2012年4月29日日曜日

映画 「タイタニック 3D」



今年はタイタニック号沈没事故から100年目ということで、4月15日には 大規模な100年目の記念慰霊祭が行われた。1500名余りの犠牲者達の家族がイギリスのサウスハンプトンに集まり、タイタニック号が沈没した海域まで航行、鎮魂の慰霊が行われた。ニュースで遺族らが 沈んだ船のあるあたりに、次々と花束を投じている姿が報道された。


BBCでも タイタニックが何故あれほどの多大な犠牲者を出し、何故予想に反してあれほど短時間で沈んでしまったか、科学的な検証に基ずいて調査し、追及した結果をフイルムで発表、放映した。当時の製鉄技術が低く、鉄に不純物の硫酸マンガンが多量に含まれていたこと、鉄の動きに反する方向に打ち込まれていたリベットが衝突で抜け落ちてしまった などという技術的、基本的なミスがあった上、構造上にも問題があったことが指摘された。しかし、死者1500人以上と、海難事故最大の犠牲者が出た一番の原因は 救命ボートが乗客の半数分しかなかったことに尽きる。当時の人命意識の軽薄さ、エリートエンジニア、技術者達の奢りと過信に対する自然の戒めだったと考えることができる。

映画「タイタニック」(原題TITANIC)は、ジェームス キャメロン監督、脚本、製作による1997年のアメリカ映画。1912年4月15日、午前2時20分に沈没した豪華客船タイタニック号の史実をもとに、貧しい画家の青年と没落貴族の娘の悲恋物語を描いた作品だ。
1998年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、など11の部門で受賞した。全世界で18億3500万ドルという映画史上最高の世界興行収入を記録して、ギネスブックに載った。この記録は 同じジェームス キャメロン監督によって作られた 映画「アバター」によって新記録が出るまで更新されることがなかった。

世界興行成績で最高記録を出した「タイタニック」も「アバター」も同じ監督による作品だということは、大変名誉なことだろうが、当ジェームス キャメロンが、今年「タイタニック 3D」を発表した。3Dを作ったことについて、「作品に新しい命を吹き込みたかった」と語っている。300人のスタッフで、60週間、制作費1800万ドル掛けてオリジナルのネガを綺麗にし、エッジを明確にして3Dを作った。この結果オリジナルよりも美しい映像で立体感のある作品になったと言われている。

ストーリーは
1997年。タイタニックとともに沈んだ青いダイヤモンド「紺碧のハート」を掘り出すべくトレジャーハンターのブロック ロベットとその仲間は 小型潜水艇を使って 沈んだタイタニックを探索する。探し当てた金庫を引き上げて開けてみると あるはずの宝石ではなくて その宝石を身に着けた裸体の女性の絵があるだけだった。調べてみるとその女性はタイタニックから救助され生還したローズと言う名前の100歳を超える元女優だった。ローズはブロックたちに絵の説明を求められて、語り始める。

没落貴族ローズ ブケイターは17歳、アメリカ億万長者のキャルドン ボックリーと婚約させられて母親とともにアメリカに渡る所だった。気乗りしない結婚に気が滅入り 貴族同士の船内での社交にも益々身の置き所の無い思いでいた。一方、貧しい画家の卵、ジャック ドーソンはヨーロッパ各地を転々と画の勉強をして、ポ-カーで勝ってタイタニックの3等乗客チケットを手に入れ、自分が生まれたアメリカに帰るところだった。ローズとジャックは出会い、互いに惹かれあう。

ローズは、まわりの貴族たちから身分の違いや婚約者の立場を指摘され ジャックと二度と会わないことを約束させられるが、自分の意志でジャックのもとに走り、類まれな画の才能を認めたジャックに ダイヤモンド「紺碧のハート」を身に着けた画を描いてもらう。二人は結ばれるが しかしそれはタイタニックが氷山に衝突して沈みはじめる数時間前だった。二人は甲板にいて、船が氷山と接触したことを知り、船員達の様子から異常を察知して、母親のところに知らせに行くが、待っていたかのように、人々はジャックを罠にはめ、二人の間を引き裂こうとする。そして宝石泥棒の濡れ衣を着せられたジャックは、船底に連行され手錠で拘束される。
不沈の豪華客船タイタニックは沈み始める。救命ボートは乗客の半分しか乗せられる数がない。一等船客の婦女子を優先させる内、3等乗客たちは浸水に追われてパニックを起こしている。そんな中、ローズは船底からジャックを助け出し、共に逃げ回るが、、。
というお話。

ストーリが実に良く出来ている。
たった4日間のタイタニックの航行で、男女が出会い、氷の海に引き裂かれるように死別していく様子がスピーデイーに展開される。3時間余りの映画でダレたり退屈なシーンなど全くない。また、二人の動き以外に背景としてイギリスの貴族階級制度のなかに、成金階層が加わり初めて それを厭う没落貴族階級の様子や、当時、喰いはぐれて人生の活路を求めて渡米しようとした貧しいアイルランド人やイタリア人の姿が生き生きと描き出されている。

そういった古い階級社会から新時代に移る「過渡期」に、ローズのような新「時代の反抗者」が出てきて 新しい女の生き方をみせる手腕が鮮やかだ。ローズは没落貴族の 名誉と財産を守る為だけに 富豪に嫁ぐことを拒否して自分が愛した男の名前を名乗る。アメリカに到着して、入局管理管に問われて 彼女は「わたしはローザ ドーソンです。」としっかり答える。ここが感動的だ。その後の彼女の教養と積極性が女優として成功する活力になっただろう。タイタニックが沈んで救助され生き延びた人々は 財産も家族も思い出も、何もかも失ったが ローズは自分が滅び行く貴族ではなく ジャック ドーソンを選んだことによって、ひとりの自立した女性として生きる力を掴み取った。

映画のなかで たった17歳のローズが、ジャックとの会話で「暗示にかけるなんて フロイトみたい。」と言って見たり、当時 30歳でまだ無名だったピカソの絵を評価していて、「なんとかピカソとかいう変な名前の人の作品だけど。」と言いながら壁に画をかけるシーンがある。印象画の画家の絵を沢山所蔵していて、モネの絵を愛する教養のある女性だということがわかる。それをみてローズに、モネ独特の光と影、色の美しさを解説するジャックも、貧乏旅行しながらヨーロッパの各地を見てきた画家の教養をうかがわせる。そういったローズとジャックの時代のワクを超えようとする若者達の才覚と鋭利な感覚が よく表現されている。このようなヨーロッパで育った若い人々が、アメリカという国を作ってきたのだ。

この映画で、食事が終わると男達はタバコ室に移り、政治や「女にはわからない」文化の話しをする。そんな貴族たちのバカバカしい姿と、対比されたローザとジャックの生き生きとした会話とは、格段の違いだ。また、ローズがタイタニックの設計士トーマス アンドリューに船内の案内をされた時「救命ボートが乗客の半数分しかないのね。」と指摘するなど ローザの目は鋭い。1997年にこの映画を見たときは、若々しく麗々しいレオナルド デカプリオに目を奪われていて、ケイト ウィンスレットのぽっちゃり顔に余り惹かれなかったが 今回会話をよく聞きながら見てみるとローズという17歳の女性がいかに魅力的に描かれているかということがよくわかる。

沈みゆく船で自分達が取り残されて死ぬとわかっていて、最後まで楽器を離さず演奏し続けたカルテット楽士たちが出て来る。コンサートマスターが演奏を終え「グッドラック」といって、解散するが、独りきりになってから、アイルランド民謡を演奏し始めると 第2ヴァイオリンもヴィオラもチェロ奏者も戻ってきて一緒に演奏を弾き始める。熱いものが胸に迫るシーンだ。
1997年のタイタニックではなく、昔、子供のときに観た白黒映画のタイタニックでも、同様のシーンがあった。カルテットでなく、オーケストラだったと思うが、最後まで燕尾服を着て姿勢を正してモーツアルトを演奏しながら楽士たちが、流れ込んできた激流に押し流されていく姿が、強く印象に残っている。
氷の海で凍死していった1500人の人々にとっても、生き残った700人の人々にとっても過酷な海の航海だった。
何度みても、良い映画だ。3Dのテクニックが、だんだん良くなってきていることがよくわかる。

2012年4月23日月曜日

オット シドニーにもどる


オットと一緒に「初めて日本を訪れる外国人のためのツアー」で、日本を訪れ、11日目に無事シドニーに戻ってきた。 良い旅行だった。日本で会えた人たち、みんなみんな、オットに優しくしてくれて、嬉しかった。本当に感謝している。 オットは、念願のニッポンに行くことが出来て良かった、日本のどこもかしこも素晴らしかった、人はみなエクストリーム親切だった、こんな楽しい旅は今まで無かった、本当にニッポンに行くことが出来て嬉しい、と、繰り返し、繰り返し言う。で、、知ったかぶりをして、職場の人たちに、日本旅行のアドバイスなどしている。
たくさんの病気を抱え、旅行にあたって医師から簡単に、オーケーが出なかった。が、行ってみると予想通り、ツアーのほとんどを、若い人たちと一緒に着いて行けたし、団体旅行が終わっても、東京に4泊して滞在を楽しんだ。楽しければできるのだ ということがわかって、オットもとても嬉しかった。

シドニーに帰ってきて、オットの宝、ニコンD5000でオットが写した写真を現像してみたら、ほとんど全部、ぼやけていて何が写っているのかわからなかった。オットの目はこれほど悪くなっていたのか。私の姿も何もかも オットの目では、もうこんなふうにしか見えていなかったのか、と思うとちょっと悲しい。
写真をみて、「このカメラ壊れてる。」と、かんしゃく起こして、オットがカメラを投げつけようとする。まったく、単純なんだから、、ブツブツ。単純な男は扱いやすい。「ニコンはプロの使うカメラだから、ちゃんと先生について使い方を勉強しないと写せないんだよ。今度、ふたりで市民講座を申し込んで、写し方を勉強しようね。」と言って、なだめる。今度ね。また今度、、、これがキーワード。オットにも私にも まだ時間があるはず。きっと、あるはず。

シドニーにもどって、かかりつけの眼科の専門医に行くと、オットはそのまま眼底血管造影検査をされて,眼底出血が確認された。片方の目は、黄班部変性でほとんど視力が無いが、良いほうの目の黄班部のふちで、出血しているという。出血が広がって黄班部を塞いでしまうと、完全に失明することになる。眼底の膜が他の人よりも薄くなっているから、出血が始まると注射をしても、レーザーを使ってもうまく止血できない。旅行をしても、しなかったとしても、出血は起きた。限られた時間で、できるだけのことをしても、それでも悪くなっていくのは 避けようが無い。いずれオットの両目は見えなくなる。それが早いか遅いかだけの違いだ。しかし、今は治療が効を奏することを願うばかりだ。
年をとれば、いろんなことがある。ひとつひとつ、辛抱強く乗り越えることだと思う。

関係ないけど、思い出したことを、ひとつ。
父は、リベラリストだったから一般家庭でやっているような、家庭教育や躾に関心がなかったが、食事の時は、みんな食卓にそろってから、父が「いただきます」を言うまでは、誰も食事に手をつけなかった。ごく自然についた習慣だった。だから、オットを一緒になったとき、食卓で待っていたオットが、私が自分の分を食卓に運んで座る前に、待たずに食べ始めたとき、思わず言ってしまった。「あなたが猿以下にしか見えないわ。」と。そういうとき、オットは悲しい顔をして、下を向くだけだ。言いたいことを その場で全部口に出さないと気がすまない私と、いつも静かで穏やかなオット。
これからは、物静かで穏やかな妻になりたい。
できるかどうか、わからないけど。

2012年4月22日日曜日

オット 春嵐にあう




ツアー10日目。
明日は 飛行機に乗ってシドニーに帰らなければならない。今日は忙しいぞ。朝はお花見。昼から墓参り、夜は送別会をする。

まず、お花見。新宿御苑までタクシーで行く。曇り空で、寒い日だが、桜がたくさん咲きそろってきた。新宿御苑に入ると入り口のところに素晴らしく大きな木蓮(マグノリア)が、いっぱいに白い花をつけている。オットが一番好きな花。これほど大きなマグノリアの木を見たことが無い、と嬉しくて嬉しくて叫んでいる。ニコンD5000を首から下げてきたから、バチバチ写真を撮っている。でもシャッターを押すのに モタモタしていて時間がかかる。入り口のマグノリアのために、30分くらいかけて、撮影していて動かない。あのー、その調子で一本一本の木に時間をかけていると、御苑を全部周るのに2-3週間かかるのではないかな? 

やっとマグノリアからオットを引き剥がして、歩き始める。お花見のグループが 早くも敷物を敷いてお弁当を食べている。桜と花見と弁当が密接に関連しているところが、実に日本的だ。のどかで、平和なニッポンの風景。ゆっくりゆっくり うすい桜色の花の下を歩く。日本庭園までは行けないだろうと思っていたが、喘息の胸をヒューヒューいわせながら、歩いた。オットが見たいと言っていた桜を見せてやることができた。嬉しそうに、桜をじっくり接写で写そうと ねばっているオットの姿を 後ろから写す。

膝が悪く、100メートル歩くのが限度、膀胱に原巣の病気を持ち、重度の喘息を持ち、黄班部変性で片目はほとんど見えない。医師には、8日間のツアーに参加しても良いが、ツアーで皆と一緒に動き回るのは無理でしょう、と始めから言われていたし、旅行そのものが「冒険」で、「ま、ホテルで半分は寝ていることになるでしょう。」と。しかし、人は楽しくて、それを支える人が居れば、いろんなことが可能になる。ハナから、医師の言葉は信用していなかった。オットは、楽しければ自分でも いろんなことができることがわかって、医師に言われて失いかけていた自信を取り戻したと、思う。
新宿御苑から 重くなってきたオットを、励まし励まし歩かせて、東口のコーヒーショップで、サンドイッチとコーヒーの昼食を取る。
意図して、オットを疲れさせるのは、午後は昼寝してもらわなければならないから。

お昼に爆音を立てて、友達がバイクで、ホテルにやってきてくれた。ちゃんと私の分のヘルメットをもって来てくれている。またバイク、買い換えたんだ。赤いヘルメット二人で被ったよねー。むかしむかしの話さ。颯爽と、と言うわけには行かず、ホテルのベルボーイの腕を借りて、やっとのことで、高い後座席に ずり登る。幸せなことにヘルメットが大きいから顔も年齢層も外から見るとわからない。おじさん、おばさん暴走族だ。で、どこに行くかというと、ロックな店やヒップな店にダチとつるみに行くわけでなく、線香くさい墓参りに行くのだ。はじめから時間がないから、バイクで飛ばして多磨墓地で墓参りして、送り届けてもらう約束。そんな無理な約束を、電話ひとつでやってくれる古い友達の友情が嬉しい。250CCのバイクの激しい揺れが怖くて、しがみついている。友達の汗のにおいが、なつかしい。こいつといつも隊列組んでデモに行ってた。おまえら双子みたいだなあ、と言われたこともある。

それにしても、何故か、風がいやに強い。、、そして、お墓に着いたころには ゲッ 最低。雨が降ってきた。友達に急かされながら、父の新しい墓にシーバスリーガルの小瓶を供える。それにしても、風に吹き飛ばされそう。台風みたい。バイクで帰ろうとすると、友達が雨の中をタクシーを、とっ捕まえてきてくれた。後ろから押されるようにしてタクシーに乗り込んで、ホテルに帰る。友達に、2年ぶりで会ったのに、あっけない別れで、話しもできなかった。ま、彼の広い背中にしがみつけただけでも良いとしよう。父も母も墓のなかで、暴風雨の中を会いに来て、5分で立ち去った娘をみて「あいつらしい。」と顔を見合わせて笑っていただろう。

夜は2日前に会ったスーマーさんと、大学レクチャラーと、屋久島出身の美形青年とその新妻と、スーマーさんの友達と、みんなで会って 送別会というか、西新宿のホテルのバイキングで大いに食べる約束をしていた。オットもとても楽しみにしていた。
午後5時に、屋久島の美形青年から、春嵐の強風と豪雨のために会社から強制帰宅させられて、電車が止まりそうなので夕食には来られない、という電話が入った。あわてて、テレビのニュースを見る。え、、そんなにひどい嵐だったのか。ニュースは非情にも、電車が止まり、タクシーは1時間待ちの状態で、交通は非情に混乱している、と伝えている。
ゆっくり日本最後の夜を 素敵な仲間達と過ごしたかったのに。スーマーさんからも 来られない旨の電話が入る。遠くに住んでいるので、やっぱり無理か。予約を8人分入れていたレストランのキャンセルの電話を入れる。
大学レクチャラーだけが、嵐のなかを、ホテルまでお別れを言いに来てくれた。律儀な人。来てくれたけど、無事に帰れるだろうか。ホテルで3人でビールを飲んで、彼も、風とともに去っていった。
愉快なはずの夕食会をぶっ壊してくれた、「春嵐」。そごく 悲しいぞ。 


2012年4月21日土曜日

オット 再びイーセ トゥアンに行く

ツアー9日目。 今日はショッピング デイ。京都での自由時間に、伊勢丹でオットのシャツとタイを買ったが、つま先から頭まで身に着ける素敵なものを全部、新宿伊勢丹でそろえてあげるからね、などと約束してしまったものだから、まず伊勢丹、オットの発音では イーセ トゥアンに向かう。ちなみにユニクロは ウニキューエロー、無印はミュジュルシュだ。

 ホテル近くのしゃれたコーヒースタンドで、200円のサンドイッチと260円のカフェオーレで朝食を済ませて、いざ、伊勢丹メンズ館へ。地下から7階までメンズばかりをそろえているということだが、行ってみると京都伊勢丹を大きくしただけで、やっぱりブランド品を並べているだけ。だいたいウェスト78センチまでしか置いていないカンスケ ヤマモトとかヨースケなんとかって、何なの。虚弱児専用か。
だいたいオットのサイズが全然ない。キングサイズのコーナーでウェスト90センチまでしかないって、どうよ。LLサイズのシャツも、着られるが、ハラのボタンが閉まらない。
オットは自分サイズが見つからないので、腹立ち紛れに、イーセ トアンには休むソファもないの、と聞く。 そういえば、新宿に来た日、ビッグカメラに行く途中、小田急デパートの婦人服売り場を通り過ぎた時、フロアのコーナーに立派なソファがあって、二人の男が あっちとこっちで口を開けて眠っていたのだ。奥方が服を選んでいる間 待ちくたびれて眠ってしまったのか、何かわからないが、オットはすごく感動していた。競争社会のなかで、特に男社会は厳しいから公共の場で口を開けて眠るなどと言うことは ちょっとシドニーではあり得ないからだ。

何も買わず、前にビデオカメラを買ったビッグカメラまでタクシーで戻って、時計売り場で オットの腕時計を見る。ジャケットが買えなかったので、その程度の値段のスポーツウォッチを買った。係りの人が頼みもしないのに、手際よくきっちり時間を合わせて、時計のベルトも腕に調節してくれて、オットの腕につけてくれる。感動。やっぱり、日本の売り子のサービスの良さは世界一だ。すごいなー。何も言わないのにやってくれるなんて、日本だけだ。
嘘だと思うなら、シドニーのマクドナルドで品物を4つ、注文してみると良い。4つ違うものを頼んで、ちゃんと受け取れたことが無い。チーズバーガーとオレンジジュースMサイズとチョコレートサンデーLサイズとアップルパイを頼んだら、必ずひとつは抜けている。保障しても良い。注文を受けた人が頭が悪い訳ではない。注意力が足りない。客のためにきちんとしたサービスをして、客に喜んでもらおうなどと、ハナから思っていないのだ。注文してもやってくれない国と、何も言わないのにやってくれる国とでは、買い物の満足度が全然ちがう。

 ビッグカメラから小田急デパートに下りてきて、背広の下に着られるニットのベストを買う。早稲田色、というか海老茶色。父がいたら、「おう、いい色だなあ。」と言ったはず。
小田急のとなりに大きなユニクロがあったので、オットを店内の椅子に座らせて、自分に合うものを見ようか、と思って探し始めたが、振り返ると、小さな椅子で悄然とひとり待つオットの姿が、哀愁漂わせ、ヒトリキリ、ヒトリキリ、といっているので放って置けず、仕方が無いので昼食に連れ出す。 オットはたった一人、自分をわかってくれる人が居たら サッサと他の友達や人との関係を切ってしまう人だった。それに気がついたときは もう遅かった。結婚してオットに友達と言えるような人がほとんどなく 徹底して非社交的であるのにびっくりした。
西オーストラリアを二人でツアーに加わって旅行したとき、他のカップルはそれぞれが、自然と別のカップルと友達になって食事のときなど勝手にいろんな人と食べていたので、私も一つだけ空いていた席で若いカップルと食べようとしたら、オットは後ろでずっと立っている。ああ そういう人だった、と思い出してあわててオットと二人の席を探した。自分を理解してくれる人以外と関係を持とうとしない。物静かで偏屈。
食べるものも、偏屈で、日本料理は何でも好きです と社交辞令で言うが好きではない。スープもソースのかかったものも、パスタも大嫌い。肉と野菜はコショウで食べ、魚と野菜はレモンで食べる。シチューなど決して食べないし、ソースのかかった肉もダメ、パスタは勿論マカロニが入ったサラダも食べられない。
だから、よしながふみの漫画「きのう何食べた?」に出てくる弁護士、シロさんに招待されても「きのことツナとかぶの葉のパスタ」、「ミネストローネ」「かぶのサラダわさび味」を出されたら、何も食べられないし、「トン汁」、「あじの干物」、「コーンのバターしょうゆ炒め」、「オクラのせピリ辛やっこ」を出されたら食べられるのはアジの干物だけだ。

ルミネの食堂街でオットに食べたいものを選ばせたら、またビールとバーガーだ。ハワイアン何だかの店で、またバーガーを食べる。すっかり重くなったオットを支えて よろよろ歩かせてホテルに帰り、寝かせる。朝から買い物でよく歩いたので、午後はしっかり寝てくれるはず。日本に来て、9日間たっているのに 買い物できたのはオットのものだけ。あと一日しか残っていないのであせる。

一人になると、ほとんど走るような早足で ホテルから東口へ。GAPで自分の服とマゴの子供服、ユニクロで自分と娘達のシャツ、無印でマゴの子供服、大型薬屋で湿布薬や化粧品など、デパ地下で日持ちするお菓子など、デパートで化粧品とマゴの本と玩具、ミニチュアのこいのぼりなど、などを買う。限られた時間しかないのでビュンビュン飛びまわって、良いと思ったら迷わずに買う。買い物袋を持ちきれず、ゼイゼイ息を切らせて、サンタクロースのように大袋をもらって背負い、郵便局に駆け込む。箱を貰って、買ったものをドカドカ入れて、二人の娘あてに送る。一箱に一万円ずつ郵送料がかかるが、仕方が無い。オットを連れて 重いスーツケースを運ぶことが出来ない。とにかく、買いたいと思っていたものを買って、郵送できたので、ほっと安心して、ホテルに戻る。

 トドのように、ハラを出して眠っていたオットがちょうど起きてくれた。
夕食は私が食べたいウナギでも、長崎ちゃんぽんでも、皿うどんでも、寿司でも、天丼でも、あんかけうどんでも、天そばでも、ラーメンでもタンメンでもなくて、オットが食べたいというドイツ料理屋に入って、オットはソーセージの盛り合わせ、私はコロッケで乾杯をする。
今日もビールがことさら美味しい。

2012年4月19日木曜日

オット スーマーさんと会う


ツアー8日目。
今日は、友達に会う日。
お昼には、中学校時代から ずっと仲の良かった女友達と、その旦那様にお会いしてヒルトンホテルで昼食を取る約束をしていた。彼女は去年8月に父が亡くなったとき、通夜にも葬式にも来てくれて、父が元気な頃は、外国暮らしの私に代わって老人ホームに住む父に、何度も会いに行ってくれた。父は、彼女が大好きだった。中学校から、権威というものに反抗することでしか自分を表現できず、真正面からぶつかっていって、派手に傷を作ってばかりいた自分と正反対で、彼女はいつも穏やかで静かな自然体で黙って見ていてくれた。批判も同意もせず、ただ見ていてくれた優しい人の存在がどれほど心の慰めになったか知らない。50年、半生記ちかくの時間をかけて 変わらない友情を持ち続けてきた。いつも、人に喜んでもらえることを、大切にしていて、それが自分の楽しみになってしまったような、謙虚なひと。ご主人も、素晴らしく優しい人。オットも初めて会って、彼らが大好きになった。

夜は、吟遊詩人、スーマーさんのライブを聴きに、東中野の店に行った。
カントリーミュージックとロックがベースになっているが、彼の語り弾きは いつも彼の真心だ。ギターも上手だが、4弦バンジョーの指さばきが、素晴らしい。昔はドラマーだったそうだ。自分は彼のミュージックが、すべて好き。
3.11の地震が起こったとき、スーマーさんは 阪神大震災の経験から、いち早くツィッターで、今注意すべきことは何か、すぐできることは、そして準備するべきは何か、というきわめて現実に即した情報を流し始めた。シドニーでニュースを聞いて 何かとんでもないことが起っていることに、漠然とした不安で潰れそうになっているとき スーマーさんのツイッターを見ていると 東京の人たちが、どんな様子なのか、想像することが出来た。それで安心することはなかったが、貴重な情報だった。
やがて、スーマーさんのツイッターが 「こんなときに ひとつになれないなんて、、。」という嘆きとともに止まる。このときほど、その時期の自分の気持ちに通じる言葉は他に無かった。心から共感し共鳴した。この言葉ほど、犠牲者たち、被害者達の孤立を言い表す言葉は他に無い。加害者が罰せられず、責任を追及されず、失ったものを保障する必要もなくなったら、被害者は孤立する。それが当たり前になってしまって「がんばれ日本」などという言葉が街中に張り付けてある。なんと言うことだろう。 

http://note.suemarr.com/
スーマーさんとウィスキーを飲みながら、お話する。会ったのは初めてだが、彼の歌を以前から、ユーチューブで聴いていたので、初めて会った気がしない。彼は日本語で歌うから、「どう?」とオットに聞くと、日本語がわからなくても、歌はよくわかるよ、と言う。よしよし。
夜はライブハウスに居るよーと言ったら、会いたいと思っていた友達が駆けつけて来てくれた。一人は大学のレクチャラー、活動家で皮肉屋で本の虫。
もう一人はグラフィックデザイナーで2日前に、屋久島で結婚式をあげたばかりの青年だ。奥さんを連れてきてくれた。彼は、昔シドニーで大怪我をして死にかかった。32人分のオージーの血液をもらって、何本ものピンで骨盤を留めて、元気になった。日本に帰るごとに会っているから、すっかり息子のような気がしているから、奥さんも他人とは思えない。スーマーさんは、新婚夫婦のために、祝福の歌を歌ってくれた。彼のうたの一つにこんな歌がある。
平和な国よ
問われているものは オレたちの国
問われているものは オレたちの心

思っているのは オレたちの故郷
思っているものは本当の故郷

知りたいことが たくさんある
知るべきことが 誰にでもある

こんな時に 見えてくるのは
キラキラした町の 生活の柄、、

戦争をしない 平和な国なら
ここが見せどころさ  平和の国よ

小さなライブハウスで 会いたかった人ばかりに囲まれて楽しい夜を過ごす。そして、そこに居る人たちが みなオットを大切にしてくれた。
そのことが、何より嬉しい。
http://www.facebook.com/profile.php?id=100000517205319&ref=name#!/GREEN.DESIGN.WORKS
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2012年4月18日水曜日

ツアーを続ける


ツアー7日目。
これでJTBの「初めて日本を訪れる外国人の為のツアー」は終了した。九段のホテルに滞在するのも、今朝が最後で、一緒に旅行してきた外国人の旅行者達は、お昼にはホテルからシャトルバスに乗って、成田空港に向かい、それぞれの国に帰っていく。みんなとお別れだ。
私とオットは、このあと新宿のホテルに移って4泊してから、シドニーに帰る。
このツアーのチケットを買ったのは、一月以上前のこと。そのときは 日本の気象庁による桜の開花予報は、一週間前だった。予報に合わせて、桜が満開の時期をねらって旅行を予約したのだが、予想は予想。例年にない寒さのために、桜の開花が遅れた。そうとわかったときには、チケットの変更はできなかった。せめて、満開まではいかずとも、もう少し桜を見たい。

新宿に向かうタクシーの運転手が、とても親切な人で、私達に少しでも桜を見せようと、九段からお堀端を周ってくれた。満開の木もあれば、蕾がまだ固い木もある。飯田橋から千駄ヶ谷と、JRぞいの桜並木は、桜のつぼみが開きかけたところ。満開になったら、さぞ見事だろう。
お昼に新宿のホテルに着いてみると、真正面に新宿駅の南口、右に高島屋とクロックタワー、左にルミネのビルが見える。タクシーの運転手が、荷物を運んでくれたから、大きなスーツケースを押したり引いたりしたわけでもなく、ホテルからホテルを車で移動しただけなのに、オットはもう疲れている。それならば、ホテルで休んでいて、私一人で買い物に行けるだろうかと言うと、それができない。一人で置いていかないで、、と必死の目が語りかけてきて、うるさい。連れて行くしかないので、沢山の人が出ている西口へ、オットを抱えて、勇んで出かける。

小田急デパートを通過してビッグカメラへ。愛くるしいマゴが二人もできたのに、ビデオカメラを持っていない。日本に来たら何が何でも、これを買いたいと思っていた。いくつものメーカーのものを見せてもらって、説明を聞いて、WIFIに対応するビデオキャノンに決めた。赤い、可愛いビデオカメラがやっと手に入って嬉しい。オットはビッグカメラのあふれる人の多さに圧倒されている。だ、か、ら、、、ホテルでおとなしく待っていたら良かったでしょ。目と鼻の先にあるホテルに、運転手にあきれられながらタクシーで帰る。
オットを寝かしつけて、地下のコインランドリーで一週間分の洗濯物を洗って乾かす。寝呆けているオットを、夜の8時になったので、起こして、ホテルの前にあるとんかつ屋に入る。古い店らしく、注文を聞いてから、ちゃんとした板前が料理している。一口大に切ってくれた揚げ物が 一口が大きすぎてオットが噛み切れない。ナイフとフォークを所望すると、親爺がどこからかフォークを見つけてきてくれて、「フォークはあったが、ナイフはみっかんねーよ。」と勢いの良い江戸弁で、言ってくれろ。その潔い江戸っ子気質が気持ち良い。そうだよ。あったりめーよ。オットよ、ここは日本だぜい。千切りキャベツにダボダボソースをかけて、とても美味しい夕食で、満足した。今夜も冷えたビールが美味しい。

2012年4月17日火曜日

京都最後の自由時間



ツアー6日目。
今日は夕方まで京都で自由時間の日だ。夜6時に ガイドがホテルに来て 京都駅の新幹線プラットフォ-ムまで見送ってくれる。その後、東京駅では別のガイドが待っていて、前に2泊した九段のホテルに送ってくれるはずだ。

ホテルで朝食を済ませて、タクシーで駅ビルの中の伊勢丹へ。
今はどうか知らないが、その昔、男物といえば伊勢丹だった。靴からパンツ、シャツ、ジャケットから帽子まで、そこで買い揃えれば間違いは無い、ロンドンで言うと、バーバリのような店だった。日本に来る前から日本に着いたら 新宿の伊勢丹というところで、シャツもジャケットも オーストラリアやヨーロッパで手に入らないような素敵なのを買ってあげるからね、と約束していた。伊勢丹はオットが発音すると「イーセ トアン」になる。そのイーセ トアンが京都にも出来たと、タクシーの運転手から聞いて、歓び勇んで出かけたわけだ。ところが21世紀のイーセ トアンは、随分様変わりしていて、アルマニやジバンシーやヨースケヤマモトやジュンアシダやカルダンなどのブランド品を、並べてあるだけで、オリジナルはない。意表をつくような つぎはぎジャケットや、襟が左右相称でない遊びの入った背広や、ピンクや花柄のシャツなど、若者に媚を売るようなデザインばかり。生まれて初めてデパートに連れて来られた子供のように期待してやってきたオットの期待が音を立ててしぼんでいくようで、あわててバーバリ店に入る。

バーバリならシドニーにも独立した店を持っていて流行っているが、よくよく見ると伊勢丹のバーバリは 見たことが無いような洒落たものがある。やっぱり、イーセ トアンですよ。ネクタイ2本と、白い襟とカフスがついたストライプのシャツと、白い襟、カフスに、変わり織り模様のついた美しいシャツを買う。オットは首と腹が太いが、腕は短い。袖を短く直さないと買ったシャツは着られないので、いつも25ドル出して 専門店で直してもらっていた。ところが伊勢丹では「無料でお直しいたします」と言われて、信じられない思い。さすが日本のデパート。サービス満点、しかし哀しいかな、お直しが終わる2日後には京都に居ない。泣く泣く袖の長いままのシャツを受け取る。

買い物が済むと、コーヒーショップで一休み。おやおやコーヒーが680円で、サンドイッチつきのコーヒーが880円。勿論サンドイッチつきのを注文。野菜とハムの入ったサンドイッチに オットは感激、パンがフレッシュ、野菜がフレッシュ、ハムがフレッシュ、ウェイトレスが優しいと、繰り返し言う。そんなのわかってる。オーストラリアのパンは、買った翌日にはボソボソで、来たばかりのころは その不味さに閉口して飲み込めなかった。ヨ-ロッパでも美味しいパンにめぐり合わなかった。やっぱり日本のパンは最高、全然よそと違う。

デパートを出ると、自動的に駅ビルに入った。あらあら、右も左も可愛い女の子の洋服や靴や小物ばかり。何もかもがキラキラ光ってまぶしい。最初に目に入った 胸に白い繊細なレースのついたブラウスを着たマネキンを見て、その場で同じものを試着せずに買う。オットのようにいびつな体形をしていないから、試着する必要が無い。オットのシャツ2枚買う為に費やした時間、3時間半。私のブラウスに費やした時間3分。値段も一桁以上違う。この違いは何なのさ。
もっと見たいのに、オットは何と 食べ物の見本が沢山並んでいるバーガー専門店の前に居て、「こっち、こっち」と呼んでも動かない。エネルギー切れだと。ゲッ またパンかよ。コーヒーと食べたサンドイッチは、モーニングテイーで、今度のビールと食べるステーキの入ったバーガーは昼食なんだそうだ。日本に来て、蕎麦屋も鰻屋も鮨屋も並んでいるのに、オットにあわせて、オージービーフを食べる哀しさ、、。

パンで異様に膨れた腹のオットを 東本願寺まで歩かせる。目の前だが、オットと歩くと30分かかる。
仏教の知識は 中村光の「聖おにいさん」(講談社コミック)で勉強済みだが、日本の仏教者に中では、親鸞に、一番親しみを感じる。東本願寺は 駅に近く、西本願寺ほど大きくなく手ごろだ。親鸞には、大乗仏教のような奢りも偉さもなく、小乗仏教の中でも最も民衆に近いところに居た。彼の、「親鸞は弟子一人ももたず候」という言葉や、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、言葉として力をもつ。ただ真剣に自らの愚かさを知り、祈れば必ず浄土に往生できる、という他力本願は、選ばれた者や、厳しい修行した者ばかりでなく 人は誰でも等しく救われると理解され、人々の生きる道徳の規範のにもなったことだろう。

オットは一通り寺を見ると、もうアゴを出している。タクシーでホテルに戻り、JTBのガイドさんに拾ってもらって、新幹線乗り場に向かう。男と言うものは、どうして乗り物に乗るとただそれだけで、嬉しがる生き物なのだろう。生後10ヶ月のマゴが 車に乗る込むだけで目をキラキラさせて歓ぶ姿と、オットが新幹線や飛行機に乗るときの目は、全く同じだ。
東京のホテルに10時過ぎに着いて、オットはイーセ トアンで買ったシャツとタイを丁寧に、丁寧に大きなスーツケースに移して、安置して、やっとビールに手を伸ばす。今夜もビールが美味しい。

2012年4月15日日曜日

初めてオットが訪れる奈良



ツアー5日目。
奈良を訪れるなら、空から観たかった。奈良には現在、登録されているだけでも138の古墳がある。大きなものは、全長400メートルを越える。不思議な前方後円墳や円形や長方形の古墳を空から眺めて 古の奈良を満喫したかった。日本旅行を計画したとき、オットも西オーストラリアで、バングルバングルという山々の奇岩を小型飛行機で観て夢中になったから、今回も大賛成で、京都に着いたら、ガイドに聞いて上空から古墳をみせてくれるツアーを探そうと、話し合っていた。しかし、それが見つからない。京都のガイドは首を振るだけ、、。残念だが、次回の楽しみにとっておく。

それでスケジュール通り、奈良見物の東大寺と春日大社に出かける。
ホテルに迎えに来てくれたガイドの顔を見て、がっかり。昨日の京都ツアーのガイドだ。同じアメリカ人の旅行者も彼女を見るなり、「オーマイゴッド!」と言って肩をすくめる。このガイドの悪いところは 英語の発音が イントネーションなしなので聞きとれないだけでなく、グループを率いて 彼女の歩調についていける人だけに立ち止まって説明して、後からゼイゼイ言いながら来た人には、何の説明もしないで平気でいることだ。典型的な中学校教師、、。自分も根底のところで 本当は判っていない内容を、サッサと教えて、ついて行ける子だけを見て、先を進める先生だ。おかげで取り残された子は、自分が頭が悪い、出来ない子だと思い込んでしまう。こんな風に子供を教える教師がこの世に居てはならないが、このガイドも同じでプロとして失格だ。

東大寺は境内だけで12万坪という。古代都市、奈良はさすがに何でも規模が大きい。奈良時代、8世紀に聖武天皇が建立。第45代聖武天皇と光明皇后が、幼くして亡くなった息子の菩提のために、733年に建立された金鐘寺が。その前進という。光明皇后が悲殿院や施薬院を設け、それが社会事業の先駆けにもなった。巨大で美しい南大門の両側に 巨大な木像が立っている。高さ8メートル余り。ひとつは口を閉じ、左の像は口を開けている。二つの仁王像に睨まれて、首をすくめて通り過ぎる外国人たちの姿がおかしい。横に張られた太い大きな敷居を乗り越えるのにオットを励まして何とかステップを乗り越える。誰かが、簡単に、またいで越えられないような太木を渡したり、石の階段を沢山作って、病弱者や年寄りが簡単には大仏に近付けないようにしたわけではなく、太りすぎや運動不足を叱咤激励し、民衆の健康促進を願った仏の心、と理解したい。

金堂は、世界最大の木造建築だった。高さも、間口も、奥行きも50メートル前後ある。オットは、ただただその大きさに感動している。
大仏の左右には木造の脇侍が、また道内には四天王のうち二つの王像がある。四天王のあとの残りの二体は未完成で頭だけが置いてあった。
大仏は銅製で木造ではない。14,7メートル。大宇宙の存在を象徴する仏で、留舎那仏像(ビルシャナ)という。聖武天皇は「万代の福業をおさめて、動植ことごとく栄えむとす。」と言い、人も動物も植物も共に栄える世を夢見ていた。彼が心酔していた華厳経のビルシャナは、人も動物も植物も塵も等しく尊い、という徹底した平等主義の思想を持っていた。ビルシャナという言葉はサンスクリット語。ちょっと仏教をかじってみると、ラーフラとか、ナンダとかアーナンダとか、ゴーダマシッダッタとか、サンスクリットの名前がおもしろい。
しかし、東大寺建立にまつわる歴史に興味があったら、コミック「デル天」こと、山岸涼子の「日出処の天子」1巻ー7巻を読むのが、歴史の専門家の本を読むよりはるかに、よく理解できる。また ブッダについて知識を持ちたかったら やはりコミック、中村光の「聖おにいさん」(第1巻ー5巻、講談社コミック)が絶対おすすめだ。

ガイドと、ついていける人だけが どんどん先に行くのでオットと完全に落ちこぼれたが、昼食でまた遅れた。素晴らしく、しゃれた古い西洋館をレストランにバスが着くと、皆は、サッサと二階の木の階段を登って昼食にありついている。エレベーターもエスカレーターも勿論ない、古い洋館は、階段の一段一段が恐ろしく高い。オットが登りきるのは不可能だ。いったん登ったら、今日中には、降りてこれない。「階段はダメって言ってあったでしょう。」とガイドに言うと、「聞いてません」と繰り返すだけ。レストランのオーナーの好青年が、機転をきかせて、階下のお土産を売っている一角に、テーブルを出してくれて、二人だけの特別の昼会席。「紙なべ」と、「味噌かつ」が出て、素敵。大喜びで頂く。味噌とんかつを、とうとう食べた。感激。でもこれって名古屋の名物じゃないの。

午後からは、春日大社。平城京に710年、藤原不比等によって、藤原氏の氏神を祭るために建立された。30万坪に及ぶ境内、参道を全部歩くことは出来ない。たくさんの石灯篭を見ながら「二ノ鳥居」をくぐり、美しい鹿の石像が横たわっている「伏鹿手水所」で、手を洗い「、着至殿」まで登った。そこから先には、青龍の滝、南門、御本殿,酒殿、桂昌殿、祈祷所、神社などなど、見所が沢山あるらしいが全部、石段なので、とても歩けない。オットは、水のない水槽の金魚みたいにアップアップしている。朝の東大寺も午後の春日大社も、仏も神も一緒になって 石段をたくさん提供してくれた。体の強い民を訓練して、オリンピック選手を育成することを望まれていたのか。そうだったのか。

まったくオリンピックに関心のないオットには ブッダと神の違いがわかっているだろうか。ツアーの面々が登って帰ってくるまでのあいだ、茶屋で 二人、アイクリームを食べながら、神道について説明する。神道は、日本の民族的な信仰で、明確な教義や教典はない。森羅万象に神が宿ると考え、祖霊を畏敬する素朴な信仰だった。しかし明治政府は、明治天皇を現人神として神仏分離、神道を国教とした。そして、天照大神の末裔が現人神としての天皇と捉える皇国史観が、アジア侵攻、植民地拡大の軍国主義を生んでいった。資源のない小国が、生き延びで経済成長していくための必然だったのだ。古の古墳に埋まっている天皇や貴族達は、そのような神道を 決して望んでは、いなかっただろう。

奈良公園のどこにでも見られる鹿は、1500頭に登るという。親子連れで車の近くまで平気で歩いていて、人と鹿とが上手に共生している。それが嬉しい。奈良の空気に触れられて、良かった。
京都のホテルまで、帰りのバスで爆睡するオット、一日で、よく日焼けした。今日も良い一日だった。
夕食のビールは美味しいことだろう。

2012年4月14日土曜日

初めてオットが訪れる京都



「初めて外国人が訪れる日本」ツアーの4日目。
今日は、世界遺産になっている二条城と、金閣寺と、京都御所を巡る日だ。

烏丸通りに面したホテルは見た目が冴えないが、朝食が1100円と、安くで豪華なのが嬉しい。オットは、いつもの通り、シリアルとトースト2枚、果物とジュース。毎日家で食べているものを 日本のホテルで食べて どうして嬉しがっているのだろう。不思議な人だ。私は勿論 白い炊き立ての御飯と味噌汁、のり、漬物各種、玉子焼き、塩鮭の切り身、ゆばと高野豆腐と蕗のたき物、ひじきと油揚げの煮物、おからと鶏肉和え、それと、アサリの佃煮が美味しい。朝食なのにデザートは果物だけでなく、イチゴのババロア、コーヒーゼリー、桃の入ったピンク色のロールケーキまである。全部、味を試してみなければ気が済まない。素晴らしい。このままホテルの食堂で日本の新聞を読みながら ゆっくりまったりして一日過ごしたい。食堂から動きたくない。

でも今日は、快晴で暖かい。食堂の窓から すでに迎えのバスが来ていて、にこやかなガイドに、呼び入れられる。初めての女のガイドさん。ところがツアーが始まってみると、彼女の英語が何を言っているのかわからない。今までのガイドが、とても優秀な方々だったので、その落差が激しい。バスに乗って、いろいろ日本の歴史を説明してくれるのだが、完全なジャパニーズイングリッシュ。ひとつひとつの言葉に 抑揚がなくアクセントの強弱がついていないので、お経をよんでいるようなもの。日本語でもお経を読むように話し掛けられたら、何を言われたか、わからないのと同じだ。イントネーションがない。とたんに、となりのアメリカ人女性が「サッチ ア プア イングリッシュ!!!」(ひどい英語)と、大声で文句を言っていた。勉強してガイドになっただけの人なのだろう。外国人ともっと話をして、会話する楽しさを知ってガイドをやらないと仕事も楽しくないだろう。

しかし、解説なしでも二条城の庭は美しい。二条城は、徳川家康が京都に上ったときに宿所とするために築城されて、後には大政奉還が行われたお城だ。二の丸御殿障壁画を見る為に、靴を脱ぐ。金色に輝く壁に、松や鳥や花々が描かれている。オットは、しかし、愛用のRMウィリアムズ製ブーツを脱ぐのに大騒ぎをしている。小学校にあるような下駄箱に靴を脱いで入れなければならないが、手ごろな椅子がないのであせっている。座らないと脱げない大きな靴をオットの足から引き剥がす為に、二人がかりで脱がせる。私達、かなり、みっともない。
歩けばキュッキュと鳴る鴬張りの廊下の冷たいこと。サウスアフリカで建設技師だったというおじいさんが、ガイド相手に、廊下の下にもぐって、どういう構造で音が鳴るのか、手で触って確かめていた。一緒に廊下にもぐって、見てみたかったが、今度はオットがブーツを履くのを手伝ってやらなければならなくて時間切れ。情けない。

金閣寺は、いつ見ても美しい。
京都御所の桜も見ることが出来た。御所のまわりは玉砂利が敷き詰めてあって歩くのが大変だが、何とかオットは自力で歩いてツアーに付いていく事が出来た。重いカメラを私に持ってもらって、アップアップしながら だけれど。ツアーの後半は、かっこうが良いか悪いかなどに構っていられない。生き延びて ツアーに付いて行く気丈さだけでやっている。
でもこうしてみると、二条城も、金閣も規模が小さい。城の主と関係者が収容できるだけの大きさだ。当時の権力者が権力者のために作ったもの。インドから中国を経て日本に伝わってきた学問としての仏教が、選ばれた者だけのために大切にされ、数々の芸術品で飾られて、宝として伝えられてきた。たった一人の火の不始末で簡単に燃えて消失してしまうような、木造の規模の小さい日本の寺や城というものが 当時の普通の人々にとっては一体何だったのだろうか、と思う。
ヨーロッパの国々を巡ると 各地にある その教会の規模の大きさ、内部の装飾の贅沢さに驚かされる。何百人、何千人が同時にミサを受けられる大規模な教会は石作りで頑丈だ。
壊れやすく、小さくて、精巧な芸術品を守り通してきた日本の芸術性と、ローマや各地に10万人収容できるコロシアムを大理石で作ってしまうヨーロッパ人の芸術性との違いをい改めて認識する。

オットは建築物よりも、美しい庭に興味を示した。数百年も生きて、庭師によって美しい形を保ってきた松などを熱心に眺めていた。木々の成長を止めて、ミニチュアを作る盆栽の技術も、日本独特の美意識の表れだろう。五葉松、山紅葉、楓、梅などの盆栽は、専門家が毎日毎日手入れをして、それを何年も何世代も続けてきた結果だ。生きた芸術を育てることの価値は 掛買いの無いものだろう。

ツアーのバスから京都の街並みを見物するのも楽しい。まだ古い家々が沢山残っている。道を行く角ごとにファミリーマートとローソンがあるのにも驚いた。ツアーが終わって、ホテルの前でバスを降りたら、みんながホテルに入らないで、当たり前にように慣れた足でコンビニに入っていくのには驚いた。一人で旅行している退職したアメリカ人女性は、サンドイッチと安いカルフォルニアワインをつかみ、中年ドイツ人カップルは、ホカホカ肉まんと缶ジュースを抱えて、ホテルに帰っていった。知らない国の知らないレストランでメニュー見て、どんなものが出てくるかドキドキしながら待って食べて、支払いでハラハラするよりは、コンビニ弁当のほうが確かに安心だ。なるほど、、と感心していると、いつの間にか気がつくとオットがもう、サンドイッチと缶ビールを握っていて離さない。ホテルの横に見つけたトンカツ屋で、味噌カツというものを食べてみたかったのに、予定変更。
自分には、おでんも、から揚げもポテトサラダにも未練があったが、冷やしそばと焼き鳥に決断。ホテルで、テレビを見ながらささやかな夕食。チャンネルをCNNにしたのに、アメリカ人のアナウンサーが吹き替えの日本語を話しているのに仰天するオットを大いに笑う。
長い一日だった。今夜も、冷えたビールが美味しい。

2012年4月13日金曜日

初めてオットが訪れる富士




今日の、「初めて日本を訪れる外国人のためのツアー」によると、富士山、河口湖、大涌谷、箱根ロープウェイ、芦ノ湖でクルーズのあとで、小田原から京都へ移動、というスケジュール。
数年前にはドクターストップがかかり、来日できなかった。病気持ちの上、ひどい喘息もち。歩きながら足がもつれてきて、私にもたれかかり そのうちに私が両手で体を支えてやらなければならない。そんなオットに無理はできない。でも、ツアーに、最後までついて行けたら それが大きな自信になって、明日につなげられる。本人は、何よりも嬉しいだろう。二人で、ツアーについて行けるだけ やってみよう。

ホテルから 迎えのバスに乗って富士山へ。私も、勿論夫も初めての富士。ホテル最上階のバーからも、昨日行った東京タワーからも見えた真白の富士。富士と言う言葉はアイヌの言葉で、「火を吹く山」という意味だったという。富士が火を吹いていたころには、山の麓では、アイヌの人々が住んでいたということだ。そんな日本の先住民を、北海道の原野まで追い詰めたのは、私達だ。

河口湖駅から富士ビジターセンターに寄り、暖かい飲み物を飲んでから、富士の山の歌を奏でるメロデイー街道を通り、5合目までバスで登るはず。なのに、4合目の大沢駐車場で、道路が氷結しているということで、バスは止まる。標高2020メートル。ビジターセンターでは目前に大きく聳え立っていた富士は、ここでは近すぎて、雲で見えない。駐車場ではラッセルした雪が山になっている。さっそく雪遊びを始めるスペイン人家族の子供達。オットといえば 大沢駐車場の看板をカメラに収めると、サッサと バスのドアをノックして ドライバーにドアを開けてもらってバスの中で丸くなっている。その内に、空からヒラヒラと 白い花びらのようなものが 空気中に漂いはじめた。と、思ううち、白い花びらが、たくさん落ちてきて、とうとう、本格的な雪になった。ツアーの人々は喜んで飛びまわって、雪の写真を撮っている。けれど生まれて初めて降る雪を見たオットは、「ああ、これが雪ね。」と、感激も感動もなく、ただバスの中で丸まっている。ウェストサイズ105センチ、脂肪たっぷり蓄えているはずだが、それでも寒いのか。

再びバスの乗客となり、山麗のホテルで昼食。山菜のはいった手打ちうどんと天麩羅をいただく。そこから箱根ロープウェイに乗って大涌谷で。ロープウェイの駅に着いたらば、ああら、、良い匂い。これは間違いなく焼き芋。ツアーの皆は 一つ食べると7年長生きするという黒い温泉卵に飛びついている。私はオットの手を引き、焼き芋を焼いているおばあさんのところへ。一本300円。熱い石で焼いた日本の焼き芋は、何十年ぶりだろうか。焦げた皮、中身がみごとな黄金色。剥き方をオットに教授すると、それはそれは丁寧に皮を剥きながら、新聞紙に包まった焼き芋を、嬉しそうに食べていた。

再びバスに乗って、芦ノ湖で海賊船に乗る。湖のなかに箱根神社があって、赤い鳥居が美しい。船の中でコーヒーを飲みながら、湖に沈んでいく夕日を眺める。クルーズを終え、バスで小田原駅に行く途中、桜がたくさん咲いていた。温泉に近いところにある桜は 早咲きなのだろうか。夕闇の中で 満開の桜が咲き誇っている。初めて桜を見るオットが嬉しそうに 満開の桜の木の下に立つ。花を見上げて落ちてくる花びらを受け止めるように、両手をかざして、嬉しがっている。なによりも、ツアーから落伍せずに 全部皆と一緒に行けたことが、とても嬉しいのだろう。

小田原駅から名古屋で乗り換えて、京都まで新幹線に乗る。今日一日ガイドで付いてくれた青年が案内してくれる。この青年のおかげで、一日ツアーについて行けた。感謝しつつ新幹線に乗り込む。生まれて初めて乗る新幹線に、オットははしゃぎ放し。新幹線が走り去る姿をカメラに収めようとしてシャッターを押した時には もう見えなくなっている。それに驚き大笑いして喜んでいる。座席と座席の間が広いことを嬉しがっている。車内販売のおねえさんが親切なのに、嬉しがっている。買ってもらった弁当とビールに感動している。コップに注いだビールが 電車が揺れてこぼれたりしないことに感激している。

驚いたことは 小田原から来て、新幹線が名古屋で止まったとき、向かい側の別の車両に乗り換えると言われていたが、ちゃんと、名古屋で別のガイドが待っていて、次の列車に乗り換えるまでお世話してくれたことだ。日本のことは、右も左もわからない外国人にためのツアーだが、私達二人のために、乗換駅でもガイドが付くなんて、びっくり。京都駅に着くと、また別のガイドが プラットフォームで待っていて、ハイヤーまで案内してくれる。やっと無事に 京都のホテルに付いたのは11時近かった。長い一日だった。
ホテルで湯上りに飲む、サッポロビールが美味しい。

2012年4月9日月曜日

初めての外国人が参加する東京見物



朝、いつものように6時に起きて、ホテルの朝食をとるためにカフェのある階下に下りる。ブッフェ朝食一人2300円、、高い。オットはコーンフレークにトースト2枚、オレンジジュースと果物、といつも家で食べているものと同じ朝食そのまま。無いのがパパイヤ。1年365日 パパイヤを食べてきたのに それが無い。日本の気候ではパパイヤは育たないから、、、と どうして私が謝らないといけないのかわからないが、一応謝っておく。でもオットはうれしそうに缶詰のフルーツポンチを食べてご機嫌。「日本は何もかも綺麗で静かだね。」と、昨日から同じ言葉を繰り返して感激している。

私は白いニッポンの御飯と海苔と佃煮、漬物、焼いた鮭とサワラ、味噌汁に大感激。ああ、ニッポンの御飯があれば、味噌汁も漬物もおかずも無くても嬉しい。塩をかけただけでも良いぞ。同じ日本から持ってきたコシヒカリやアキタコマチの種をもとに オーストラリアで育てられたオージーコシヒカリやオージーアキタコマチが 少しでも冷めるとポロポロになって不味くなるのはどうしてだろう。ニッポンで焚いたニッポンのお米は本当に特別だ。目を丸くして眺めているオットにかまわず、御飯のまわりにいろんな佃煮、ふりかけ、鮭フレーク、昆布、沢庵、梅干を乗り切らないくらい載せて、焼き海苔でくるんで これ以上は入りません というまで食べる。君は食が細いね、、といつもオットは 言っていたが、食が細いのは大味なオージーフードだからでしょ。ちゃんとした日本食ならば相撲取りと同じくらい食べられる。ズボンのボタンを外したところで、迎えに来たバスに乗る。

東京駅の「はとバス」乗り場でバスを乗り換えて、東京タワーへ。
東京タワーの展望台からも富士山が見えた。バスの乗客は、ドイツ人夫婦、アメリカ人3人組、ニュージーランド人老夫婦、子供3人連れたオージー家族、娘連れのインド人夫婦、アイルランド人男カップル、おまけに中国人ガイドをつけた12人の中国人。なんで、英語ガイドつきの外国人ツアーに英語が全く通じない中国人団体が便乗しているのか、原因不明。
英語ガイドは中年男性で、揺れるバスの中、ホワイトボード片手に日本の文化や言葉について、とてもよく説明してくれた。

東京タワーから皇居見物に向かう途中、ガイドがこれから皇居に行きますが皆さんは天皇や皇族たちと会うことはできません。と言うと、オットが、「どして?」と、無邪気に聞いたのには笑った。ガイドは予期せぬ質問に、冷や汗をかきながら 国民でさえ一年に2回、正月となんだかの日にしか天皇には会えません、、、と答えている様子が必死で、おかしかった。オーストラリアの元首はイギリスのエリザベス女王だが、人々はことあるごとに女王をこき下ろしたり皮肉で笑ったり、日本の皇族よりは自分に身近な存在として捉えている。
皇居の何だか門で下りて、バスが駐車できないので、歩きなさいと言われ、列の最後尾で足を引きずるオットを抱え、バスに乗り遅れそうになる。バスで皇居を一周してくれるわけではないから ツアーでは皇居の大きさがわからない。お堀端の門で止まって周りを見渡しても、高いビルが聳え立つばかりだ。バッキンガムの護衛兵交代を見物する価値はあるが、皇居前広場の30分は何だったのか よくわからない。バスにもどると、12人の中国人が、アキヒト、マサコ、アイコ、、と、大きな顔写真を次々に手にとって、大声で唾飛ばして中国語でわいわいやっていた。親日本中国人の間では 日本の皇族はハリウッドの俳優なみの人気らしい。

次は浅草。オットはニコンD5000を首から下げていて、それが嬉しくて仕方がない。バスを降りたとたん入り口横のお賽銭入れの小さな建物でカメラを構えて動かない。皆はとうに本堂に向かっていて、完全にツアーからは落ちこぼれた。お寺の本堂にたどり着くまでには 小さな祠や、小ブッダや 賽銭箱などいろいろな珍しい建物があるが、まず本堂に向かわないと、、、とオットを説得して 入り口の門をくぐり、ご利益の煙をあびて、本堂に向かう。
オットのためにニコンD5000を買ったのは、2年前だが、その二年間にオットがこれを使ったのは、西オーストラリアを旅行したときだけで、今回の旅行が2度目のカメラデビューだ。目が悪いから 対象を見つけ、映すまでに、時間がかかる。動く相手ならポーズを取ったまま、待たされすぎて完全に怒っているから、笑顔で取れた写真がない。動かない対象なら はじめのうちは人々がレンズの前を空けてくれているが、余りに時間がかかるので通行人が横切り、人は動く。シャッターを押した時には レンズの前を通り過ぎた人の横顔アップだったりする。それでも、ニコンは、オットの宝だ。以前、使わないなら二人目の赤ちゃんが生まれた娘にあげなさい、、と命令したとき、「わかった。あげましょう。」と言う目に キラッと光る水滴があり、その案は取り下げた。以来、ニコンはオット以外誰も触らない。

浅草から秋葉原へ。そこで私達は はとバスとサヨナラして、タクシーで神楽坂の料亭へ。兄のはからいで、兄夫婦、姉夫婦と会食する。どこに行っても、誰に会っても、何を食べても いつもニコニコ笑っていて 気の利いたことを言うでもなく、人や出された料理を褒めるでもなく、けなすでもなく なんでも嬉しくてただ、ニコニコしている。だが、それがオット。それで良い。そのために日本に来たのだから。

2012年4月8日日曜日

オットと「初めて日本を訪れる外国人の為のツアー」に参加してみれば



「このツアーに参加された外国人には、絶対に喜んで頂けて必ず2度3度 日本にまた来られる、ツアーの中でも一番人気のあるツアーです」、、、というJTBの宣伝に釣られて オットを連れてツアーに参加した。英語に堪能なガイドつきのツアーということなので、初めて日本を訪れるオットに 自分であれこれ説明する必要がない。病気もち、肥満体で、100メートル歩けないオットの世話だけで大変なのに、ガイドまではできないので、これは丁度良い。

オットは16年前に一緒になったときから日本に行きたがっていた。仕事が終わってから ちゃんとした先生について、夜学で日本語を習っていた。日本の文化に興味をもっていて、ひらがなを書く練習をしていた。それなのに 日本行きを ずっと引き伸ばしていたのは、私だ。オットが太平洋に向かって、「ニッポン 行きたいよー」と叫んでいた間、二人の娘のシングルマザーで後家だった私は、異国での自分の職業訓練と就職、娘達の大学入学と終了、次女の結婚と育児、その後のあれやこれやで忙しかった。父が生きていたころは毎年、会いに帰国していたが、帰国のたびに滞在するのは父の住む有料老人ホーム。そこは、洋室だが、オットが滞在するための余分なベッドがない。寝具はあっても、生まれたときから床に座ったり、しゃがみこんだ姿勢から立ち上がったりする習慣のないオットに、ふとんで寝かせる訳にはいかない。いったん床に座ってしまったら、立ち上がることができないからだ。
私と二人の娘が 休暇で日本に帰国するたびに 本心は歯噛みをしてくやしがり、羨ましがっていたのだろうが、いつも笑顔で「行っておいで」と、私達を送り出し、ねこの世話をして待っていてくれた。娘達が自立して家を出て行ったあとも、母の死、父の死ごとに帰国する私をオットは見送るだけだった。日本に滞在できる場がなくなってしまった今、やっとオットを連れて日本に行くことに決めた。

いつの間にかオットも年をとり、病気も患い、足元がおぼつかなくなってきた。肥満体で、重度の喘息もち。100メートル歩くのが限度。こんなになるまで放っておいて、留守番ばかりさせて悪かった。今、連れていかないと もう二度とチャンスはないかもしれない。担当医に頼み込み、診断書や旅行中の医療保険にために書類を作ってもらう。オットのたった12日間の旅行のために支払った旅行保険が650ドル。元気な若者だったら 掛け捨ての旅行保険50ドルですむものを。「僕はベッドに仰臥する病人じゃない、普通の人と同じエコノミーで旅行できる。」と言い張るオットに内心感謝しながらエコノミーの航空券を求め、ツアー代金、二人分6300ドルを支払う。

土曜まで働いて、日曜の夜に出発。10時間のフライト。
オットは平静を装っているが、明らかにはしゃいでいる。シーバスリーガル3本を買ったのは、「僕の? ねえ日本滞在中に全部飲んじゃうの?みんな僕の?」と、何度もしつこく聞く。うんな 訳ないだろ。
驚くことに夜のカンタス便は満席で 前後両隣を女子高校生に囲まれる。ブリズベンで3週間ホームステイをしながら英語を学んできた高校生達だという。彼らの女の子独特の黄色い声を聞きながら、これでは眠れないだろうと絶望していると、彼女達、夕食が終わるか終わらないうちに、「コテン」とそろって寝息をたてて爆睡するのには仰天した。騒ぎ出すのも早いが、静まり返るのも早い。
オットはニコニコしていて、久しぶりの飛行機が嬉しくて、なかなか眠れないようだったが、たいくつで訳のわからん映画「マーサ、マーシー、メイ マリーン」を見せたら、イヤホンをつけたまま3時間くらい眠ってくれた。

成田に着くと入官で日本人は簡単に通過できるが 外国人は、指紋を取られ写真をとられて、一人一人来日目的まで聞かれている。そのために長い長い列ができている。待たされる覚悟で絶望的な暗い顔で、300人くらいの長い列の最後尾につくと、おや魔法みたい。入管局の青年が 足を引きずっているオットの手をとってパイロットやフライトアテンダンスの通る特別の窓口からオットと私を通してくれた。やったぜ。こんな手があったんだ。

外に出るとツアーのJTBの青年が、待ち構えていてくれた。待っていた黒塗りのハイヤーで九段坂のホテルへ。
26年日本を離れて外国に住んでいて、休暇で帰国したことが20回くらいあるが、成田から都心のホテルまでハイヤーをつかったことなどない。初めてのテレビつき贅沢風の車が嬉しくて、運転手とべらべらしゃべりまくる。デイズニーランドや観覧車を見て、都心に入り、スカイツリーを見る。オットは車のエンジン音が静かなことに感動している。そういえば、シドニーでは、どの車もブインーブーブーと、音がいやに煩かった。メカニカルなことは よくわからないが、日本の車は新車が多く、性能も点検もよく整備しているということだろうか。

旅行前には地図でグランドホテルの場所をみて、客室から皇居が見下ろせて、千鳥が淵に続くお堀端の桜が見えるかと思っていたが、ホテルのまわりは高いビルばかりで皇居など見渡せない。靖国神社も武道館も ちょっと見えるだけだった。
しかし、最上階のレストランから 富士が見えた。淡い水色の空と白い雲の間に白色を重ねるようにして立つ富士。こんな風にして、娘達が幼かった頃 住んでいた千駄木の家の物干し台から、晴れた日は富士が見えたものだった。「ああ、富士山がみえた」というと、オットは全然見当違いの方向を見ながら ああ見える見える、と言っている。何でもとりあえず同調してくれる心優しいオット。
富士の見えた最上階で 札幌ビールとチキンで乾杯。10時間、窮屈な飛行機で夜を明かした恨みを晴らすように 思い切って体を伸ばして眠りにつく第1日目。
明日は東京見物。