2015年5月24日日曜日

ACOで16世紀のダブルベースを聴く

       


オーストラリアチェンバーオーケストラ(ACO)の定期コンサートを聴いてきた。
メンデルスゾーンを聴くために。オーストラリアに来て約20年。コンサートにはいつもオットか娘たちが一緒だったが、今回初めて一人で行って来た。これからは、一人でコンサートに行くことになるだろう、と思いながら、、、。
娘たちはそれぞれ専門の分野でプロフェッショナルになって自立し、家庭を持って、母親のクラシックコンサートなどには、とても付き合いきれなくなった。それはそれで喜ばしいことだ。 
だが、オットは、腎不全と心臓発作を起こし、腎臓透析を続けることなしに生きられないようになり、閉そく性呼吸器不全でネブライザーと吸入器なしに楽な呼吸ができなくなり、黄斑部変性で視力が落ち、本や新聞が読めなくなり、それらの総合的結果として、杖を使いよちよち歩きで50メートル歩くのが限度になった。
20年前に、「一緒にオペラに行きませんか?」の言葉ひとつで、やすやすと受けてしまったプロポーズを、いまさら後悔しても始まらない。オットが元気だったころは、オペラオーストラリアも、ACOも、シドニーシンフォニーも会員になって定期公演を毎回観ていたから、月に一度はオペラハウスに通っていた。ところがオットはオペラハウスの長い階段が昇れなくなり、徐々に劇場地下の駐車場からエレベーターまでたどり着くだけで、息が切れるようになり、オペラハウスは諦めて、エンジェルプレイスのホールの公演に切り替えたが、2階の正面席に座るとトイレのために階下か階上に行くエレベーターに乗せなければならない。遂にどんなに支えても連れていけないようになった。しばらくは、行きたいのに行けなくなったオットを置いて、一人でコンサートに行くことには、ためらいがあった。

久しぶりにチェンバーオーケストラの音を聴いたら泣けて、ヤバいのではないかと、ちょっと思ったが、そんなことはなく、かぶりつきの席でしっかり聴いてきた。何年か前に同じホールで、何だったか忘れたが忙しくて数か月ぶりでACOを聴き、ベートーベンの交響曲「田園」が始まったとたんに、音のひとつひとつが乾いた心に沁み込んで来て、初めて止まっていた呼吸ができるようになったかのように全身が震えて、涙が次から次へと流れて来て止まらなかったことがある。オペラも、数か月の間、聴く機会を逃していて久しぶりに、「ラ ボエーム」を聴いたとき、はじめのテノールの声で、いきなり涙が吹き出て来て、「ああ、こういう音が聴きたかったんだ、」と思いながら、ホールの暗闇で涙を流したことがあった。あれは何だったのか。

ACOは結成して今年で40年。団長のリチャード トンゲテイのもとに、団員20人の弦楽奏者が集まるオーケストラだ。若い演奏家育成に熱心で、ヤングACOを持っているので全メンバーを合わせると100人余りになる。トンゲテイは例えようもなく美しい音で1743年のグルネリを弾く。コンサートマスターのフィンランド出身 サトゥ バンスカは、1728年のストラデイバリウスを、匿名化から貸与されている。ヴィオラのクリストファ モアは1610年のジョバンニ パオロ マジ二を弾いて、チェロのテイモ ヴィッコ バルグは1729年のグルネリ、バイオリンのマーク イングワーセンは1714年のグルネリ、新しくイケ シーは、1759年のガダニーニを貸与された。彼らのユニフォームは、オーストラリアでデザイナーとしてデビューしで成功した日本人、イソガイ アキラのデザインだ。

曲目は
1) フェリックス メンデルスゾーン: 弦楽シンフォニー9番「スイス」
2) ジョバンニ ボテシーニ: ヴァイオリンとダブルベースのためのコンチェルト
3) ユーゴ ヴォルフ : イタリアン セレナーデ
4) フェリックス メンデルスゾーン: ヴァイオリンコンチェルト Eマイナー作品64

2番目、ジョバンニ ボテシーニ作曲の「ヴァイオリンとダブルベースのためのコンチェルト」が、とても良かった。初めてACOが、16世紀のダブルベースの演奏をお披露目してくれた。
これを作曲したボテシーニ(1821-1889)は、貧しいイタリアの音楽好きの家庭に生まれ育った。ミラノ音楽大学に入り奨学金を受けるのには、ダブルベースのポジションしか空いていなかった。だから彼はダブルベースを初めて大学で手にする。そしてすぐに立派な奏者となり、イタリア国内だけでなくウィーンで人気を得る。9つのオペラやレクイエムなどを作曲し演奏家としても作曲家としても成功する。彼は古楽器のダブルベースを再現して、好んで演奏した。むかしダブルベースは、3弦しかなく、ネック(指盤)は今のものよりずっと長かった。彼が、3弦の古楽器ダブルベースを初めて弾いたとき、「100羽のナイチンゲール(夜鷹)が鳴いているかと思った、」そうだ。パガニーニとも親交があり、古楽器の演奏を普及させた。

この古楽器を、ACOのダブルベースの演奏者マキシム ビビアウが、何度もイタリアとオーストラリアを往復して、パトロンの協力を得た末、遂に名器ガスパロ デ サルーを手に入れた。こういった経過が公共ニュースABCで報道されたから、これを見たくてこのコンサートに来た人が多かったようだ。作曲家ボテシーニが演奏した16世紀の古楽器ダブルベースが、今回のコンサートでACOのマキシムによって再現されたわけだ。
さて、ガスパロ デ サルーだが、これがとてつもなく大きい。普通のコントラバスの2まわり大きいうえ、ネックが長い。カナダ生まれのオージー大男のマキシムが手にしていると大きさがわからないが、ヴァイオリンとの二重奏になると、たちまちベースが巨大に聳えたって見える。ネックが長いので、駒のちかくでハーモニックスを弾くと、ダブルベースとは思えない、驚くほど高音の澄んだ音が出る。マキシムは、高音からおなかに響く低音まで、自由自在に広い音域を奏でていた。

ゲストヴァイオリニストのアメリカ人、ステファン ジャッキーは小柄で色白の美男子、ジュノンボーイか。彼の長くて白い白い指はしなやかで美しい。小柄で美しいヴァイオリニストと、どでかいオージーのダブルベースが二重奏を始めた途端、これがダブルベースとはとても信じられない音域とテクニック。ヴァイオリンとヴィオラかと思った。二つの音が、ぴったり寄り添って素晴らしいハーモニーを奏でてくれた。とても感動した。

最後はチェンバーオーケストラをバックに、ステファン ジャッキーの独奏によるメンデルスゾーン(1809-1847)のヴァイオリンコンチェルト作品64。とてもとても有名な曲だから、クラシック音楽が嫌いな人でも、聴けば、ああーこれか、とわかる曲だ。第1楽章アレグロ モルト アパッショネイトも、第2楽章アンダンテも、第3楽章アレグロもみんな有名。
メンデルスゾーンは裕福な名家に生まれ、天才的哲学者モーゼ メンデルスゾーンを祖父にもち、音楽家家庭に育った。10才でカール フレデリック ゼルターについてヴァイオリンを習い、ゼルターの親友だったゲーテに詩を教わって育つ。12歳で作曲を始め、15歳で交響曲を作曲、ウィーンでアイドルとなる。15歳で作曲したオペラのリハーサルの時、ゼルターに、「彼はモーツアルト、ハイドン、バッハと並ぶ歴史的な最もすぐれた音楽家として認められるであろう。」と紹介される。

このヴァイオリンコンチェルトは、メンデルスゾーンの親友だったヴァイオリニスト、フェルデイナンド デヴィッドのために作曲され、1838年に書き始めらたが、そのころメンデルスゾーンはドイツと英国の6つの音楽祭の総合監督に指名されており、バッハとシューベルトの作品をリバイバルさせるために力を注いでおり、おまけに、プロイセンのフレデリック ウィルヘルム国王の要請でベルリンでも活動していて、多忙を極めていたので、たびかさなるデヴィッドの催促に応えることができないでいた。作曲が完了し、親友のフェルデイナンド デヴィッドによる初演が実現したのは、彼が書き始めたときから7年が経っていた。デヴィッドのためにカデンッアがいくつも入った華麗なコンチェルトだ。7年かけて、練に練られ細部まで完璧に作られた1845年に完成したコンチェルト。ステファン ジャッキーは、繊細で水が流れるようなスピードと素晴らしい技巧をもって演奏した。

これからも、この作品は沢山の天才と呼ばれる努力家たちによって、何世紀も何世紀も、ひき続き演奏し続けられることだろう。これは本当に本当の、永遠不滅の名作だ。
コンサートが終了して、25ドルのホール地下の駐車料金をケチって路上駐車したパブまで歩く冬のシドニーの深夜ひとり。外気が冷たくて、星も月も見えないがメンデルスゾーンのメロデイーが胸に中で鳴り響いていて、ほっこりあたたかい。良い夜だ。