2013年10月31日木曜日

上野でオットと友達と

            

ホテルを移る。今のホテルに何の文句もないが 他のホテルも開拓してみようと思ってホテルニュー東北というサードニックスから歩いてすぐのホテルに、旅行前から予約を入れていた。サードニックスは娘がおととし台湾の友達と日本旅行した時にも、去年ボーイフレンドの居るマレーシアに行く途中日本に立ち寄ったときも泊まっていて、早くも来年の二月にまた日本に寄るときの予約も入れている。
ホテルニュー東北は3階建てなのにエレベーターがないと聞いていたので、一階のツインを予約してあった。ダブルベッドのツインで、部屋はとても広い。いかにも下町のおかみさんという感じのおかみが迎えに出てくれて、部屋を出てカウンターに座っているおかみの前を通るたびに話しかけてくれていろいろ世話を焼いてくれる。おかげで滞在中、明日の天気から、昨日のニュースから、朝ご飯に良いカフェのパンの種類から、晩御飯に一番近いレストランのトンカツの大きさまで事前にわかった。

今日は兄夫婦と姉夫婦に昼食に呼ばれていて、夕食は中学時代のクラスメイト夫婦に招待されている。オットには何日も前から、今日は、昼も夜もイベントがあって、昼寝なしのビッグデイだよ、と言い聞かせてある。このビッグデイを終えて、翌日一日休ませてオットの体力回復を待って、その翌日に、バスの一日旅行、「上高地日帰り」に、参加したいと画策している。
銀座「ハゲ天」でてんぷらをいただく。

中学時代のクラスメイト「ひろこちゃん」とのデイナーは、嬉しい会合だった。私の中学時代から唯一親しくしている人で、ご主人も穏やかな素晴らしい方だ。3人姉妹の真ん中。いつも自分のまわりの人を喜ばせることばかり考えている。子供の時から 彼女の作るクリスマスや誕生日プレゼントは、特別に手のかかった思いやりに満ちたものばかりだった。一年半前に来日したとき会って、オットもこの夫婦が大好きになった。ただそこに居るだけで癒すことができる人。いま彼女も私も孫の居る身になって 、なお友情が変わらずに続いていることを感謝しなければならない。
落ち着いた精養軒のビクトリア風の家具調度品に囲まれて、慇懃無礼なウェイターのよって運ばれる料理は、みな洗練された良いお味だった。素晴らしい夜。大切な友人が、彼女のために生まれてきたようなご主人と仲睦まじくしている様子が 何よりも嬉しい。彼女は人目を惹く美人だが結婚は遅かった。24回見合いをして、全部断った「つわもの」だ。それまでして、妥協なして本当に自分にあった結婚相手をみつけた。自分にあった人を見つける と容易く言うが、夫婦のマッチングは難しいものだ。

オットは自分で強い主張をしたり、意見を述べたりしない。几帳面で物静かで、きわめて扱いやすい。良く誰からも「いいひとね。」と言われ、「いい人」然としている。どちらかというと、「いい人」というよりは、「どうでもいい人」という感じの没個性人間だが、内部にはなかなか強情なところもある。昔、羊を何千頭も抱えるファーマーだったから、オーストラリアの農業を基盤にしている、最も保守の国民党の支持者だ。オーストラリアでは、労働党と自由党が交代で政権を取っているが、オットは、そのどちらも毛嫌いしている。ある日、中国人夫婦に招待されて中国新正月のパーテイーに招待されて二人で出かけた。中国人の中でも、私たちには場違いな、セレブの集まりで 出席者は上院議員や弁護士や政治家ばかり50人ほどだった。当時の首相ジョン ハワードがとなりのテーブルに居た。毎日テレビのニュースで見ている見慣れた顔だ。豪華な食事が終わり、人々が自分の席を離れて、名刺交換など始めたとき、ざっと見回してもオージー(コーカシアン)は、オットとジョン ハワードだけだった。あとは全員、私以外は中国人で「テルマエロマエ」風にいうなら「平たい顔族」だった。コーカシアンが他に居なかっただからだろう。ハワード首相は、席を立つと、まっすぐオットのところに来て握手の手を差し出した。オットはニコリともせず、手を出そうとしない。その場の雰囲気が凍り付いた。人々が息を殺してこちらを見つめている、、。緊張。しかし、さすが世慣れた首相、出した手を引っ込めて何事もなかったように別のテーブルに向かって歩み去った。オットには社交辞令が通じない。このときのオットは、とても大きく見えた。

こんなオットに会ったばかりのころ、家にデイナーに招かれた。
私は左利きで、それを子供の時はあからさまに笑われたり、「おかしな子」扱いされた。今では個性重視の時代になって「ぎっちょ、ぎっちょ」と馬鹿にされたりはしないが、マイノリテイーであることには変わりない。レストランに行くと ナイフとフォークがすでにセットイングされていて、食べるとき私は手をクロスさせて、右に置かれたナイフを左手に、左に置かれたフォークを右に持ち替えなければならない。オットが運んできた料理を食べようとすると、左にナイフが、右にフォークがあるではないか。オーマイガッ! 感動だ。オットとそれ以前に食事をしたことは1度か2度だったか、「ぎっちょ」について話したことは一度もなかった。しかしオットは見ていて、気が付いていたんだな。結構いい奴なんだ、とこのときオットへの評価を上げたのだった。

オットは今、年を取ってヨチヨチと幼児のように歩く。手も震えてきた。もう長生きできない とわかっている。そんなオットとこうして日本で、本当に心が通じる仲間達や友人との時間をたくさん共有できた、ということが本当に嬉しい。

2013年10月29日火曜日

上野でオットと仲間たちに会う



         


上野のサードニックスホテルから歩いて2分のところにある焼き鳥屋「とら八」で、教授が夕食の席を準備してくれていた。今夜は「短矩亭」こと教授、「スーヤグニール」、「FUNKA」と「テンパーテンパー」と会う。これらは、みんなMIXI名であって、これがフェイスブックになると、「短矩亭」、「MASAAKI SUDO」、「FUNKA」、「GREEN DESIGN WORK」となる。私たちは、色んな所で出会い、MIXIを通じて友情を深めてきた。教授は歩けないオットのために、ホテルから出て角を曲がれば良いところに、みんなを集めてくれた。カウンターと他に 数席分しかテーブルがない店に あふれるほどの人が飲みに来ている。焼き鳥の煙と人々の話し声と乾杯の歓声で、エネルギーに満ちている。

教授、「短矩亭」との付き合いはフィリピン時代からだから、もう20年になろうか。1988年、フィリピンのレイテ島貫通道路建設のプロジェクトマネージャーになった夫について、小学生の二人の娘を連れてレイテに3年、マニラに7年暮らした。マニラで夫にフィリピン人女性との間に家庭ができて離婚を余儀なくされて フィリピン生活10年のうち最後の3年間は 娘の通うインターナショナルスクールでバイオリンを教えるシングルマザーだった。
日本政府が送り込んだ外国で、夫が家庭を捨てて失踪するというような事態の中を 何とか持ちこたえてこられたのは、大人同士のやりとりに、いっさい感知せず、天真爛漫に学校生活を満喫してくれていた娘たちのおかげだ。大人の会話に口を挟まず、心配も不安も動揺もせず、全幅の信頼を母親に寄せてくれていた娘たちには、いま、どんなに感謝しても感謝しきれない。

教授は、そのころマニラの地元新聞社編集記者をして、インターナショナルスクールでバイオリンを教える日本人に興味を持って、取材にきたのが切っ掛けで出会った。彼は日本語で話ができる数少ない友人となり、当時13歳と14歳だった娘たちのよき話し相手にもなってくれた。敬虔なクリスチャンでフィリピンの貧困救済や、様々な活動に関わっている。いま彼は大学で教えている身だが、その学術的な価値については全然わたしにはわからない。
フィリピンのマルコス独裁政権下に発表を封じられた反逆の作家、私の尊敬するフランシスコ シヲニール ホセの親しい友人でもある。シヲニール ホセの作品「ポーオン」から「木」、「弟よわが処刑者よ」、「仮面の群れ」、「民衆」へと続く大河小説は、マルコス政権下では出版することができなかったが、いまはフィリピンの近代史、貴重な歴史的証言となっている。教授は「本の虫」でもある。彼の資料のコレクションは、ジャーナリスト大森実並だろう。毎日、フェイスブックで書き続ける彼の評論はいつも的を得ていて、シニカルで手厳しい。筆の辛さに反して、人柄は会って話せばただのオッサンみたいにあたたかい。マニラで会ったときは 生意気盛りだった13,14の娘たちが、いま社会人となり家庭を持っている、というのが全然信じられない、と繰り返して言っていた。本当に月日の経つのが速い。

「スーマー」ことスーヤグニールがやってきた。吟遊詩人、4弦バンジョーとギターを抱えて歌って暮らすアーチスト。横浜に居をかまえ。いろんな店で歌うシンガーソングライターだ。
伊藤慎一さんという方が「グラフィカ」という写真集を不定期的に出していて、2011年「島 02 グラフィカ 三陸」を出版して、このスーマーを紹介している。わたしはMIZIを通してスーマーのことを知って、彼の歌をユーチューブを通してで聴いていた。聴いているととても心が落ち着く不思議な力をもった音楽というか、「語り」だ。本人は、とても静かで謙虚な人、決して大声を出さない。自分の声で自分の言葉をギターとバンジョーに乗せて、語り掛ける。

一年半前にオットと初めて日本に来た時 初めてスーマーのライブを聴きに行った。それでオットはスーマーの大ファンになった。このときに、「短矩亭」も「テンパーテンパー」も聴きにきて、みんな仲良くなった。3枚のCDとスーマーのひとりごとを編集した小冊子をもらって、シドニーでよく聴いている。スーマーは 画家の瓜南直子さんと飲み友達だった。彼女が亡くなって以来、スーマーの歌は 心なしみんな哀しい。彼女のお通夜の二日前に訪ねて行ったそうだ。彼女の横でずっと酒を飲み、しまいには横でいびきをかいて朝まで眠ってしまった。翌朝玄関を出ると、白い猫が突然木から降りてきてスーマーをしばらく見つめて そして行ってしまったという。それをスーマーは、画家がねこに変ってスーマーにお別れを言いに来たのではないか、と、、、。
そんなスーマーは、福島にも歌いに行って、たくさんのことを感じて帰ってきたことと思う。3-11が起こったあと、彼は「こんなときに ひとつになれないなんて」と嘆いたが、その嘆きは3-11以降ずっと続いている。わたしたちは福島の死も、怒りも、悲しみも、ひたひたと迫ってくる放射能被爆さえも「ひとつ」になって経験することができないでいる。「こんなときに、ひとつになれないなんて」それで哀しいのはわたしであり、あなたであり、世界中にみんなだ。

「スーマー」が、「FUNKA」と彼のガールフレンドを連れてきてくれた。「FUNKA」は MIXIで彼の日記があんまりおもしろいので友達になってもらった。若いのに60年代70年代のロックを歌うシンガーソングライター。文学、詩、演劇、漫画、映画、ロック、写真、落語、歌舞伎など、すべてのアートに精通している。書くことも話すことも面白い。彼の良さは、何でも本物と顔を合わせて自分なりの理解をするところだ。怖いものなしの彼の行動性とフットワークの軽さは特筆すべきだ。好きな作家に会いに行き、本人から直接インスピレーションを受けてくる。写真家に直接会って、質問をして本当に知りたいことを掴んでくる。芝居もコンサートも落語も歌舞伎も直接聴きに行く。そういう態度、いいなあ。彼はダブル曼荼羅というバンドを作っていて、有形無形の仲間たちと自由自在に編成しながらロックを歌っている。毎週第4木曜日には、高円寺の地下カフェで、定期パフォーマンスを続けていて、そこにスーマーが加わったりしている。
こんな人が友達で居てくれて嬉しい。とても可愛らしいガールフレンド、、、歌舞伎評論家と言っていたけれど、ゆっくり話を聞かせてもらえなくて残念だった。カルバンクラインのシャツにジーンズ、、、なんてきれいな人だったことか。今度ゆっくりお話しを聴かせてほしい。

もう一人の焼き鳥屋であったのは息子の「テンパーテンパー」。これはMIXI名で、フェイスブックでは「グリーンデザインワーク」を主宰するデザイナーだ。建築物のデザイン、インテリアデザイン、広告のデザイン、自然保護をテーマにしたシャツやバッグを作って販売もしている。ウェブデザインもしていて、屋久島出身なので、屋久島の自然を紹介する素晴らしいヴィデオを作って公開している。
彼はわたしには大切な息子。出会いからもう10年になるが、公立病院の心臓外科病棟にいたとき、救急室のナースが、「ジャパニーズボーイが大怪我で大出血していて、モルヒネをどんなに使っても痛みが取れないでいる。」と言う。彼は、シドニーのマンリービーチで、事故にあいサーフボートが体に突き刺さって大出血する大怪我をした。22人の善意のオージーの血液をもらい、手術で助かったが、彼の体には何本ものピンとネジが埋まっている。会いにいってみると金髪で藤城清治の切り絵にあるような可愛い少年が Vサインをしていた。自然体でいつも笑顔の好青年。この息子もいま、生きていてくれているだけで嬉しい。彼は長いこと入院を与儀なくされたが、どのナースからも可愛がられた。しばらくして退院したあとも、整形外科のナースたちは、私を見れば必ず「ユーキどうしてる?」と聞いてきた。遠くの国から一人でやってきて、サーフィンで事故にあい死にかけた青年、長期間の入院の間、サーフィン仲間以外には面会者がなかったこの青年を ナースたちはみんな自分の子供のように思っていたんだな。こんどリタイヤするロビンに会ったら、「ユーキ結婚したよ。あなたと同じナースがお嫁さんだよ。」と伝えてあげよう。

みんなと楽しいお酒の宴。いつまでもこの素晴らしい人たちと一緒に居たいが、オットは3時間すわっているのが限度。昨日’カメラを無くしたけれど、こんな気持ちの良い仲間たちにしっかりと慰められた。1年半ぶりの再会だったが、またこんどみんなと再会できることを約束して別れた。
ホテルに着くなり、いびきをかいて眠るオット。良い日だった。ありがとう。

2013年10月27日日曜日

上野でオットと国立博物館へ


  

朝のうちだけ元気なオットをタクシーに乗せて、上野の山の今度は国立博物館に行く。
何の疑問もなく1200円の入館料を払って入ろうとすると入口の係り員が、「常設館だけの入館料なので、それだけでは京都のなんだかを展示しているなんだか館には、入れませんよ。」と注意される。常設館だけで充分。離れたところにある別館までは歩けない。
それで何気なく今、その時もらったチケットをよく見たら、小さい字で65歳以上の人は無料、と書いてあるではないか。ここもだ!。シドニーに帰ってきてから知った事実!何て親切な館員ばかりなんだ!

オットは本館で鎧や刀や槍や仏像ばかり見て、ばちばち写真を撮っている。そんな珍しくもないものが、オットには珍しかったのか。
穂高で荻原碌山(オギワラ ロクザン)の彫刻について触れたが、彼の作品「女」がここにはある。知らなかったが、彫刻を見て碌山の作品だとわかった。重要文化財に指定されている。手を後で縛られて、顔を天に向けている女のブロンズ像は碌山美術館にある「デスペラ」同様に、作者の女への絶望的な愛情を訴えていて、強力なインパクトを与えてくれる。素晴らしい作品だ。

アジア館でエジプトのミイラや石像を見る。子供たちが小さくて千駄木に住んでいたとき よく来たところだ。娘たちはエジプトの展示物が大好きだった。特に犬の顔をして人間の姿をしたエジプトの女神の石像に魅かれていた。素晴らしく美しい像だ。
展示物が、インドやアフガニスタンや中国の仏教遺跡から切り取り、持ち去ってきた成果であることが悲しいが、見る側からみると、紀元前の優れた歴史に触れることができて、ありがたいことだ。ロンドンの大英博物館は、世界中から盗んできた歴史的な遺物のコレクションでは世界最大規模を誇る。古代ギリシャの遺跡から持ってきたものはアテネに、エジプトの墓から持ちさって来た遺品はエジプトに、インドの遺跡から石を削り取ってきた仏像はインドに返却すべきだろう。あったものは、あったところに帰し、その地に発祥した文化に敬意を表して、現地に遺跡博物館を作るなどして、遺品を保護をすべきだ。

そんなことを考えながらソファに座って、大谷探検隊がエジプトから遺跡を発掘して遺品を隠して持ってくる当時の写真を見ていた。部屋にはほかに二人の男の人が展示を見ていた。ソファから 隣の部屋のソファが見えて、オットがくたびれて座っている。ハンドバッグとマフラーとカメラのストラップを持ったまま オットのいるソファに移った。そこでオットに声をかけ、あっと思った時、カメラのストラップがなかった。あわててもとの座っていたソファに戻ったが、カメラがない。ほんの2-3分のことだった。ストラップをもっていると思った私の手からカメラがソファに滑り落ちて、すぐカメラが持ち去られてしまったのだ。
撮った写真を全部無くしてしまった。
カメラを盗まれてしまった。
カメラには1000枚の写真が写ったセームカードが入っていた。そのほとんどは、孫たちの写真などでコンピューターにバックアップしてあるが、日本に来て撮った写真はバックアップしていない。剣岳をあれだけ苦労して撮ってきた。もうこの山を真近に見ることはないかもしれないと思って撮った立山、剣、北アルプスの山々の写真、弥陀ヶ原、黒部、安曇野の写真がみんなみんな無くなってしまった。

受付に走って行って、カメラを盗られたので「館内放送をさせてください。」と訴えるが、聞いてくれない。係り員が、カメラが落ちているかどうか、全館内をさがすので 探し終えるまで待ちなさいという。そうではない。ほんの5分前のできごとだ。カメラを取った人は それをポケットに入れて、まだ館内に居る。「カメラは要らないから、セームカードだけ返してください。写っている写真は他の人には価値はないが、私にとってはとても大切なものなのです。」「どうかお願い、カードだけは返してください。」と 館内放送してくれたら、盗んだ人にも心はあるだろう。聞いてくれたかも知れなかった。

私に大切なのはカメラではなく、中のカードなのに、何度説明しても係り員たちはわかってくれない。カメラの色とか、大きさとかを事務的に書いているだけだ。「夜になったら掃除の人が落ちているカメラを見つけるかもしれないので、見つかったら連絡します。」という。
ちがうんだってば。カメラを盗んだ人は 中のカードを捨てていくかもしれない。掃除の人に探してもらいたいのはカメラではなくて、カードなのだ。言っていることが通じない係り員たちを相手に、涙が勝手に出てきて、仕舞にはわんわん大泣きする。一人で大騒ぎしていて、オットなど怖がって遠くのほうに避難している。それでも悲しくて悲しくて、泣いても泣いても収まらない。撮った写真を全部失ってしまったのだ。はじめは同情していた係り員たちも、もう私に手を焼いて顔がひきつっている。「明日の朝、掃除の人がカメラの落とし物を見つけるまで待ちなさい。」を繰り返すだけ。
ちがうってば。
カメラは出てこない。無くしたカメラはまた買えば良い。中のカードを無くしたら永遠に撮った写真は無くしたままなのだ。わんわん泣いて、自分の声が頭骸骨のなかで響いてわーんわーんと鳴り響いている。吐き気までしてきた、、、。もう退け時か。

翌日、博物館に言われた番号に電話する。さんざん待たされて、担当者から担当者の間を回されて 待たされたあげく案の定、「昨日カメラの落とし物はありませんでした。」と言う。おい、ちがうだろー。

上野でオットと国立西洋美術館へ

    


山から帰ってきて、上野のサードニックスホテルでくつろぐ。駅から歩いて5分、昭和通り沿いにあるホテルで、無料の朝食がつく。トースト、ゆで卵、スープとコーヒーまたは、ホットケーキ、またはベーグルかホットドッグとスープ。ホテルで朝食が付くのはありがたい。起きて、食べてからゆっくり身支度をして外出ができる。それができないところでは 起きてカフェまでオットを歩かせて、食後、重くなったオットを椅子から引きはがし、ホテルまで歩かせると、もうオットはベッドに横になってしまう。トドのように横に伸びたオットを一休みさせてから外出するまで、冷えたエンジンをまたかけ直すのに、とても時間がかかるのだ。
日本では名が通っているかどうか解らないが、外国ではこのサードニックスホテル、結構、人気がある。ネットを通じてずっと先の予約まで入れられるし、予約日直前までキャンセル料を取らずに、安くて良い部屋が予約できるからだ。WIFIも、自由に使えるインターネットもある。バックパッカーでなくても長い滞在に、安くて便利なホテルはありがたい。

今日は上野の西洋美術館に行く。普通の人にとっては ホテルから美術館まで歩いて20分だが、オットを連れていくと、タクシーで30分かかる。上野動物園、不忍池、上野国立博物館、科学博物館あたりは、「うちの庭」だった。私は勤めていた新聞社を辞め、専門学校に行き、都立駒込病院に勤め出したので、病院から歩いて通える千駄木2丁目に一軒家を借りていた。二人の娘たちは、そこで生まれた。
休日には自転車で、前に次女、後に長女を乗せて、不忍池のカモにエサをあげに行ったり、東大の三四郎池に釣りに行ったり、上野動物園で一日中動物と遊んだりして過ごした。都心なのに 根津神社や須藤公園など、子供が走り回れるところがいくらもあり、夏目漱石図書館など、教育施設も豊富だった。二階家の屋上の物干し台から晴れた日には 富士山も見えた。西洋美術館は、よく子供たちを連れて来た。入館しなくても建物の前にオーギュスト ロダンの彫刻、「考える人」、「カレーの市民」、「地獄の門」のレプリカがあって、よじ登ったり、まわりを走り回ってよく遊んだ。

館内には松下幸次郎がヨーロッパで収集したドラクロア、クールベ、ミレー、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、シニャック、などフランスを代表する画家たちの作品が常設されている。20世紀の作品では、マルケ、ピカソ、スーチン、レジェ、エルンストの作品もある。
行ったときは、「ミケランジェロ展」特別展をやっていて、システイン教会の天井画など、彼の代表作をフィルムでみせていて、自筆の手紙などが展示されていた。NHKが作ったフィルム以外に見るべきもののない、何か内容の貧しい展示だった。これで特別料金をとるなんて。

入口で、支えないと歩けないオットと二人して、エスカレーターは?エレベーターは?と 大騒ぎして入館する私たちを見ている係り員が、私たちから入館料とミケランジェロ特別展示入室料、2000円をむしり取ってくれたが、いま、このときにもらったパンフレットを見たら65歳以上は無料と書いてあるではないか。オットは65歳以下に見えるわけがない。どうなんだよ!!!
展示室ごとに、係員が一人ずつ座っていて来館者を監視している。グループできている高校生がちょっと絵に近付いただけで 飛んできて注意している。エレベーターを探して重い足を引きずっているオットに平気で、「まっすぐ50メートル行って右です。」とか言って、自分が座っている横の従業員通路のドアさえ開けてくれればエレベーターの入り口なのに、知らん顔をしている。人は職業を選べる。こういう仕事につかなくて良かったと思う。

作品の数は多いかもしれない。しかし、市民の憩いの場所になっているシドニーのNSW州立美術館の雰囲気とは天と地の違いがある。シドニーでは、子供たちが館内で床に寝そべったり、走り回ったり、ソファで熟睡している人もいれば、画の前に座り込んで模写している人もいる。フラッシュをたかなければ絵の写真も撮れる。
芸術は決して特別なものではない。人は誰もが描きたい欲求を持っていて、訴え、表現したい欲求を何かの形にしたいと思っている。出来上がった作品に、自由に触れ、味わい、感じることができないならば、何のための美術館か。

スペインからやってきた版画を特別に展示していたが、これだけが、ちょっと良かった。16世紀のイタリア、フィレンツェの版画家たちによるエッチングだ。オラツィオ スカラッぺリとか、バルトロメオ コルオラーとかの聞き覚えのない人や、ジョバンニ べネト カスとリーネとか、ジョバンニ バテイスタ テイアポロとか、聞き覚えのありそうな人たちの美しいエッチングに感心した。精密画でサンタクローチェ広場や、フィレンツェの街の様子が描かれていて美しい。

タクシーで上野の山を下りて、カフェでケーキとコーヒーを。カフェでタバコを吸っている人がいて、びっくりする。禁煙コーナーがあるようだが、煙は広がる。幼稚園くらいの子供を連れたお母さんが二組、二人ともお母さんがケーキを前にしてタバコを吸っている。欧米でもオーストラリアでも絶対見られない風景だ。新宿では、こんな光景は見なかった。上野だけか?
ホテルでオットを寝かせて、一人で街に出てみる。上野は、とてもとても下町だ。ごたごたしていて、人が多い。そしてファッショナブルな店が一軒としてない。ユニクロさえ、上野のユニクロに置いてあるものは田舎っぽい。20年前の昭和の時代に戻ったようなセンスだ。レトロで良いかもしれないが、買い物したいものがない。みつはしであんみつを食べ、下町の熱気にあてられて、何も買わずにすごすごホテルに戻る。

夜はホテルでサンドイッチを食べれば良い、というオットを叱咤激励して、焼き鳥屋に食べに出る。威勢の良いお兄さんがカウンターのうしろで 手際よく焼き鳥を焼いている。生ビール、おでん、焼き鳥、から揚げ、刺身、焼き野菜、銀杏、冷奴をたて続けに食べて、満腹してベッドへ。
この動けないオットを連れて、明日はどうするか、気になって一日旅行のパンフレットを検討する。もういちど山に行けるチャンスはあるだろうか。「日帰り上高地のバスの旅」というのが、素敵すぎる。朝はやく新宿からバスで、上高地まで行き、上高地帝国ホテルで昼食を食べて、そのへんを散策して、深夜帰ってくるという。そのためには、新宿のホテルに動かないといけないが、どうしよう、、。上高地から穂高を見上げる瞬間を想像するだけで、ドキドキしてきて眠れなーい!

2013年10月26日土曜日

山でオットと3日目:安曇野

        



標高2450メートルの室堂から黒部平1828メートル、そして黒部ダム1470メートルに下りてきた。泊まった「くろよんロイヤルホテル」は、下界への玄関口だ。館内にはレストラン「吉兆」まである格調の高いホテルだった。オットは朝食にクロワッサンを、私は勿論御飯と味噌汁と山葵漬けだ。落葉松に囲まれたホテルを出て、バスで一挙に安曇野に下る。途中、蓮華岳、餓鬼岳、針ノ木岳、赤沢岳、爺が岳が見える。

安曇野は北アルプスの山々から湧き出た梓川、黒沢川、鳥川、中房川によってできた扇状地、松本盆地の一部だ。安曇野の至る所から地下水が湧き出ていて、ワサビやニジマスの養殖に利用されている。いまはリンゴの季節で、真っ赤に色付いたリンゴがバスの窓から手が届きそうに実をつjけている。四方山に囲まれていて、晴れていれば常念山脈、槍、穂高、唐沢岳、乗鞍岳、御嶽山などなど、北アルプスの山々が全部見られるはずだ。今日は、曇りで手前の低山しか見えない。あつい雲の上の方に、いつ山がのぞけるか、遠くに目を凝らす。

高瀬川を渡って、穂高町に入りワサビ農園に案内される。ワサビは気温の低い、水の綺麗な清流でしか育たない。ボートに乗って、ワサビ農園に水を送る水路で水遊びをする。オットは透き通った冷たい水を農園に送り込む水車にいたく感動して、ボートから身を乗り出して写真を撮りまくっている。6人乗りのゴムボートが オットが動くごとにバランスをくずしてユラユラ揺れて、同乗者たちがハラハラしている。ボート遊びのあとは、ワサビバーガー、ワサビラーメン、ワサビビールのある売店で、ワサビアイスを食べたが、ちっともピりっとこなかった。色だけはワサビ色だったけど。

そのあとバスは「碌山美術館」の前を通る。
荻原碌山、1879-1910は、東洋のロダンと言われる穂高町出身の彫刻家だ。穂高東中学校のとなりに、彼の個人美術館が建っている。ここには碌山に関係の深い高村光太郎の作品もある。40年余り前に、この美術館に一人で来た。槍、穂高を縦走して山を下ってきた。駅の案内所で紹介された民宿に泊まった翌日、民宿のおかみに勧められてふらりと立ち寄った小さな美術館で、彼の作品「デスぺラ」、(絶望)を観たとき文字通り雷に打たれたように、感動で動けなくなった。木の床の小さな館の中心に据え置かれたこの ひざまずく女の彫刻を見て、みごとに絶望する女の姿と、孤独にさまよう自分の心とが合致したからかもしれない。この彫刻に出会うことが、槍、穂高を登る目的だったかのようにも思えたものだった。「デスペア」は、碌山が生涯愛した、たった一人の女性、相馬黒光への報われない愛の苦しみを描いた作品だ。相馬黒光は中村屋の創始者、相馬愛蔵の妻で、夫婦ともに芸術家でもあった。体をゆがめて地面に伏せ、うつむく女は、碌山の絶望を全身で表している。1909年の作品だ。碌山は報われない愛に苦しみながら31歳で急死する。
数日後、私とオットは上野の国立近代美術館で、偶然、碌山の作品、「女」に出会った。両手を縛られて、顔を天に向ける女のブロンズ像をみて、すぐに碌山を思い浮かべたのだから、余程「デスぺラ」の印象がまだ残っていたのだろう。

バスは、「ちひろ美術館」に停まる。岩崎ちひろは、国際的に有名な絵本画家で、親が穂高町出身だったそうだ。美術館のまわりは広い公園になっていて保育園の子供たちが保母さんに連れられて、お弁当を食べていた。館内には3000冊の絵本が閲覧できるようになっている。ちひろの絵がたくさんのカードになっていて、母親が子供に画を見せながら、画のイメージを親子で膨らませて、物語をつくることができるようになっているセットを、DVDと一緒に購入した。4歳の孫娘と2歳の孫息子のために 良いおみやげができた。 美術館の隣の旅館でランチを食べる。見た目にきれいなお弁当。おっとっと、、、!マツタケがあるではないか。さり気なく焼き野菜と一緒に並んでいる。口に入れて初めて、マツタケだとわかった。すごく得をした気分。

旅の終わりに長野県の名産品ばかりを集めた物流センターに、バスが止まる。みんなおみやげを両手いっぱい買っている。マツタケを入れた籠も売っている。巨峰の入った籠をひとつ買って、ホテルで食べることにした。夕方、バスは最終地点、上田に着いた。ここから新幹線に乗って東京に帰る。25人のツアーで、ほぼ全員と仲良くなった。ガイジンはオットだけだったので、皆から大事にしてもらった。人ごみで迷子と遭難を繰り返す私たちだったが、皆親切でありがたかった。感謝感激で、さよならだ。

新幹線で、上野に到着。上野駅に「アンデルセン」というパン屋工房ができていて、焼きたてのパンを売っている。飲み物とサンドイッチとパイを買ってホテルに向かう。このツアーが始まる前に泊まった同じホテルなので、置いてきたスーツケースは、もう部屋に運ばれているはず。前と同じレセプションの人が、笑顔で「お帰りなさい」と迎えてくれる。そんな心使いと言葉かけが何よりうれしい。
ビールにサンドイッチ、安曇野で買った巨峰ブドウを食べると もうオットは、風呂にも入らずにベッドへ。私は3日間分のたまった洗濯物をもってホテルのコインランドリーへ。洗濯物のドライヤーが回っている間、アンデルセンのパイで、ウィスキーをチビチビやりながら、撮った写真を見返して、深夜ひとり二マニマして顔を緩める。とうとう山に行って、帰ってきたんだ。

2013年10月25日金曜日

山でオットと2日目:室堂から黒部湖へ

     


翌日、弥陀ヶ原から高原バスで室堂に行く。
室堂は立山、剣縦走の拠点地だ。手前に、「雪の大谷」という雪の名所がある。毎年8メートルもの積雪があるここは雪の吹き溜まりで、時として20メートルもの深い雪が溜まる。除雪車で 両側に切り立った氷の道を作って、4月から6月までの間、観光客が500メートルもの長い、雪に囲まれた道を歩くことができる。それがすっかり溶けてなくなってしまった今は、室堂ターミナルは観光客と立山登山者とでごった返していた。

今日の室堂は強風が吹き荒れている。山の上のほうは大変だろう。素晴らしい眺めだ。昨日はガスがかかって見えなかった剣岳が立山の横からくっきりと頭と肩を出してそびえ立っている。立山連峰が全部見える。立山の主峰、雄山3003メートル、浄土山2831メートル、別山2880メートルが目前に聳えていて、大日連山、国見岳、天狗岳も立派だ。

ここには水蒸気やガスを噴き出す地獄谷があり、火山活動によって爆発した火口をみせていて、今もなお小さな爆発を繰り返している。学生のころ立山を登った時は、地獄谷のなかを自由に歩けた。硫黄のにおいに閉口しながら、ガスが噴き出て、まさに地獄のような岩場を歩いたものだった。もう一度、地獄を見られると思っていたら、今は、立ち入り禁止になっていた。3-11の東北大震災が起きたとき、地盤が変動して、きわめて有毒なサリンガスが噴出するようになったからだという。本当に山は生きているんだな。だから絶えず変化をしながら、人を惹きつけて止まない。

室堂で山岳ガイドについて1時間半かけて、みくりヶ池を一周するトレッキングに参加したかった。参加したかった。本当に参加したかった。早朝なので、みくりヶ池に映える立山、剣の絵葉書のようなみごとな写真が撮れるに違いない。しかしオットが室堂で高原バスを降りたところから一階まで上がって、外に出ることも、2階に上がって展望台に行くこともできない。ヒューヒュー喘息の息をしているオットを放って、ツアーのみんなは嬉々として山岳ガイドに付いて出かけてしまった。
階段しかない室堂ターミナルで 隣接する立山ホテルのカフェを見つけてオットを座らせる。コーヒー1杯で、1時間ねばるようによくよく言い聞かせて、脱兎のごとく地獄谷の方向にむかって走り出す。剣の写真を撮るために。だいだい山で、走っている人なんかいるわけがない。ひどい形相で転がるように走る私を不思議そうに見る人々、、、わー見ないで、見ないでー!風だと思ってください。
風が強くてなぎ倒されそうだ。強風に逆らってガシガシ走る。1時間でできるだけ剣岳が良く見えるところまで行って写真を撮らなければ、、。やっと、目的を果たして写真をバチバチとると もう1時間経っている。向うから大荷物を背負った青年がやってくる。ライチョウに会いましたか?と笑顔で話しかけてくる。大日岳からずっと縦走してきた、という。うらやましいぞ。
大急ぎでターミナルまで戻りオットの身柄を引き受けて、駅に隣接する立山自然保護センターに連れていき、ライチョウの生態のフィルムを並んで見る。大画面に映し出されるライチョウを追ったフイルムを見ただけで本当にライチョウに会ったような気になれる。しあわせ。

標高2450メートルの室堂からトンネルの中をトロリーバスで、立山を横切って大観峰2316メートルに行き、ロープウェイで黒部平1828メートル、黒部湖1455メートルまで下る。とにかく人が多い。トロリーバスもケーブルカーもたくさんの人が乗車の順番を待っている。乗り換えごとに、ツアーコンダクターは、ツアーの面々に付いて行けなくて、駅のど真ん中で遭難している私たちを、人込みの中から探し出して順番の先頭に押し出すことで大変苦労していた。ごめんなさい。

黒部湖で遊覧船に乗る というのがツアーの目玉のひとつだったが、強風で遊覧船は出ないことになった。標高1433メートルの黒部ダム0.8キロの距離を歩いて渡らなければならない。アルペンルートを富山側から来たのだから、長野県側に出なければならない。オットを支えて歩かせる。少し歩いては、甘いものを食べさせて、また少し歩いては飲み物を与える。何のことはない私のやっていることは動物の「調教師」と変わらない。
黒部ダムはこのオットではなく、死んだ夫が昔、熊谷組に居た時に建設に関わった。山が深く道がないので資材を運ぶ運搬ルートを整備することが大仕事だった、とよく聞かされた。ダムの側面に殉職者慰霊碑がある。黒部のダム開通までのドラマを映画化し、石原裕次郎が主演した「黒部の太陽」は、有名だ。見てないけど。
新田次郎の「点の記」は、剣岳が主役だが、映画化されてとても良かった。実際に、撮影のためにスタッフも役者たちも剣岳を登坂したというが、重いカメラをもった撮影班は大変だっただろう。今またこの時の映画監督、木村大作は、黒部で新しい映画の撮影に入っているという。「春を背負って」というタイトルらしい。楽しみだ。

黒部ダムからは、真正面に赤沢岳2678メートルがとても立派に見える。とおく後立山連峰が大きく広がり、白馬山脈につながっていく。ダムの上0,8キロをようやく渡り歩き、扇沢行のトロリーバスに乗らなければならない。40段の階段がそびえ立っている。関西電力が山を掘って、岩をぶち破って作った山の地下を走るトロリーバスだ。1段 1段 オットをなだめすかし、飴を与え,鞭で脅かして登る。そのあいだ、たくさんの人が、「大丈夫ですか」と聞いてくれる。大丈夫なわけないだろーが!秘境で山をぶち抜いて作ったダムを歩いているのだから、大変なのはわかる。しかし車椅子の人がアルペンルートに来られるようになるのは、いつのことだろうか。

扇沢からバスを乗り換えて、黒部ロイヤルホテルへ。落葉松に囲まれたモダンな洋館だ。夕食はフレンチ。
男女別の露天風呂まである。でもオットには大浴場は無理。外国では温泉に、水着を着て入る。ずっと前、私の友達が男同士で露天風呂に入っている写真をフェイスブックにアップした。アメリカンスクール育ちの娘は、ニッポンの中年男達が裸で露店風呂に入っている写真にショックを受けて、すぐにフェイスブック友達から外して絶交した。娘はニッポン人が温泉で酒を飲んだり、くつろいだりするのを全部裸でするものだ、ということを知らなたっかのだ。私も公衆浴場や温泉で他人とくつろぐ経験がない。どんなものか 覗いてみたが沢山の人がいるところに入っていく勇気がない。深夜、オットを寝かせて、そっと誰もいない巨大な檜の風呂にちゃぽんと入り、泳いでみて、露天風呂に浸かってみた。石でできた温泉は深さも十分あり垣根で外の風や雨を防ぐ工夫がされているが、遠くの山が見える訳ではなく、宿の庭が見られるようになっている。これが森林浴か?経験してみたが、肌は本当にスルスルになった。だから人気なんだな。なっとく。

2013年10月23日水曜日

いよいよオットと山へ、弥陀ヶ原





アルペンツアーに参加する。そのために上野のホテルに1泊した。
ツアーの名前は、「歩かなくても楽しめるアルペンツアー」、、ジャジャーン!歩かなくて山に登って紅葉が見られるなんて、そんなことを山の神様に許してもらえるのだろうか。宣伝文句の「足の弱い人でも大丈夫」、「荷物は無料で一足先に宅配します」、「歩かないで、3000メートル級の山々が目の前に、、、」という言葉につられて、ついふらふらと参加を決めてしまった。オットは沖縄に行きたい と叫んでいたというのに。ゴメンよー!

アルペンルートとは、北アルプスの山々の中でも、長野県の大町市から日本海側の富山市を結ぶ立山、黒部の山々を行くルートを言う。具体的には立山から美女平、室堂に登り、立山を観ながら黒部湖に降りてきて、黒部ダムを見て扇沢に下りる、2泊3日の山旅だ。
学生の頃、夏に立山、剣岳縦走を何度か試みた。同じコースで、トロリーバスで室堂まで行き、立山の雄山に取り着いた。立山3山には成功したが、2度とも天候が悪くて剣まで行けなかった。その時以来、剣岳は私にとって「登山不可能な山」、永遠に見上げて憧れる山になった。どこから見ても美しい。妥協のない完璧な美しさ。堂々として取り付きようがない。こんなに素晴らしい山が、立山よりも低いなんて信じられない。立山3003メートル、剣岳2999メートル。いっそのこと剣の頂上に高いケルンを積んで立山より高くしたい。

新幹線あさま511号に乗る。上野駅で待っていると、長野に行く白のボデイに赤いラインの入った新幹線や、山形行きの緑色の美しい新幹線や、真っ赤な美しい流線型の秋田行きの新幹線が次々と入ってきて目を奪われる。オットは夢中でカメラを向けているけど、シャッターを押したときにはすでに走り去っていて、ひとつも写真に映っていない。
新幹線で長野駅まで行き、バスで立山駅へ。そこから立山ケーブルカーに乗り、一挙に500メートルの高度をかせいで、美女平に行き、またそこから高山バスで弥陀ヶ原まで登るのが今日のスケジュールだ。
美女平までの立山ケーブルカーに乗るときの階段が大変だった。オットは死にかかった。私だけの支えでは足りなくて、ケーブルカーの係りの人が オットを背負うようにして叱咤激励して何とかオットを引き上げてくれて、やっとのことでケーブルカーに乗ることができた。ケーブルカーは急傾斜に止まっているから、乗り込む階段も急傾斜で、手すりも頼りの綱も鎖もない。下りるのも大変だった。半分死んだ顔で、美女平行きのバスに乗り込んで、やっと息を吹き返した。「歩かなくても楽しめるアルペン」なんて、真っ赤なウソを信じちゃダメだよ。山はそんなに甘くない。

反対に私は山に入れば入るほど生き生きしてきた。落葉松とぶなの林のなつかしい香り。山から吹き下ろしてくる乾いた風の心地よさ。山の滋養を全身に感じて体中の血液が浄化されるようだ。何て山は素晴らしいんだ。心が嬉しくて沸き立っている。山の風と一緒に飛び回っている。

高原バスで、標高1930メートルの弥陀ヶ原に上がるまでの途中、称名の滝を見る。350メートルの高さを豊かな水量が落下する。日本で一番長い滝だ。ちょっと沢登りしてきます、、、と言って取り付くようなスケールではない。
弥陀ヶ原は、紅葉の真っただ中だった。もんくなしの日本の秋に出くわした。ダケカンバの真紅、ヌマモミジ、チシマササ、オオバスノキ、アオモリトドマツ、ナナカマド。どれもが異なった赤さに染まっている。弥陀ヶ原は美女平と室堂の間に広がる東西9キロ、南北3キロの広い大湿原だ。春から夏のかけては山からの水でたくさんの水溜りが点在し、水芭蕉、ゼンテイカ、チングルマ等が咲く。今ごろの秋にはすっかり湿地が乾いて歩けるほどになるが、尾瀬のように木道ができていて木道から外れて高山植物を踏み荒すようなことは許されない。木道から、かなり離れたところで、ライチョウがダケカンバの実を食べにくる。それが証拠に、金魚のエサのような形の良い乾いた糞がところどころに落ちている。ライチョウ、、、なんて可愛い奴なんだ。姿は見えないんだけど糞を見ただけで満足。

弥陀ヶ原には私たちの泊まる弥陀ヶ原ホテルと国民宿舎があって、どちらも白い大きなモダンな建物だ。弥陀ヶ原ホテルの中二階にある大食堂からのながめが素晴らしい。四方ガラス張りの窓から紅葉した中大日岳が見える。他に獅子岳、鍬崎山、白山なども。遠くを見ると、下方には日本海と富山市まで見える。キラキラ街の火が光る、日本海側の夜景は絶景だ。
夕食に、富山でしか捕れないという白エビを大根おろしをつけて出された。ホタルイカや、なんとかのワタ漬けとか、なんだかの刺身など山海の珍味もたくさん。それで、お酒を飲んだ。室堂から引いた大きな温泉まである。3000メートル級の山々に囲まれて、絶景をみながら温泉に、お酒で、のんびりできる贅沢に、なんだか慣れない。山に居るという実感だけで、嬉しすぎて山でくつろぐのがもったいなくて仕方ない。山だ、山だ、山に居るんだぞー! と、心がはしゃいで止められない。ひとりでワーっと叫んで走り回りそうだ。

2013年10月22日火曜日

オットと名古屋へ




昨日一人でホテルから脱け出したとき、新幹線のチケットを買ってあった。名古屋に行くには新宿からでは東京駅より品川駅のほうが歩かなくて済むという。みどりの窓口は、いつも事務的だが親切だ。
3泊泊まった新宿のホテルを後にして、名古屋に向かう。大きなスーツケースは 名古屋から東京に帰ってきたときに泊まる、上野のホテルに宅配で届けてもらうので、2泊3日の名古屋には、小さなリュックサックひとつで向かう。息子に会うために。

この息子は、むかしむかしシドニーにワーキングホリデイで来た時に、病気で倒れて入院したときに付き添った。高学歴で、高収入の大企業をサッサとやめてサーフィンとサッカーをするためにシドニーに来た。背が高く、ハンサム、デイスクジョッキーなど、趣味も多岐に渡り、ちょっと甘えっ子のほかは、文句のつけようのない35歳の青年。こんな100点満点のような青年がいまだになぜ一人なのか合点がいかない。出来ることならば、本当に本当の母親になりたかった。

オットは新幹線に乗れるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。朝から「わーい、わーい!!!」というはしゃいだオットの「心の声」が聞こえてくる。前回日本に来た時に、東京、京都間を乗ったときに、カートに飲み物やお弁当を乗せた売り子が来て、富士山を見ながらビールでお弁当を食べた感激を忘れていない。
ところが今回は名古屋までの自由席で、一番後ろの1号車。カートは前からくるという。1号車まで売りに来るのは名古屋に着くころでしょう と後ろの座席の人は言う。ホテルから新宿駅までオットを歩かせるのに駅から5分のところを30分かかった。そこから品川駅まで山手線に乗り、新幹線プラットフォームまで何とか歩かせるのに大汗をかいて、とてもお弁当や飲み物まで買って持つ余裕はなかった。車内で、5号車に自動販売機があります、という案内を見て行ってみたら、ぎょえー!ウォーターボトルだけの自動販売機だった。ありかよ!
ビールとベント―ボックスをひたすら待っているオットに、冷たいウォーターとリュックの底の底に残っていた1日前のぺちゃんこに潰れたクリームパンを食べさせる。空腹で不機嫌になったオットに、富士は見えるか、どころではない。

名古屋駅に着いた途端、駅ビルのなかにカフェがないかと探すオットの目が血走っている。私はきしめんが食べたい。味噌カツが食べたい。鶏手羽さきが食べたい。味噌おでんが食べたい。ひつまぶしが食べたい。スープスパゲテイが食べたい。お握りが食べたい。ういろうも食べたい。しかし、そのどれも食べられない。オットのために、見つけた駅ビルのカフェで、焼きたてのアップルパイを食べてコーヒーで一息つく。朝はトーストとコーヒー、昼はサンドイッチとコーヒー、夜はバーガーとビールで良いオット、何なら朝も昼も夜もサンドイッチで嬉しいというオット。何て奴と結婚しちまったんだ。全く腹が立つ。

息子と連絡がついて何年振りか、なつかしい息子がタクシー出迎えに来る。一緒にポルトガル料理屋へ。ますます立派になって、、、。名古屋で自立して生活している息子に こうして会えるなんて、何て嬉しいことだろう。息子がちょっとだけ触れる仕事の愚痴も、家族のことごとも、形の良い眉毛にカミソリでデザインを入れる独創性も、まっすぐ通った鼻筋も、力強い顎の形も、大きな手も、なにもかも嬉しい。生きて息をしていてくれて、それだけで嬉しい。私たち家族は、ワーキングホリデーで来たこの青年のことが本当に好きだった。シドニーに来たばかりで入院することになって、痛みをこらえて退院したときも、マンリーの海で溺れ死にそうになったときも、家探しや、職探しに苦労していた時も、忙しすぎてあまり力になってあげることができなかった。それが、いまは立派な職業人。眩しく見えるぜ!

次の日は名古屋城を見て、ノリタケガーデンを見る。昔は名古屋駅から名古屋城が見えた。大昔京都で逮捕されたドジな学生を身柄引き受けするために京都に向かう途中、名古屋駅から立派なお城が見えたので、いつか行ってみたいと思っていた。商業都市の中心名古屋は、今ではラシック、ナデイアパーク、名古屋パルコ、オアシス21、などなど超近代的な複合商業施設が林立している。美味しい食べ物屋さんも多い。高層建築のビルばかりで、もちろんもう駅からお城は見えない。
タクシーに乗って、昔は駅からお城が見えた、というと年配の運転手は、笑いながら肯定も否定もせず、「そんなときもありましたかねえ。」と感慨深げに言うだけだ。

夜、息子と観覧車に乗って、名古屋の夜景をながめる。
あとは焼き鳥屋で息子と一杯やる。味噌カツ、味噌おでん、ひつまぶし、手羽先、刺身、から揚げを次々と平らげる。名古屋のひつまぶしは、かば焼きを小さく切って載せたうな丼を、はじめは普通に食べ、2杯目にはネギ、ワサビ、ノリをたくさんかけて食べ、3杯目は混ぜ合わせた中身をお茶漬けにして食べる。うな丼を3回違った食べ方で楽しむ名古屋の名物だ。お茶漬けにする前に食べきってしまったので、あとでお茶を飲んだから、おなかの中でうまい具合に3杯目のひつまぶしをやっているはずだ。
頼もしい息子の腕で、タクシーにオットとともに押し込まれて、バイバイと、、、。遠ざかる息子の姿が小さくなっていく。ぼやけてよく見えないけれど。

2013年10月21日月曜日

オットと新宿で

        
念願の日本上陸から第2日目。
オットにビッグカメラでカメラと時計を買う。カメラと言ってもソニーのデジカメで4万3千円ほど。腕時計といってもシチズンの実用的なやつで、高級品とは程遠い、私たちにとっての日本上陸記念だ。
数年前オットに当時発売されたばかりの、ニコン5000デジタル一眼レフカメラを買った。オットが嬉しそうにこれを首から下げて写真を撮ったのは去年日本に来た時の一度きりで、それ以降は二度と使わない。重いのと、使い方が難しくなって使いこなせないままホコリを被っている。今回のは軽くて首に下げても重くないし、40倍にフォーカスできる。小さいカメラの中で一番レンズの質が良い、というセールスマンの勧めに従って買った。これだけのオットの買い物に朝、ホテルを出てから3時間、、、もう限度です とオットの息が上がっている。カフェでコーヒーとケーキを食べさせて、カメラ屋からホテルまでの300メートルの距離をタクシーで来たが、またタクシーで帰り、オットを寝かせる。全く2歳になったマゴより手がかかる。

シドニーを出る前にアマゾンに、30冊ほど本とDVDを注文して、ホテルに受け取ってもらってあった。他に乾燥食物まで注文してあったので大きな段ボールで3箱分、荷台に乗せてボーイが部屋まで運んできた。ネットで注文するときは次々とボタンを押すだけで簡単なのに、こんな大荷物になっているなんて、、、。中のものをより分けて、全部娘達宛てに郵便局から送る。外国にいても日本人は日本人。本が必需品だ。活字なしの生活ができない。エッサエッサと、ひと箱ずつ郵便局に運んで送り、荒い息で帰ってきた私に、「カステーラとか僕へのプレゼントもシドニーに送っておいてくれた?」とオットのたまう。「ねーよ、そんなもん!」全く2歳のマゴより手がかかる。

鬼の寝る間に、そっと音を立てずにホテルを出て、ルミネで自分のパンツを4本とシャツ10枚を買う。試着したのはパンツ1本とシャツ1枚だけで、買ったのは全部同じものを色違いで求める。パンツとジーンズだけは日本人体形に合った日本製でないと似合わない。シドニーで何着も買ったパンツが全部無駄になっている。オージーのお尻と日本人のお尻と、実際どうちがうのか、よくわからないが、不思議と日本製のパンツなら試着せずともうまく自分にフィットするのだ。ホテルに帰ってみると、眠っていたはずのオットが、ブーツをはいて、ジャケットまできちんと着て待っていた。ホテルで取り残されて、眠るどころか緊張して待っていたらしい。私が居ると寄りかかって自分では何もしないくせに一人きりになるととりつくろう性格。よくあるケースかもしれない。赤ちゃんを寝かしつけて、シメシメと、そーっと音をたてないようにお茶を入れて、お菓子を口に居れようとした瞬間に、寝たはずの敵がギャーと泣く、という感じ。全く 2歳のマゴより手がかかる。

すでに正装してしまっているオットと夕食のためにホテルから20メートル先にあるトンカツ屋まで歩く。サッポロ生をジョッキで2杯ずつ。これが美味しい。このために、はるばる日本にやってきたぜーい、と心から思える。ヒレカツの柔らかさにも感激。私がドボドボとカツにもキャベツにもソースをかけるのを顔をしかめて見ながら、オットは塩をパラリとかけるだけで、おいしそうに食べている。1年半前に来た時と、味が変わっていない。カラリと揚がったカツに、「良いお味ですね。」というと、若旦那、「前に来てくれたお二人さん、よく覚えていますよ。」と言われる。そう、あのころは、オットは支えなしでも自分ひとりでサッサを歩けた。80歳を超えると哀しいことだが自分でできないことが増えていく。ホテルに帰って、新宿の夜景を見ながら、ウィスキーの水割りグラスを傾ける。飲み相手、、これだけは2歳のマゴにはできない、か。

2013年10月20日日曜日

死ぬ前にもう一度日本に

    

死ぬ前にもう一度日本に行きたい、と突然言い出したオットを連れて日本を旅行してきた。
3週間かけて東京、名古屋、長野の山々を見て東京に戻り、懐かしい人々にも会い、二人して無事、病気も怪我もせずに、帰ってこられたので、ほっとしている。
もどってきたシドニーでは、明るい青空の下、紫色のジャカランダの花が咲き始めていた。出かける前は ようやく春を告げるワトルが、美しいゴールデンシャワーのように頭の上から垂れ下がるように咲き始めた頃だったから、居ない間にオーストラリアは春から夏に移行したことになる。

18歳で生まれて育った家を出た。あのころはベトナム戦争に反対するデモとストに明け暮れていて、閉鎖した大学内に住み着く活動家たちも多く、18の家出学生など珍しくもなかった。それからずっと時間がたち、18年という時間と同じくらいの時を シドニーに移ってきて、オットと過ごしたことになる。シドニーで大学を終えた娘たちも 立派に専門職について自立した。時の流れの速さに愕然とする。

2012年の4月に初めてオットを連れて日本を旅行した。桜が満開する前に帰ることになって残念だったが、オットは初めて見る東京、箱根、富士、京都、奈良に感激のし通しだった。帰って来て、3か月後に心筋梗塞の大発作を起こして緊急手術して命をつなぎ止めた。
今回の旅では、血圧計、狭心症の舌下錠、抗血液凝固剤、降圧剤、コレステロールの薬、膀胱筋弛緩剤、喘息薬、吸入器、3種類の吸入剤、緑内障点眼剤、黄変部変性点眼薬などなどを リュックに詰めて持ち歩くことになった。もともとサンタクロースのような体形のオット、運転で出かけるのは得意だが徒歩で歩くのは100メートルがやっと。左から支えるようにして抱えて歩くが、だんだん寄りかかってきて20メートル歩くころには、50キロで小柄な私に自分の体重を全部持たせかけてくる。旅行中ずっと、叱咤激励して歩かせる事を繰り返すことになったが、こんなことなら車椅子の人と旅行するほうがずっと楽だっただろう。

まず第一日目。日本航空便で成田に着いたのは夜。新宿駅から歩いて5分の距離にあるサンルートプラザ新宿ホテルに泊まることになっている。ホテルまで直接リムジンバスが行ってくれるので、助かる。途中、スカイツリーが、イルミネーションでさまざまな色で輝いていた。乗り物が大好きなオットは、飛行機に乗れるのが嬉しくて嬉しくて、はしゃいで機内食をすべてたいらげる、という信じられないことをして、リムジンバスに乗るときは 空港の自動販売機で買った缶コーヒーを握りしめて夜の光景に目を凝らしていた。
日本に着いて外国暮らしの日本人が、まずやりたいことの一つが、「自動販売機」に駆け寄ることではないだろうか。同じ一つの自動販売機なのに、ボタンひとつで、熱いコーヒーも冷たいお茶も出てくる。感激だ。缶コーヒーも沢山種類があって、こだわりの味を宣伝していて、どれも、美味しい。
もう一つ、外国暮らしの日本人が日本に着いて感激するのは、空港の座ると温かいトイレ。日本では空港でもデパートでも駅でも どこに行ってもトイレは洗浄器つきの温かい便座が当たり前だ。けれど欧米やオーストラリアでは洗浄器つきのシャワートイレットを知っている人が少なく、見たことのある人もわずかだ。このことを知ってからは、顔が綺麗なオージーが綺麗に思えなくなってくる。世界中で日本人ほどお尻がぴかぴかに綺麗な国民は他には居ない。みんなもっと自分たちのお尻を誇りにして良いだろう。

ホテルでやっと一息ついてベッドに入る。しばらくして やっとうつらうつらして来た頃に、オットがハートアタックみたいに胸が痛いと言い出す。眠いところを起こされて、「オイ、オマエ ただの食いすぎだよ。」と言って、くるりと背を向けて眠りたい本音をおさえて、血圧測定、脈をみて、狭心症の舌下錠剤を口に含ませてやる。本心ではなくて、ちゃんと優しい声で、「ちゃんと心臓動いてるよー。」と報告。安心したらしく、もう1錠舌下錠を服用させるとオットは すぐにスースー寝息をたてて眠り始める。
やれやれ。
第一日目から、これかよ!
死ぬ前にもう一度日本に行きたいと言い出して、娘たちには「去年日本に行かれて良かった。私の人生で最良の時だった。人生で一番幸せだった。」と遺言のように繰り返し言うので、、本当に、死ぬのかと思ってもう一度日本に連れてきてあげたけけれど、、、。この調子で毎年毎年、死ぬ前にもう一度、、、と言い出すつもりではないのだろうか。
眠るタイミングを失って、オットの気持ちよく眠る規則的な寝息を聴きながら、「まんまとだまされた。また、むこうが上手だった。だまされたー!」という感にさいなまれて全然眠れなくなった私。心穏やかでない第一日目の夜が明けていく。