2014年7月6日日曜日

結婚する娘に

                                  

結婚することが決まって、心からあなたに、おめでとうを言いたい。
長女のあなたはいつも優等生。そんなあなたをいつも誇らしく思ってきた。あなたが生まれた瞬間から今まで、あなたが誇らしくて誇らしくて、誰かれ問わずすべての人に自慢したくて仕方がない。10時間余り陣痛の間、パパに腰をさすってもらいパパの立ち合いのもとで生まれて来た2340グラムのの小さな宝。今でこそ夫の立ち合い出産は普通になってきたが当時はまだ珍しく、雑誌の取材が来たりした。御茶ノ水の産院であなたが生まれたとき、他のどの赤ちゃんよりも整った顔をしていて、先生や助産士たちを驚かせてくれた。新生児たちがずらりと並んだ産後間もない赤ちゃんたちをガラス越しに眺めてみても、赤ちゃんの取り違えなど起こりようもない。あなたははっきりと周囲に存在感を示していた。「パパにそっくりで」、「べっぴんさんですね。」、「将来は女優さんになりますね。」などと、たくさんの人に言われるごとに、「はい私に似ていなくて。」などと何か言い訳のように言っていた。42歳のパパと、初めての赤ちゃんをかかえておっかなびっくり、こわごわ育児の始まりだった。

パパとは誰からも祝福されずに結婚した。妻子を捨てて成城の家を出走したパパと、勤めていた業界紙社を辞めて奨学金で看護学校に通い免許を取ったばかりの私に定収入もなく私たちを見守ってくれる人も皆無だった。そこに突然、魔法のように美しい赤ちゃんがやってきて何もかもが変わった。一日にして世界が変わるということが現実に起きた。私たちを避けて会うことも拒否していた両親や友達たちが、私たちの千駄木のアパートに訪ねてきてくれるようになった。生後半年で、都立駒込病院付属の保育室のドアを叩いた。30過ぎの新米看護婦で新米の母親が、この保育室で赤ちゃんの世話の1から教わる。それまで赤ちゃんが空腹でもないのに泣き止まないとどうしてよいかわからずに私が泣き出す、するとパパまでが泣き出すような幼稚で、この上なく情緒不安定な親だった。しっかり娘を保育してくれた保育士たちには、何度お礼を言っても言い足りない。赤ちゃんを見てくれるだけでなく親をしっかり叱って教育してくれた。ハイハイができるようになり、立ち上がりやがて歩くようになった喜びを 保育士たちは一緒になって分かち合ってくれた。寝ない、食べないそれでも元気で活発、という赤ちゃんに振り回されて、トマトしか食べないあなたのために、真冬にトマト求めて八百屋めぐり、デパートまで買いに走ったり。そんなあなた中心の生活で、最初で最後の子供だから大切に大切に育てようと誓っていた夫婦に、なんのことはない1年を待たずに次の赤ちゃんができる。年子の妹の登場だ。太陽のように明るくて大らかな子。二人の娘の親になって初めて一人前の親になった気がする。心の余裕ができて、子どもを冷静に見ることもできるようになった。

親たちが働く間、あなたは妹といつも双子と間違われながら保育園でよく遊び、休みの日は自転車の前後に取り付けた子供椅子に乗って、どこまでも出かけて行った。パパはあなたが自慢で、デパートでマネキンが着ていた服を剥がさせて買ってきた服を着せて、どこにでも自慢しに連れて行った。千駄木は遊ぶところが無限にあった。千駄木図書館、森鴎外図書館、須藤公園、根津神社、上野動物園、科学博物館、不忍池、東大、三四郎池、、、。根津神社で鳩に餌をやるあなた。不忍池でカモに餌を投げるあなた。三四郎池の橋で迷子になっても泣きもせず待っていたあなた。一つ一つの姿が映像のようにはっきりと目によみがえってくる。

4歳と5歳で沖縄に移って、3年間暮らした。城西幼稚園に行くようになってヴァイオリンを買い、自宅レッスンを始めたのに、それが嫌で本気で家出の準備をしていたなんて、思いもよらなかった。ごめんよ。ある日ポケットの中から、「いえでにもっていくもの。ハンカチ、ちりがみ、おかし」という紙が出てきてあわてた。ふたりで縁の下に隠れていたんだね。先生のところにレッスンに通うようになって、幼稚園や学校にいくのと同じように、レッスンを受けいれてくれた。私がアマチュアオーケストラの団員になってリハーサルする間、団員達の間に毛布を敷いて、夜遅くまでリハーサルが終わるまで静かに遊んで待っていてくれた。2時間余りのクラシックのコンサートを、5,6歳の子供がきちんと座って静かに聞けるような集中力とマナーができたのもこのころのお蔭だろうか。

小学校2年を終えたところで、千葉県の平田に移り、本格的にフィリピンに赴任する準備に入った。一級建築士で、一級土木技師でもあったパパはプロジェクトが終われば次の土地に移動する。それにつていく子供は、どんな危険な土地であっても一緒に移動し、転校を繰り返す。慣れない土地、レイテ島オルモックの人々は この街に初めてやってきた日本人を珍獣扱いし、24時間パパラッチしてくれた。家のカーテンを開けられない。カーテンが風ではためくと、向いの家々から人々がいつもこちらを見ていて悪びれず笑顔で手を振ってくる。3人のメイド、2人のドライヴァーを通して、私たちのすることなすことすべてが一瞬のうちに街中に知れ渡る。買い物に行けば人々が後ろからついてくる。マニラでは、ピープル革命が起きて、独裁者マルコスが追放されてアキノ政権が樹立したばかりの頃だったが、首都からはるか遠くのレイテ島の山々では、共産軍と政府軍の戦闘が続いていた。道路建設のために家に帰ってこられない日の多くなったパパの気苦労は大変なものだったろう。ベッドの引き出しに拳銃を置いていて、毎晩「使わずに済みますように、と祈って眠る3年間だった。どんな環境にあっても楽しみを見つけ出し、遊びを造り出し、笑いを引き出してくれるあなた方姉妹の無邪気な姿がどんなに力強く思えたことだろう。もんくの一つ、泣き言ひとつ言わなかったあなた方には心から感謝っしている。

3年間過ごしたレイテ島オルモックを後にして、7年間に及んだマニラ住まい。インターナショナルスクールに入って、やっと勉強らしい勉強ができるようになった。沖縄で始めたヴァイオリンも再開することができた。学校では姉妹して、ずっとストリングオーケストラのコンサートマスターを務めてくれた。二人の娘たちとヴァイオリン、ビオラ、チェロをひっかえとっかえして、パートを変えながら3人で、ヴィバルデイやバッハを演奏する楽しさ。楽器を弾きながらこの時が永遠に続いてくれたら、どんなに幸せか、と思わずにいられなかった。

このころ13歳と14歳で家からパパが居なくなった。そういうことがどれほどの心の傷になったか計り知れない。私がインターナショナルスクールのヴァイオリン教師になり何事もなかったように暮らし続けることができたことについて、親として、どんなにあなた方の感謝してもし足りない。あなた方は誰も責めなかった。不安がることも、問いただすこともしなかった。親に全幅の信頼を寄せてくれて、勉強とヴァイオリンに打ち込んで、たくさんの友達にとりまかれて学生生活を楽しんでくれた。あなた方が居なかったら生きていなかったろう。

フィリピンからオーストラリアに移住。12年生を飛び級してあなたはニューサウスウェルス大学に。専門職を目指して本当によく勉強してくれた。それだけを取ってみても日本で教育を受けずオーストラリアの大学に行ったかいがある。卒業して専門職に就いて、働き始めた頃、別れたままになっていたパパが急死していた。あなたにとっては、パパはヒーロー。他のどんな男よりも立派で頭脳明晰、背が高く、ハンサム、顔形から歩き方までパパにそっくりだったあなたは、パパの写真をお財布に入れていつも持ち歩いていた。あなたから大切なパパを永遠に失わせたこと。再会することなく永遠に別れたままになったことを申し訳なかったと思っている。何より家庭というものを維持することができなかったことを永遠に悔いている。馬鹿な親だったよ。そしてそれ以上に、娘たちの結婚式に立ち会えず死んだパパは大馬鹿だと思う。

そうしてシドニーでの生活もいつしか18年も経ってしまった。
あなたは私のオットとなった人を失明から救ってくれた。肥満と長い間の喫煙から黄斑部変性に陥り眼底に出血を繰り返して失明するところだったオットを、ジョンホプキンス大学から帰って来たばかりの先鋭のドクターのところに連れて行って、まだ未登録だったが最大の効果が望める治験薬のプログラムを組んでくれた。おかげでオットは失明を逃れ、あなたは彼の救世主になった。あなたが人のためになる専門職について、それを一生の仕事に選んでくれたことを、心から感謝している。

こうだったら良かったのに、ああしていたら良かったのに、こんなはずじゃなかった、、、などと人は言うものだが 、あなたの口から聞いたことがない。決して後ろ向きに物を考えない。勇敢にも常に前を向いて前に向かうポジテイブ志向が身についている。それと、人を悪く言わない。人を悪いように解釈せずにいつも良い面をみて評価する。そこがパパにそっくりです。シニカルな批評家には決してならない。そこがあなたが人から愛される理由です。
へこたれもせず愚痴も言わない。逆境にあってもそれを逆境とは受けとらない強さを持っている。そんな性格がこれからもずっとあなたの品性とあなたの人間性とを、高めていくことでしょう。いまあなたは、実にチャーミングなレデイで、頭の良い優れた判断力をもった社会人です。これからも人間として高みを目指して成長して行ってください。私はあなたのような人の親でいることが本当に嬉しくて嬉しくて、あなたが誇らしくてなりません。
結婚おめでとう。