず食事も出されなかったというのだ。一人息子の大内力は、父が親族なのでお客様ではないからと言う理由で、訪ねてくる人々には食事や酒を出すのに父にはいっさい何も出そうとしない、と。「ああいう奴なんだ。」、「昔っから心の狭い、ケチな嫌な奴なんだ。」と、憤懣やるかたない。父はウイスキーで心が静まるまで、亡くなった方の一人息子をなじっていた。
兵衛の大叔父さんは92歳で亡くなったが、父が93歳になった時、実に嬉しそうに「私は叔父さんに勝ったぞ。」、「叔父さんよりも長生きで勝ったぞー。」と言った。余程嬉しかったのだろうが、なんで勝って嬉しいのかちょっと解釈不明ぎみ。

日本を離れて30年。両親はとうの昔に亡くなり、嫌で嫌で仕方のなかった大内姓からすっかり自由になっている。今の私には大内姓も死んだ昔の夫の北村姓も何の意味もない。

2016年9月2日金曜日

オーストラリアの年金と老人ホーム

                          
人は年を取れば色々な障害が出て来る。視野は狭くなり、物忘れするようになり、物事の判断基準が狭まり客観的に物を観られなくなって、自分一人の思い込みが強くなり、一つのことに固執しがちになる。五感の感覚が鈍くなり、手足の動きも鈍くなって運動機能が極端に落ちる。高血圧、痛風、糖尿病、関節炎、白内障などの症状が一挙に出てくる。排尿、排便障害が出てきて手当が必要になって来る。やがて、一人で歩行できなくなり、他人の助けなしで、生活ができなくなる。

日本は世界で先駆けて人口の4分の1が65歳を超え、老人国への道を一直線に突っ走っている。国民が働いて積み立てて来た、巨額の年金を抱えていて、その運用にいくつもの腐敗した政治家たちのスキャンダルが暴露されている。

ここにきて、福祉国家に中で、北欧が良い、いやベルギーが一番だ、ドイツも堅固だし、オーストラリアも老後を過ごすのに良い国だ、いやマレーシアが年金で暮らせて安上がり、フィリピンも良いじゃないか、、などと情報が溢れかえっている。
しかし人は自分が生まれた土地で教育を受けて、働き、税金を納め、その見返りとして老後の生活を、その土地で保証されることが、人の営みの基本だ。自分が税金を納めてこなかった場で老後を安泰に暮らそうと願うことは誤りだ。

オーストラリアでは、雇用者は被雇用者の働いて得る収入の9.5%を年金として積み立てる義務がある。私が1000円働いて、給料をもらったら、職場のボスは95円、私の名前でお金を積み立てなければならない。その雇用者が積み立ててくれたお金を私は投資に使ったり、そのまま貯金として持っていて、65歳を超えると全額引き出したり、少しずつ毎月受け取ったりすることができる。私はシドニーで働いて蓄えたその年金から1千万円下ろして、父の遺産を足したお金で、この1月に小さなアパートを買った。
しかしこの収入の9.5%の積み立て年金制度は、オットの時代にはなかった。福祉国家と言っても、オーストラリアはまだまだ底が浅い。

こういった自分が働いて積み立てた年金以外に、65歳以上年を取って働けなくなったら、国から老齢年金が出る。それを受け取るためには、それはそれは厳しい資産評価が、政府によって行われる。オーストラリアでは税務署とすべての銀行と年金を出す政府とは、綿密な情報のやりとりがあるので、国民は1ドルとして隠し金を持つことができない仕組みになっている。移民でできている国だから、外国から受給している年金や送金もすべて厳しく審査される。
老齢年金を受けられるかどうかは 上下する物価やその時の経済状況で変化するが、、概ね自分が住む家以外の、投資のための土地、財産、貯蓄、毎月の定額収入がある人は、老齢年金は受けられない。自分だけでなく自分のパートナーに財産や収入があれば同様に、年金は出ない。
今回、オットの場合は、2014年10月に大病を患ってから働くことができなくなり、週3日腎臓透析を受けなければならなくなり、以来6回入退院を繰り返し、収入が無くなり、莫大な医療費を払わなければならなくなったのに、パートナーの私に収入があり、処分できないオットの会社がネックになって、年金が出なかった。それを2年間の血の滲むようなバトルによって、政府の資産審査を覆し、オットの年金を獲得した。

それでも一月17万円足らず。自分の家がなければ生活していけない。水道、電気、ガスに電話代を払ったら、借家のために払う家賃は出ない。オーストラリアで年をとっても暮らそうとするならば、自分の家も持つことが第一条件になる。

シドニーでナースをしていて、オーストラリアでは老人施設が整っている、老人ケアの先進国だ、と言われて日本から見学者が絶えない。うなずける一面もあるが、老齢年金を受け、動けなくなった老人が老人ホームに入居するのに、いかに厳しい資産評価の審査をパスしなければならないか、事実として認識する必要がある。

オーストラリアでは民間、私立、教会が経営する老人ホームすべてを、政府が管理している。2014年から、一定の財産を持っている人は、その財産を処分しなければ老人ホームに入居できないようになった。家を持っている人は、家を売らなければ入れない。あるいは、2千5百万円から、1億円までのボンドと呼ばれる預け金を政府に納めなければ、老人ホームに入れない。ボンドを払うかどうかの政府による資産審査も、それはそれは厳しい。
資産審査を受けて、ボンドを払わなくて良いという判断が出て、晴れて老人ホームに入れても、毎日のケアに対する支払いが待っている。一日48.25ドル、毎日4500円ほど、月にして14万円くらいのケアにかかる費用が、自動的に老齢年金から差っ引かれていく。老人ホームに入れば、国が面倒を見てくれるが、年金はほとんど全額、老人ホームにかかる費用として差し出さなければならない。政府がやっと受給してくれた老齢年金の入った銀行口座から、政府が勝手に何の断りもなく老人ホームのケア費用を取っていったのには、はじめは驚いたが、しかし国が年寄りの面倒を見るということは、こういうことなのだろう。

年寄りが、なかなか死ななくなって、親が子供のために財産を残す、ということは、これからの老人社会では、夢の夢の話になるだろう。国は福祉国家を実現したいと考えている。誰もが年を取る。誰もが年をとっても快適に暮らせる社会を望んでいる。
しかしその道のりは遠く厳しい。

2016年9月1日木曜日

シドニーで老人介護に疲れて

               

途方もなく長い、真っ暗なトンネルを歩いていた。
今、「地上にたどり着いたんだよ」と言われ、明るい光を顔に当てられ、「大丈夫、まだ飛べるよ」、と励まされても、どうしたら良いのかわからなくなっている。

胃に穴が開くほどのストレスにさらされて、極端に睡眠時間を削られてきた、この2年間。

火曜水曜木曜金曜日と週4日、10時間ずつ病院で夜勤をして、家に帰れば24時間介護を必要とするオットが待っていて、火曜木曜土曜日は、着替えさせて腎臓透析のために病院に連れていく。オットの腕に針を刺し、マシンが動き始めるのを見て、5時間待つ。1時間かけて家に帰り、また1時間かけてオットを拾いに来ると、運転しながら眠ってしまいそうになるので、それは止めて近くの図書館で雑誌を読みながら待つ。5時間後に連れて帰り、着替えさせ、食べさせ、寝かせて、やっと自分も寝られる。3時間後に目が覚めて、オットを食べさせて寝かせて、仕事に飛んでいく。
翌朝仕事から家に帰りトイレに駆け込むと、トイレが汚れていて足の踏み場もない。オットは歩行器を使って、ほとんどカタツムリに速さでしか歩けないので、ベッドからトイレに行くまでの間に排便をコントロールできなくなる。汚れたトイレと、カーペットを洗い、パジャマやシーツについた汚れは洗濯機2回分、洗い流して干して、掃除が終わると、もうお昼。あわててベッドに入り、眠ろうとするが、眠れても眠れなくても夕方には、食事を作りオットに食べさせ、ベッドに入れて、また自分は職場に飛んでいく。
そんな毎日を2年間やってきた。
いつねるんだよ。

老人介護が大変、、、それだけなら良い。
腰痛体操や、ストレッチやヨガをしながら、体力を蓄えて、物理的にがんばる。
しかし
つらいのは、いつまで続くのか。先が見えないことだ。あと1年とか、行く先が分かっていたら我慢できる。オットは何度も死線を彷徨ってきた。あと1年の命、もう駄目かもしれない、と何度も何度も腎不全と心不全を指摘されながら、結構長く生きて来た。私個人で24時間介護ができないので、誰か助っ人が欲しいが、私の給料が基準よりちょっとだけ上回るらしく、コミュニテイーのホームケアが頼めない。コミュニテイーサービスは本当にお金のない人だけのものだ。

私の手に余り介護しきれないので、施設に入れたい。当然の要求だ。オットは17歳のときから80歳の今まで国に63年間高い税金を払ってきた。24時間ケアが必要になったいま、当然施設に入居する権利がある。しかし、オットが元気な時に2つの会社を持っていて、それを処分しない限り、老人年金も出なければ、施設にも入居できない、とセンターリンク(政府)は言う。何の利益ももたらさない名前だけの会社を、政府は1500万円の価値がある資産だと査定した。従って3千万円のボンド(政府に預ける資金で死後家族に帰される)を払わない限り、老人施設に入居させない、と言う。

オットには資産もなければ、老齢年金も出ない。病気で動けなくなった今、政府に3千万円払わないと、老人ホームにも入れない。オットの持つペーパーカンパニーに価値はないのに。私の給料だけではオットを食べさせ、莫大なオットの医療費を支払い続けることはできない。当たり前のことを、政府に訴えて来た。何十通と、数えきれない申請書、嘆願書を政府に送り、政府の「正しい判断」を求めて来た。政府に聞く耳はないのか。
先の見えない暗いトンネルに迷い込んで、ただただ働き、介護を続けてきた。

それにしても20年前に180万円で買った小型車トヨタ エコーが、20年後のいま政府の査定では、125万円の資産価値があるって、、、何だよ。20年前の小型中古車ですぜい。冗談もいい加減にして。わたしは政府に喧嘩売られたのだろうか。

この7月にとうとうオットに政府から老齢年金全額が出るようになった。やっと勝った。ばんざい。この細腕で政府からやっと、ほぼ「正しい判断」を勝ち取ったのだ。正義は強い。
しかし老齢年金全額って、月に17万円足らず。ともかく年金受給者の特権として老人ホームにオットを入れる。年金全額を老人ホームに渡す、ということで何とかボンドなしでやりくりできることになった。
入居したのは、ユナイテッド教会の経営する老人ホームで、運よくオットは個室に入居できて、個室には大型テレビもあるし、食事のメニューも選べる。ぜいたくー! とても満足している。週3回、救急車がオットを腎臓透析するために病院に送迎してくれるようになった。

暗い暗いトンネルから出られたんですよ。そう言われたが体が2年余りのストレスからくる重圧でひしゃげて、ねじまがり、大きな呼吸も出来なくなっている。気が付いたら1日朝から何も食べていなかった、というような2年間だったから、胃袋が何も欲しがらない。寝ても寝ても体が重くて疲れが取れない。

長い事、希望の見えない暗闇の中に居た。
これから太陽の光をあびて浮上しようと思う。