2016年2月27日土曜日

映画「リリーのすべて」

         



邦題:リリーのすべて
原題:「 THE DENISH GIRL」
監督: トム ホッパー
キャスト
アイナー べルナー(リリー エルべ):エディ レッドメイン
ゲルダ ウェグナー : アリシア べーカンデル
ハンス アクスジル : マテイアス スーナルツ

1930年に世界で初めて性転換手術を受けたデンマーク人画家のアイナー べルナーの伝記映画。
同性愛が犯罪と見なされていた時代に、アイナー べルナーは、手術を受けリリー エルビーと改名しパスポートも所持した。映画の原作は、デビッド エバーズショフの同名の小説。2015年ヴェネチア国際映画祭で初めて上映され、トロント国際映画祭でスぺシャル プレゼンテーションとして上映された。
主演したレッドメインは、昨年「博士と彼女のセオリー」(THE THEORY OF EVERYTHING)でオスカー主演男優賞を受賞したが、受賞の檀上で、「この受賞を切っ掛けに、筋委縮側索硬化症(ALS)という難病への人々の理解が広まることを願う」とスピーチした。今回この映画で再び彼が、オスカー主演男優賞候補となったので、感想を聞かれて、「話題になったことが契機になってLGBTへの人々の知識が普及し、理解が深まることを願う。主人公は自分に正直な勇気ある人です。」と言っている。

性的マイノリテイーを示す、LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルと、性同一障害を含むトランスジェンダー(性別越境者)を言う。トランスジェンダーは一般的には、生まれたときに与えられたジェンダーに対して適合できず、それを否定して自身のジェンダーを選ぶ人を指す。外科的手術やホルモン療法する人も含まれる。これ以外に、インターセックスと言い男性性器と女性性器の両方の特徴と器官(小さなペニスまたは大きなクリトリス)をもって生まれてくる人も少なくない。インターセックスを含めてLGBTIという場合もあり、たくさんのバリエーションがあって、人々の嗜好によって10人10様、性の形も、愛の形も多様だ。この映画では、トランスジェンダーで女性になった画家が、常識を打ち破って、自分の魂を解放しようと苦しみもがいた心の軌跡が描かれている。

監督のトム ホッパーは、「レ ミゼラブル」でエデイ レッドメインを起用したが、今回の脚本を読んで、すぐ彼のことを思い浮かべたという。エディは学校劇でシェイクスピアの「十二夜」で、ビオラの役(男装した女性)を演じたことがある。主役がエディに決まるまで、二コル キッドマン、シャーリーズ セロン、グウィネス パルトロー、ユマ サ-マン、マリオン コーテイヤールなども候補に挙がったという。 今回、非トランスジェンダーのエディがこの役を演じたことで、一部のトランスジェンダーのアクテイビストから批判が出ていると報道された。LGBTをテーマに扱うことが、いかにセンシテイッブなことかを裏付けている。

ストーリーは
1926年、デンマーク コペンハーゲン。
アイナー ベイナーとその妻ゲルダは、コペンハーゲン芸術学校で共に学び、ゲルダが18、アイナーが22歳のときに結婚した。子供はなく結婚してから、すでに6年も経つが、とても仲の良い夫婦だ。アイナーは、若き風景画家として評価され、注目をあびていた。彼の描くポプラの並木、湖に映る木々と光、海岸と太陽などのモチーフは、彼の生まれて育った田舎の風景だった。一方のゲルダは肖像画家として、客の依頼に応じて絵を描く。画商が求めるものを画家が描かなければ生活が成り立たない。
ある日の事。絵の完成が遅れていて依頼者から催促されているバレリーナの絵をゲルダは、仕上げなければならなかった。モデルの踊り子が約束の時間に来ないことに業を煮やしたゲルダは、夫のアイナーに、バレリーナの足の部分のモデルになってくれるように頼みこむ。アイナーは、妻に言われるまま絹のストッキングとビーズで飾られた靴を履き、チュチュを身に着けてポーズをとる。やわらかな絹のストッキングの感触、美しい靴、軽やかなチュチュの香しさ。

アイナーの中に眠っていた何かが、突然、稼働し始める。この日を境に、アイナーは次々と女性の服や化粧品を手にする。ゲルダは遊び感覚で、アイナーを女装させては、そのエロチックな姿を絵にした。ゲルダが描いた女装のアイナーの絵は、評判が良く、画商にまるごこ引き取ってもらえるようになった。二人で仲好く女性同士になって、外出もするようになった。二人は、自由を求めてパリに移住する。はじめは、女性の服に身を包んで男達に見つめられたり、誘われたりすることに喜びを感じるようになったアイナーは、次第に女性化していき、妻の肉体的要求に応えられなくなる。こんなはずではなかった。「夫を私に帰してちょうだい。」と泣いて訴えるギルダを前にして、アイナーは、「毎朝、今日はアイナーで居ようと思う。」 しかし彼の決意は長くは続かない。自分に正直であろうとすると、女性の自分しか考えられない。二人の苦悩は続く。アイナーは、何人もの医者のドアをたたくが、精神病者として扱われ、怪しげなラジウム療法や、電気ショックを受け、果てには強制入院させられそうになって、窓から脱出する事態にまで追われる。思い余ったギルダは、アイナーの幼友達ハンスを訪ねる。ハンスは昔、「アイナーにキスをしたことがあった。」ほど仲が良かった。そのハンスをアイナーは、美しく女装して待っていた。それを見て哀しみと苛立ちをみせるゲルダに、ハンスは何もしてやることもできない。

遂に1930年、どうしても女性の体になって子供を産みたいという夢をもったアイナーは、ドイツで性転換手術を受ける。段階的に、まずテスティクル除去と卵巣移植を受ける。術後、回復して次の手術を待つ間アイナーはゲルダがどんなに強く勧めても、絵を描くことをせず、ゲルダのモデルを続け、デパートで売り子になって女たちとの交流を楽しんだ。アイナーは、リリー エルべと改名して、ゲルダとの離婚も成立した。そして、翌年再び、リリーは手術を受け、念願の子宮が移植された。しかし、3か月後に移植臓器拒否反応と感染症を併発してリリー エルべは亡くなる。ゲルダは最後までリリーを支える。
というお話。

こんな難しい役をエディ レッドメインがどう演じるかが、見所。彼は、女性の体になるために極端に体重を減らした。インタビューで、「簡単だよ。朝食を普通に食べて、お昼はちょっとだけにするだけのことさ。」と言っている。 晩メシ抜きで数か月、、。背広姿を横から見ると本当に痩せて細い。彼がバレエスタジオの大きな鏡の前で全裸になるシーンは圧巻。去年アカデミー主演男優賞を取ったとき、ステファン ホーキンス教授になりきるために、彼の家に泊まりこんで、体の動きや表情を何か月も観察したという努力型の役者。体の線が細く、愛くるしい顔、アイドル ビジュアル系、ジュノンボーイと思いきや、なかなかどうしてシェイクスピアを舞台でしっかり学んだ本格派のイギリス人役者なのだ。
バレエのコスチュームを身に着けたことを契機に、自分が本当に望んでいた美の世界ののめり込んでいく姿が、順を追ってわかりやすく、スクリーンの中で語られていく。
映画の始めの頃は、昼夜なく仲睦まじく愛し合い、度重なるセックスをコミュニケーションにしていた仲良し夫婦だったのに、アイナーが女性に目覚めて男として全く反応しなくなってしまったことに、二人してショックを受けるシーンは哀しい。画面いっぱいに顔が大写しになる場面が多いが、、二人が徐々に変化していく様子が、とてもよく表情で表現されている。

ギルダを演じたアリシア べーカンデールが全身全力で夫を愛し、夫の信念を支持して、最後まで看取る、パワフルな妻を演じて素晴らしい。初めて見る女優さんだが、ハリウッドと違ってヨーロッパにはまだ、こんな良い女優がいることがわかった。

アイナー(リリー)の幼友達ハンスは、いわばこの世で最初にアイナーの女性性を感じとった男、として出てくる。彼は、アイナーのこともギルダのことも、しっかり支えるすごく「良い人」役。本当にホロリとするほど良い人ぶりを見せてくれるので、すっかり虜になりそうだ。金髪のオールバックで、美しい青い目はいつも伏し目がち、体がでかいのに威圧感を感じさせない美しい立ち姿、紳士の代表選手みたい。

最後のシーンがとても印象深い。結構長い映画で、ラストシーンなんかない方が良いような映画とか、取って付けたような説教臭いラストシーンとか、どっかで何度も見たことがあるような、お決まりのハッピーエンドとか、ちょっと考え過ぎのラストシーンとかが多くて閉口していた。でもこの映画の最後のシーンは、とてもとてもとても美しい。アイナーの絵の世界を、自然の描写で再現してみせてくれた。見ているだけでアイナーの美的世界に身も心も引きずり込まれそうだ。きっとこのラストシーンは長い事忘れることができずに、記憶に残ることだろう。

2016年2月19日金曜日

映画「レヴェナント」蘇えりし者

         


体重が300キロもある大熊が無防備におなかを上にして、すやすやと眠っている。そのおなかに顔をうずめて熊の匂いを胸いっぱい吸い込んでみたら、どんなに幸せな気持ちになれるだろうか。写真家、星野道夫は、地元の青年たち熊の生態調査のために冬眠中の熊の穴の中に入り、熊の健康状態を調べていた。時として空腹で眠りの浅い熊が目を覚ましたら、大惨事になるところだ。とても危険な調査で一刻も早く仕事を終えなければならない。でもその場で彼は去りがたくて思わず、熊のおなかに顔をうずめて深呼吸する。暖かいおなかから干し草の香りと、柔らかい野生動物の体臭がしたという。その彼の姿がありありと想像できて、もしそんな幸運に恵まれたら、きっと同じことをしただろうと思う。星野道夫のエッセイは、極北の空気のように乾いていて、ブルーがかった氷の色がする。彼はアラスカの写真をいくつも撮影していて、空気に様々な美しい色があることを教えてくれた。アラスカ極北の映画をみていて、星野道夫さんのエッセイと写真集を思い出した。彼は、エスキモーの国、ラップランドが大好きで、たくさんの美しい作品を残したが、熊に襲われて亡くなった。今年は彼の死から20年目にあたる。
映画「レラヴァント 蘇りしもの」は、そんな極北の淡い光と、ブルーに近い冷たい空気が映画の中でよく再現されていた。

大熊と戦って生還した男が、理不尽に息子を殺されて、復讐することに命を懸けるというお話。いつも映画界に新しい話題を提供してきたメキシコ人のアルハンドル ゴンザレス イリャリトウ監督、エマニュエル’ルベッキが撮影監督をしている作品。彼らは撮影技術の壁をいつもぶち破る革命児でもある。
ルベッキは、「ゼロ グラビテイ」で 宇宙空間を作り出すために、照明装置のついた巨大な箱を作り、その中で演技する役者がいっさい影ができない空間を作り出してカメラを回した。そこでリアルな宇宙遊泳を撮影することを成功させた。
「バードマン」では、役者を酷使するカメラの長まわしで、従来のやり直しのきく撮影の仕方をあえて拒否して、限りなく舞台に近い映画を作ってくれた。

今回の映画では、照明をいっさい使わずに自然のありのままの採光だけでカメラを回した。撮影装置や設備を効果を出すために使わずに、あえて手間暇をかけて、日照時間の少ない極北の自然光だけでフイルムを撮影した。だからフイルム全体が、くすんだブルーで何とも言えない氷の世界の美しさに満ちている。空気が寒さのために凍って霧が降っている。そんな画面に音楽が実によくかぶさっている。坂本龍一が音楽を担当しているが、音楽だけでなく、雪解けの水の流れる音、風が揺さぶる木々の音、人の呼吸する音などが効果的に使われている。男の荒い呼吸音で映画が始まり、その荒々しい呼吸が止まるところで映画が終わる。

零下数十度の厳しい冬のアラスカ、人の生きることができる極限で、スタントマンなしでレオナルド デ カプリオが好演している。厳しい自然、暴力的な開拓者たち、先住民族の土地への侵略、無法地帯の状況を強い男だけが生き残る。究極のサバイバル。
監督がイニャリトウと、ルベッキで、主演がレオナルド デ カプリオだというだけで、この映画は観る価値がある。このような極地で熊と戦った男だけが、自分が殺した熊の毛皮を羽織ることができる。熊との死闘で生き残った男の、死の床に敷かれるのはその毛皮だ。そしてたくましく生き残った男が身にまとうのもその毛皮だ。うらやましくても横取りなどできない。誇らしく大熊の毛皮を最後まで身から離そうとしない、立派な毛皮を着たデ カプリオが男らしい。ストーリーは単純だが、映像が美しい。

この映画でデ カプリオは、英国アカデミー賞主演男優賞と、ゴールデングローブ主演男優賞を与えられ、オスカーで主演男優賞の候補になっている。この人ほどハリウッドの映画興行に貢献している役者はあまり居ない。1997年若干22歳でジェームス キャメロン監督の不朽の名作「タイタニック」を主演し、ハリウッド前代未聞の興行成績を記録した。数字では全米6億ドル、世界で18億3500万ドルを稼ぎ映画史上最高の世界興行収入を記録して、ギネスブックにも登録されている。作品は11部門でアカデミー賞を受賞したが、デ カプリオに何の賞も与えられなかった。その後、「ギャング オブ ニューヨーク」(2002)、「キャッチミー イフ ユーキャン」(2002)、「アビエーター」(2004)、「ブラック ダイヤモンド」(2006)、「シャッターアイランド」(2010)、「インセプション」(2010)、「Jエドガー」(2011)、「華麗なるギャツビー」(2013)、「ウオルフ オブ ウォールストリート」(2013)など、次々と映画をヒットさせてきたが、彼は毎年話題になるだけで、一度としてアカデミー主演男優賞を与えられることはなかった。

彼はナチュラリストで環境保護運動に力を注いでいる。ハリウッドで環境運動家は喜ばれない。ましてユダヤ資本でとりしきっているアカデミー映画賞の審査官たちの目を惹かない。環境保護活動家は、大気汚染のガソリン自動車の広告塔にはなってくれないし、武器産業や、原子力エネルギー産業に力を貸すこともしないで、世界を牛耳っているユダヤ資本に無縁だ。だからデ カプリオは、日本では人気があるがアメリカではそれほどのことはない。サイエントロジーに凝っているトム クルーズも、宗教に感心のない日本人の間では人気があるが、アメリカでは変人扱いだ。人権活動家のバネッサ レッドグレープなど、極左コミュニストとあからさまに呼ばれている。

今年のアカデミー賞は、2月28日、ハリウッドのドルビー劇場で発表される。この模様はABCが中継するが、2015年に公開された映画の中で優れた作品に授与されるはずだ。ところが賞の候補作、候補者が選別されたとたん、今年のアカデミーは、「ぺイル、メイル」で「ホワイトアカデミー」だと批判にさらされている。候補者が全員白人一色で、男が中心だったからだ。でもここにベンゼル ワシントンや、ナオミ ハリスや、渡邊健や、ジャッキーチェンが混じっていたら、どうだというのか。「白だけでなく少ししだけ茶色や黄色や黒が混じっていたほうが安心」、という白色側のバランス感覚というのもおかしなものだ。
アカデミーでは優れた作品が高く評価され、優れた役者が選ばれれば良い。賞というものは、公平か、不公平か、差別的か、おそらくすべて当たっている。アカデミー賞の審査は公平ではないし、世の中はすべて公平ではない。人の好みはそれぞれだし、人は差別の中で生きなければならない。そんなことを論議するよりも、ハリウッドのアカデミー賞から、もっとベネチア映画祭や、シド二ーのマルテイグラ映画祭とか、英語圏でない国々のローカルな作品に授与される賞に、目を向けた方が良い。
でも日本の映画がアカデミーの外国映画部門でもアニメーションの部門でも候補作にあげられなかったのは残念だった。


2016年2月16日火曜日

オーストラリアで年を取る

               

12月の末から1月2月と、無我夢中の毎日だった。
まず、どうトチったのか、フラっと行ったオープンハウスでアパートのひとつが気に入って、生まれて初めて自分の家を買って、引っ越した。娘達が何かとついていてくれたが助言者も、相談にのってくれる人もなく、インスペクション、弁護士を通しての契約書の作成、ク―リング期間の対処、アパート管理会社との契約、政府に払う税金などなど、この年になるまで小切手の切り方も知らなかった世間知らずが、何もかも丸投げに近いやり方で、弁護士に契約から支払いまでお世話になった。

娘たちがそれぞれ結婚して家庭を持ち、オットが高齢で身体障碍者となり、それまで20年住んだアパートを引き払い、アパートを買うなどという大それたことをすることになるとは、考えてもみなかった。人の命は短い。土地は誰のものでもないはずだ。その土地を所有するなどという、とんでもないことを自分がするなんて。猫の額ほどの土地でもカール マルクスに申し訳が立たない。

国境なき医師団に加わりたい。どこか被災地から二人くらい子供を養子にして、もう一度お母さんをやりたい。田舎に土地を借りて犬の猫のホスピスをやりたい。たくさん、たくさん、やりたいことが まだある。何より孫たちの成長をそばで見届けたい。こま鼠の様に忙しく働き、子育てしている娘たちのそばで、少しでも力になりたい。それができずに来た。
過去2年以上のあいだ、病気のオットに縛り付けられてきた。フルタイムで働きながら、オットを一日おきに腎臓透析に連れていき、5時間後に連れ帰って来る。家の中でも3食におやつを作り、歩行に手を貸し、汚しっぱなしのトイレを休みなく掃除しなければならない。週40時間職場でナースとして働きながら、家に帰ってもまだナース。寝る時間が取れない。なんでこんなめんどくさい奴と一緒になってしまったのか。
今まで長い事、住んでいたところは、シドニーの東京で言い換えると成城か田園調布だったが、移ったところは、雰囲気として亀戸とか錦糸町。職場のある成城、田園調布まで運転で30分。仕事が終わったら30分かけて新しい家の錦糸町にもどり、オットをまた車に乗せて30分かけて田園調布の病院に連れて行き腎臓透析をしている間、5時間プールで泳いだり図書館で雑誌を読んで時間をつぶし、またオットを30分かけて錦糸町の家に帰り、またまた30分かけて職場に行って、、、、。いつやすめるんだ。

OECDの調査で日本は先進国の中で貧困率世界第6位という記録を作ったと言う。中でも老人の貧困が深刻だ。バブル後に家、財産、家庭を失った世代では路頭を彷徨う老人も多いだろう。養護老人ホームに入る待機期間も長く、老人ホームで自治体や国が介護すべき貧困老人を、家庭で持て余している家族も多いだろう。

オーストラリアでは、年を取った親を子が世話する習慣がないから、老人は可能な限り自分の家で生活し、自分で身の回りのことができなくなったら、介護者に来てもらい買い物や掃除を頼む。そのうちにトイレまで自分で歩けない、自分でパンを焼いて食べられないというようになったら、老人ホームに入る。老人ホームに入るためには、公立、私立に関わらず、自分の家を持っている老人は家を売ってそのお金を老人ホームに預けて入所する。それをボンドというが、2千500万円から私立だと5千万円くらい。ボンドだから、その老人が死んだら、お金は子供が遺産として受け取る。この制度は去年から始まった。
オーストラリアの税制では遺産相続に税金が取られないので、子供達は遺産をそのまま受け取れる。億万長者はそのまま自分の子供を億万長者にする。バカ息子はバカなまま親の七光りで生きられる。だから家やファームをたくさん持っている人は、それを売って処分してでないと老人ホームに入れない、というシステムになったのは、それなりに理解できる。しかし安サラリーマンがまじめに働き苦労して貯金を作り、年を取ったときに老人ホームに入るために、なけなしの貯金を全額取られて老人ホームに入るのは悲しい。自分が死んでからでないと子供に財産を分けてやれない。

わたしが勤めている民間の長期療養ホームは、50ベッド。病院と同じ3交代で、朝勤務はマネージァーと副マネージャー(看護婦長)、2人の正看護師と9-10人の看護婦助手が働き、全患者のシャワーを浴びさせて、寝間着から平服に着替えさせてからダイニングルームで朝食、モーニングテイー、昼食を介助する。午后勤務では、2人の正看護師と6人の看護助手が夕食介助をして、患者を寝室に連れていく。夜勤は、一人の正看護師と2-3人の看護助手で皆を寝かせて、事故のないように見回りトイレの介助、朝の投薬などする。
ナース以外にダイバージョンセラピストが2人毎日来て、ピアノに合わせて歌を歌ったり、バスで小旅行に患者を連れて行ったり、絵を描かせたりする。物理療法士も定期的に来て、歩けない患者を歩かせる。ポデイアトリストという足の爪を切ったり、足のケアをしてくれる人も来てくれる。毎週木曜日はヘアドレッサーが来て、髪を切ったり、パーマをセットをしてくれる。ほとんどの女性患者は、髪をきれいにセットして化粧も毎日する。ここが日本の老人ホームの患者と違うところだ。オーストラリアの老人ホームは、いろんな職業に人々が出入りしていて、結構忙しい。

ほぼ患者の全員がおむつをしているし、認識障害がある。アルツハイマー氏’病は脳が委縮する疾患だが、これも多い。徘徊もするし、スタッフがどんなに気をつけていても転倒事故も多い。失禁状態だから床ずれもできる。転倒事故や床ずれによる感染症などを起こした患者をみて、怒り狂った家族が訴訟を起こし、賠償金を取られることもある。やれやれだ。
自宅で気ままにやってきた老人が老人ホームに来たばかりの頃は、わがままで頑固で大変だが、日本の年よりよりも扱いやすい。彼らは年をとっても、欧米文化の中で社交性が身にしっかりついているからだろう。どんなに呆けていても、ドアが開けばレデイーファーストだし、一つのテーブルに数人で座ればみな挨拶もするし、会話もする。
脳が委縮して、気短な年よりだから、小さな誤解からナースに殴りかかって来る患者もいる。そんなときは慌てず、「おまえ、女を殴るのか?」とか「わたしは妊婦だぞ。殴ったら卑怯者だぞ。」などと叫べば大抵は、振り上げた腕を下ろしてくれる。それでも暴力沙汰になって警官をよばなければならなくなったこともある。前の病院だったらガードマンがいて、どこからでも333を電話すると、マオリ出身のでかいガードマン達が駆けつけてくれたものだが、今の職場には居ない。
しかし、ほとんどの日々はトラブルなどなくて、スタッフと患者達は ひとつの家族のように仲良くやっている。家族にできない介助を24時間してくれるわけだから、当たり前だけど。家族が差し入れたチョコレートなどを、食べずにとっておいてくれたり、わたしの初孫がうまれたときなど、家族に頼んで贈り物をもってきてくれた患者もいた。わたしが来る時間に、毎日入り口で待っていてくれた人もいた。彼は50代だったが、交通事故で脳に障害を受けて3歳程度の知能しかなくなった。一緒に日本の歌を歌って本当に楽しかったが、あっけなく肺炎で亡くなってしまった。

今の職場で10年働いてきて、悲しいのは治癒して家に帰る人が居ないことだ。みな老人ホームに入った人はそこで死ぬ。見届けることがわたしの役割だ。

(写真は10歳になったうちのクロエ)