2015年5月31日日曜日

映画「バードマン」舞台は映画より上か


       


原題:「BIRDMAN OR THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE」
邦題:「バードマンあるいは’無知がもたらす予期せぬ奇跡」
監督:エマニュエル ルベッキ
キャスト
リーガン トムスン:マイケル キートン
マイク シャイナー:エドワード ノートン
サマンサ トムスン:エマ ストーン
レスリー トルーマン:ナオミ ワッツ
この作品は、2015年アカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞した。主演のマイケル キートンは、主演男優賞ノミネート、助演男優のエドワード ノートン、助演女優のエマ ストーンは助演ノミネートされた。

ストーリー
リーガン トムスンは、もとハリウッドスーパースターで、「バードマン」という3本のブロックバスター映画を主演し、数十億ドルの興行収入を稼いでいた。しかし、そんな過去の栄光から40年も月日が経ち、妻には離婚され、娘はドラッグ中毒から抜け出したばかり、役者としては鳴かず飛ばずで冴えない。しかし、落ちぶれても役者魂は健全だから、一念発起してブロードウェイで芝居を監督、主演することになった。
芝居はレイモンド カヴァーの短編「愛について語るときに我々の語ること」だ。やっとのことで公演にこぎつけたと思ったら、役者の一人が怪我で降板することになり、ブロードウェイで活躍するスター、マイクが代役を務めることになった。マイクは良い役者だが、わがままで自己中心の芝居オタクだ。監督、主演のリーガンを怒らせてばかりいる。おまけに大事な娘が一番くっついて欲しくないマイクに「ホ」の字で、気になって仕方がない。おかげで初演はさんざんな結果で終わり、批評家からは、ひどく酷評される。それでも一旦始まった興行は続けなければならない。リーガンは芝居に、もっと強い緊張と臨場感をもたせるために、舞台で使う拳銃を本物のけん銃にすり替えた。そして、、、。
というお話。

「舞台は映画より上だ。」と映画の中で、主人公リーガンが言うセリフがある。本当だろうか。
掃いて捨てるほどの娯楽映画が制作され、映画産業は拡大する一方、派手で意味のない映画ばかりが幅を利かせている。そんな中で、良質の映画製作を続けている映像芸術家や映像作家たちは、確かに存在する。彼らが手掛ける先端技術を駆使して、映像、美術、脚本、原作、音楽、舞踊、衣装、フイルム編集すべてを統合した総合芸術として製作される映画というものは、そのスケールの広がりからして、芝居を超えているように思える。
しかし、一方で舞台はやり直しが効かない。舞台と観客との1回きりの真剣勝負だ。ミュージカルに出演(主演ではない、端役だ)している女性と話したことがあるが、舞台前と、舞台がはねた後とでは、体重が少なくとも3キロは落ちているそうだ。それだけ2時間の公演で体を酷使して全身を使って役を演じて体重をそぎ落としているのだ。
また、アマチュアオーケストラでヴァイオリンを弾いていたとき、舞台上では、オペラ「魔笛」をやっていた。冷たい女王とパパゲーノを前に、どっしり貫禄の王様が登場し、その場を収めるシーンで、王様がせりふを忘れた。舞台上の役者たちもオペラを見に来た観客も、沈黙の50秒だか1分だかの長かったこと長かったこと。遅れて王様が思い出して歌い出したから良かったものの、この歌い手はひどいトラウマを抱えたことだろうし、観客は彼らの公演に二度と来ないかもしれない。ことほど左様に、やり直しの効く撮影や、編集でミスを消せるフイルムと、一発勝負の舞台との差は大きいい。同様に、生で聴くオペラは、一流歌手の歌うオペラのCDより価値があるし、ライブミュージックはミュージックビデオより価値がある。

だから、舞台は映画より上だろうか。
そのライブでやり直しの効かない真剣勝負を映画でやろうとしたのが、この映画「バードマン」だ。長廻しのワンテイクカメラワークで映画を撮影した。フイルムを撮っては切って継ぎ足してパッチワークのように継ぎ接ぎしたうえ、CGテクニックを駆使して役者を使わずに動きを加えたり、背景を水増ししたりフイルムテクニックでカバーする。そういった現在の映画作りへの反抗、挑戦でもあったのだろう。ワンテイクだから、一人でも役者がとちったり、タイミングが他と合わなかったら、また初めからフイルムの撮り直しだ。準備不足とか、ハプニングとか、役者がどもったり、つっかえたり、ころんだりするのさえ許されない。カメラが行く先々で、準備万端、約束通りに登場したり、消えたりする役者たちの緊張は筆舌につくしがたいほどではないか。ブロードウェイの雑踏を歩くシーンがたくさん出てくるし、エドワード ノートンが素裸になるシーンも出てくるが、写ってならないものが写らないように、失敗の許されないカメラワークも、緊張の連続だったことだろう。

バックミュージックにドラム音を多用していて、画面に緊張感を与えている。ニューヨークの雑踏でドラマをたたくストリートミュージシャン、これを背景に芝居がうまくいかなくて、どなりまくるマイケル キートンとエドワード ノートンが とてもおかしい。いつまでも芝居バカで、役者狂い、二人ともいつまでも青春やっている姿。それが滑稽なのは、観ているわたしたちにも共通する「いつまでも成長できない自分のなかの青春」を抱えているからだ。

そんな成長できない「男」を、彼の芝居をよく理解して見守っている別れた妻が居る。彼が落ち込んでいるので励ましに来たら、すぐ図に乗って男は、妻とよりを戻そうとして俗物性丸出しにする愚かさ。そしてそんな父親を激しく批判しながらも、深い愛情で観ている若いが人生に疲れたドラッグ娘も、この男には、できすぎた良い娘なのだ。 40年前映画「バードマン」を主演した、かつてのスーパーヒーローというが、彼は自分なりに芝居の道を歩んできたのであって、冷たいが理解のある元妻と娘をもち、ブロードウェイで芝居を続けられる幸せな男ではないか。批評家にこてんぱんに批評されても、妻子にきついことを言われても、芝居のパートナーに演技で追い越されても、良いじゃないか。でも、それを良しとせずに、いちいち脳天から火がでるように怒り、ジタバタして、悩んで、過激に反応するマスター キートンが、とてもとてもおかしい。本当に役者がすべての人生なのだ。喜劇映画じゃないのに、とても笑える。

酔った勢いで芝居評論家に毒付いて暴力的ともいえる詰め寄り方をして、批評で「完全におまえをつぶしてやる、」とまで言わせる。この人は、最後の舞台で銃が放たれたと同時に、席を立って出て行った。このぼやけたシーンが良い。ここで感動した。芝居のパートナーに、「舞台でおまえが玩具の銃で脅かしたって全然怖がってなんてやれねえよ、」と言われて自分の演技に勢いがなくなったのを指摘されたと思い、怒り狂って本物の銃を出してくる、彼のとっ拍子もないアクション。これは何だ。舞台への愛、「舞台:いのち」という男の舞台への深い深い思いを描いた作品なのだ。
舞台の好きな人、役者をやって人の熱狂を体験してしまったことで役者としての昂揚感が忘れられない人、演じることが好きで好きで仕方がない人にとっては、この映画は忘れられない映画になるだろう。

画面が一様に暗くて、全部がいつも「舞台裏」みたいに見える感じで統一されている。
最後のシーンでは、「バードマン」は役者として突っ走っていって飛ぶが、墜落して死ぬと思うけど、「バードマン」は、人々に希望を与え続けていくことだろう。
役者は誰もが「役者ばか」で、役作りに悩み、役になりきって悩み、死ぬまで役者だ。実験的作風で、この監督の「舞台への愛」がしっかり伝わって来た。おもしろい作品だ。