2013年10月29日火曜日

上野でオットと仲間たちに会う



         


上野のサードニックスホテルから歩いて2分のところにある焼き鳥屋「とら八」で、教授が夕食の席を準備してくれていた。今夜は「短矩亭」こと教授、「スーヤグニール」、「FUNKA」と「テンパーテンパー」と会う。これらは、みんなMIXI名であって、これがフェイスブックになると、「短矩亭」、「MASAAKI SUDO」、「FUNKA」、「GREEN DESIGN WORK」となる。私たちは、色んな所で出会い、MIXIを通じて友情を深めてきた。教授は歩けないオットのために、ホテルから出て角を曲がれば良いところに、みんなを集めてくれた。カウンターと他に 数席分しかテーブルがない店に あふれるほどの人が飲みに来ている。焼き鳥の煙と人々の話し声と乾杯の歓声で、エネルギーに満ちている。

教授、「短矩亭」との付き合いはフィリピン時代からだから、もう20年になろうか。1988年、フィリピンのレイテ島貫通道路建設のプロジェクトマネージャーになった夫について、小学生の二人の娘を連れてレイテに3年、マニラに7年暮らした。マニラで夫にフィリピン人女性との間に家庭ができて離婚を余儀なくされて フィリピン生活10年のうち最後の3年間は 娘の通うインターナショナルスクールでバイオリンを教えるシングルマザーだった。
日本政府が送り込んだ外国で、夫が家庭を捨てて失踪するというような事態の中を 何とか持ちこたえてこられたのは、大人同士のやりとりに、いっさい感知せず、天真爛漫に学校生活を満喫してくれていた娘たちのおかげだ。大人の会話に口を挟まず、心配も不安も動揺もせず、全幅の信頼を母親に寄せてくれていた娘たちには、いま、どんなに感謝しても感謝しきれない。

教授は、そのころマニラの地元新聞社編集記者をして、インターナショナルスクールでバイオリンを教える日本人に興味を持って、取材にきたのが切っ掛けで出会った。彼は日本語で話ができる数少ない友人となり、当時13歳と14歳だった娘たちのよき話し相手にもなってくれた。敬虔なクリスチャンでフィリピンの貧困救済や、様々な活動に関わっている。いま彼は大学で教えている身だが、その学術的な価値については全然わたしにはわからない。
フィリピンのマルコス独裁政権下に発表を封じられた反逆の作家、私の尊敬するフランシスコ シヲニール ホセの親しい友人でもある。シヲニール ホセの作品「ポーオン」から「木」、「弟よわが処刑者よ」、「仮面の群れ」、「民衆」へと続く大河小説は、マルコス政権下では出版することができなかったが、いまはフィリピンの近代史、貴重な歴史的証言となっている。教授は「本の虫」でもある。彼の資料のコレクションは、ジャーナリスト大森実並だろう。毎日、フェイスブックで書き続ける彼の評論はいつも的を得ていて、シニカルで手厳しい。筆の辛さに反して、人柄は会って話せばただのオッサンみたいにあたたかい。マニラで会ったときは 生意気盛りだった13,14の娘たちが、いま社会人となり家庭を持っている、というのが全然信じられない、と繰り返して言っていた。本当に月日の経つのが速い。

「スーマー」ことスーヤグニールがやってきた。吟遊詩人、4弦バンジョーとギターを抱えて歌って暮らすアーチスト。横浜に居をかまえ。いろんな店で歌うシンガーソングライターだ。
伊藤慎一さんという方が「グラフィカ」という写真集を不定期的に出していて、2011年「島 02 グラフィカ 三陸」を出版して、このスーマーを紹介している。わたしはMIZIを通してスーマーのことを知って、彼の歌をユーチューブを通してで聴いていた。聴いているととても心が落ち着く不思議な力をもった音楽というか、「語り」だ。本人は、とても静かで謙虚な人、決して大声を出さない。自分の声で自分の言葉をギターとバンジョーに乗せて、語り掛ける。

一年半前にオットと初めて日本に来た時 初めてスーマーのライブを聴きに行った。それでオットはスーマーの大ファンになった。このときに、「短矩亭」も「テンパーテンパー」も聴きにきて、みんな仲良くなった。3枚のCDとスーマーのひとりごとを編集した小冊子をもらって、シドニーでよく聴いている。スーマーは 画家の瓜南直子さんと飲み友達だった。彼女が亡くなって以来、スーマーの歌は 心なしみんな哀しい。彼女のお通夜の二日前に訪ねて行ったそうだ。彼女の横でずっと酒を飲み、しまいには横でいびきをかいて朝まで眠ってしまった。翌朝玄関を出ると、白い猫が突然木から降りてきてスーマーをしばらく見つめて そして行ってしまったという。それをスーマーは、画家がねこに変ってスーマーにお別れを言いに来たのではないか、と、、、。
そんなスーマーは、福島にも歌いに行って、たくさんのことを感じて帰ってきたことと思う。3-11が起こったあと、彼は「こんなときに ひとつになれないなんて」と嘆いたが、その嘆きは3-11以降ずっと続いている。わたしたちは福島の死も、怒りも、悲しみも、ひたひたと迫ってくる放射能被爆さえも「ひとつ」になって経験することができないでいる。「こんなときに、ひとつになれないなんて」それで哀しいのはわたしであり、あなたであり、世界中にみんなだ。

「スーマー」が、「FUNKA」と彼のガールフレンドを連れてきてくれた。「FUNKA」は MIXIで彼の日記があんまりおもしろいので友達になってもらった。若いのに60年代70年代のロックを歌うシンガーソングライター。文学、詩、演劇、漫画、映画、ロック、写真、落語、歌舞伎など、すべてのアートに精通している。書くことも話すことも面白い。彼の良さは、何でも本物と顔を合わせて自分なりの理解をするところだ。怖いものなしの彼の行動性とフットワークの軽さは特筆すべきだ。好きな作家に会いに行き、本人から直接インスピレーションを受けてくる。写真家に直接会って、質問をして本当に知りたいことを掴んでくる。芝居もコンサートも落語も歌舞伎も直接聴きに行く。そういう態度、いいなあ。彼はダブル曼荼羅というバンドを作っていて、有形無形の仲間たちと自由自在に編成しながらロックを歌っている。毎週第4木曜日には、高円寺の地下カフェで、定期パフォーマンスを続けていて、そこにスーマーが加わったりしている。
こんな人が友達で居てくれて嬉しい。とても可愛らしいガールフレンド、、、歌舞伎評論家と言っていたけれど、ゆっくり話を聞かせてもらえなくて残念だった。カルバンクラインのシャツにジーンズ、、、なんてきれいな人だったことか。今度ゆっくりお話しを聴かせてほしい。

もう一人の焼き鳥屋であったのは息子の「テンパーテンパー」。これはMIXI名で、フェイスブックでは「グリーンデザインワーク」を主宰するデザイナーだ。建築物のデザイン、インテリアデザイン、広告のデザイン、自然保護をテーマにしたシャツやバッグを作って販売もしている。ウェブデザインもしていて、屋久島出身なので、屋久島の自然を紹介する素晴らしいヴィデオを作って公開している。
彼はわたしには大切な息子。出会いからもう10年になるが、公立病院の心臓外科病棟にいたとき、救急室のナースが、「ジャパニーズボーイが大怪我で大出血していて、モルヒネをどんなに使っても痛みが取れないでいる。」と言う。彼は、シドニーのマンリービーチで、事故にあいサーフボートが体に突き刺さって大出血する大怪我をした。22人の善意のオージーの血液をもらい、手術で助かったが、彼の体には何本ものピンとネジが埋まっている。会いにいってみると金髪で藤城清治の切り絵にあるような可愛い少年が Vサインをしていた。自然体でいつも笑顔の好青年。この息子もいま、生きていてくれているだけで嬉しい。彼は長いこと入院を与儀なくされたが、どのナースからも可愛がられた。しばらくして退院したあとも、整形外科のナースたちは、私を見れば必ず「ユーキどうしてる?」と聞いてきた。遠くの国から一人でやってきて、サーフィンで事故にあい死にかけた青年、長期間の入院の間、サーフィン仲間以外には面会者がなかったこの青年を ナースたちはみんな自分の子供のように思っていたんだな。こんどリタイヤするロビンに会ったら、「ユーキ結婚したよ。あなたと同じナースがお嫁さんだよ。」と伝えてあげよう。

みんなと楽しいお酒の宴。いつまでもこの素晴らしい人たちと一緒に居たいが、オットは3時間すわっているのが限度。昨日’カメラを無くしたけれど、こんな気持ちの良い仲間たちにしっかりと慰められた。1年半ぶりの再会だったが、またこんどみんなと再会できることを約束して別れた。
ホテルに着くなり、いびきをかいて眠るオット。良い日だった。ありがとう。