2009年8月20日木曜日

映画 「バリボ」


東チモールは1975年末 かねてからの約束どうりに ポルトガルから 平和的に独立を果たした。
しかし、ポルトガル兵が撤退すると、すぐにインドネシアからの侵略が開始される。国連からの視察を待たず、国際法違反を承知に上での スハルトを先頭とした 軍の独走によるものだった。1975年の侵略と 大虐殺によって 東チモール人の 虐殺された人の数は、183000人あまり。

このとき、オーストラリアのテレビ局 「チャンネル7」と「チャンネル9」から派遣されていた5人のジャーナリストが、インドネシア軍の侵攻と、住民の大虐殺開始の映像を捉え、世界に報道していて、インドネシア軍によって殺された。この5人の消息が絶えた時点で、5人の足跡を追って 事実を報道しようとした、新聞社、「オーストラリアン」の編集記者も、首都デリーで軍によって惨殺された。
バリボ:BALIBOとは、インドネシアと東チモールとの国境の街の名前だ。5人のジャーナリストが殺された現場だ。

監督:ロバート コノリー (ROBERT CONNOLLY)
キャスト
アンソニー ラパグリア ANTHONY LAPAGLIA
(ロジャー イースト:オーストラリアン編集記者)
オスカー アイザック OSCAR ISSAC
(ホセ ラモス ホルタ:東チモール独立政府顧問)
デモン ガメゥ DEMON GAMEAU 
(グレグ シャックルトン:チャンネル7報道官)
ナサン フィリップ NATHAN PHILIPS など

ストーリーは
1975年、バリボの海岸沖は、インドネシア軍の戦艦で埋まっていた。インドネシア軍の上陸と侵攻は、もはや時間の問題と思われていた。空からの独立抵抗軍にむけての爆撃攻撃は すでに始まっていた。国境の街は 空からの攻撃で破壊され 多数の死者が出ており、住民は 次々と避難していた。東チモール独立抵抗軍は、山から下りて果敢にも 強国インドネシア軍と戦っていた。

東チモール独立政府顧問 ホセ ラモス ホルタは、海外からのジャーナリストを呼び寄せて、現状を報道し 世界中の多く人々に 東チモールの窮状を知ってもらおうと奔走していた。彼は オーストラリアから来た「チャンネル7」と、「チャンネル9」の若いクルー5人が 前線の状況を報道するために、組織立てて護衛をつけた。5人は インドネシア軍が 国際法に違反して 隣国を侵略する様子を 映像に捕らえては フイルムを本国に送っていた。バリボの海岸沖を埋める軍艦を撮影し、爆撃された村々の惨状をフイルムの捉えて 避難民にそれを渡して オーストラリアに届けるよう依頼していた。遂に軍は 上陸を開始する。海岸に アリが押し寄せるように 上陸してきた軍を バリボの丘の上から、カメラに収めていた5人は インドネシア軍に追われて、次々と情け容赦なく 惨殺され、フイルムとともに、焼却される。オーストラリアの国旗を描き ジャーナリストであることを明らかにしていたにも関わらず 否、ジャーナリストだったからこそ、彼らは真っ先に軍によって口を封じられたのだった。

テレビクルーから フィルムが届けられなくなって いよいよ5人のジャーナリストが 失踪したことが明らかになった。首都デリの、ホテルを拠点にしていた新聞社「オーストラリアン」の編集記者ロジャー イーストのところに、ホセ ラモス ホルタが現れて 5人の失踪が知らされる。ロジャーは この5人のテレビ局ジャーナリスト達を探しに バリボに行くことを決意する。バリボにたどり着くまでに 空から爆撃を受けて壊滅した村々を通過しなければならない。ロジャーは ジャングルで 空からの機動爆撃に逃げ惑い、侵攻してきた地上軍からも逃れながら、生々しい、5人が殺された家の跡を見る。そして急いでロジャーは デリーに戻り 事の顛末をオーストラリアに送信しようとする。しかし、時すでに遅く デリーはインドネシア軍に包囲されていた。現状を国外に知らせようとして ロジャーは真っ先に連行されて殺される。指名手配されていたホセ ラモス ホルタは国外に東チモール独立政権を樹立するために 辛くも脱走、国外脱出に成功する。

ロジャーが滞在していたホテルオーナーの7歳だった娘が ロジャーが引き立てられ 殺されるまでの ありのままを目撃していた。その後、24年間たって、東チモールが 悲願の独立を果たしたときに、やっと、当時の真相究明のための証人探しがはじまり、この少女が重い口を開くことになる。この少女の証言によって初めて、消息不明だったロジャー イーストの死亡が 死後24年たって明らかになった。
というおはなし。

映画は これで終わるが、5人のジャーナリストの死も、当時の生き残りのレジスタンスの証言などから、やっと明らかになった。しかし、彼らの死に至る詳細は まだわかっていないことも多く、残された5人の家族らは現在も法廷で事実確認の裁判係争中だ。5人の銃殺に、インドネシア軍将校だった スハルト(のちの大統領)が直接 手をくだしたのではないか と言われている。事実、この映画のなかで、両手をあげて、オーストラリアから来た記者です、といっているジャーナリストに向かって 有無を言わさずピストルで撃ち殺した男の役者は 異常にスハルトに似ていた。映画監督もなかなか芸が細かい。

最前線を報道するジャーナリストは 常に危険に身をさらされる職業だ。が、情報と引き換えに 命を失っていった若いジャーナリスト達の死は余りにもむごい。無残だ。
つい最近も チェチェンのジャーナリストで人道活動家だった女性が ロシアのスパイに誘拐されて夫とともに惨殺された。優れたジャーナリストが たくさん たくさん たくさん 死んでいった。数え切れない。

しかし 時として、ジャーナリストの映し出す一枚の写真が 世界を変えてしまうことがある。ベトナム戦争で、ナパーム弾の嵐の中を全裸で火傷を負いながら泣き叫ぶ少女、、、銃殺される瞬間の北べトナム解放戦士、、、中東戦争のときのオイルまみれの海鳥、、、チベットでデモの末 川に浮かぶ仏教僧の遺体、、、ウイグルで自警団に襲われた少女達の写真。一枚の写真が人々の心をゆさぶる。その一枚のために、ジャーナリストは 戦場にむかう。

東チモールは オーストラリア人にとっては とても特別な存在だ。豊かな海底油田の眠っているチモール海を隔てて オーストラリアとチモールは 手を伸ばせば届く距離にある。
1999年の東チモール独立運動のときは、強力なインドネシア軍に毎日毎日 抵抗して殺されていくチモールの人々を見つめながら 歯噛みしながら与野党一体になって 国連軍派遣を 要求し続け、ようやく国連軍派遣が決議されると、いち早くオーストラリアとニュージーランドは鎮圧軍を チモールに派兵した。

その後 独立は してみたものの、次から次へと西側から送られてくるインドネシアの撹乱するための私兵や私服軍人達に 脆弱な生まれたばかりの国は その地位を脅かされてきた。インドネシア軍が引き上げるとき、東チモールの国家基盤 経済基盤の70%を 彼らは破壊していった。再建が、不可能なほどに。
長年インドネシアに抵抗し、20年の懲役刑に服していたシャナナ グスマオは 初代大統領となり、獄中の彼を支えてきたオーストラリア女性 キーステイー スワードは 大統領夫人に。国外で独立運動を推進し、ノーベル平和賞を授与されたホセ ラモス ホルタは 副大統領に。
現在 選挙によってホセ ラモス ホルタが大統領、シャナナ グスマオが首相に選ばれた。2008年には、反乱軍によって、大統領 ホセは銃撃をうけ、一時死亡と報道されたが、ダーウィンで 緊急手術を受け、九死に一生を得た。多難な行く末だ。絶え間ない 政権抗争、経済基盤の脆弱さ、一つの国が独立するということが、いかに大変なことか。

2000年だったと思う。シャナナ グスマオの講演を聴きに行った。シドニー大学の カーペットを敷いた小さな講堂だった。そこでは、彼と、キーステイー スワードとの間に 生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声がときどき聴こえ、あたたかい なごやかな空気に満ちていた。雄弁でない、とつとつとした話し方で、これからの東チモールという新しい国造りへの抱負を語る シャナナは 誠実そのものだった。物静かで なんと謙虚なひとだったろう。子供のときから 強国インドネシアに立ち向かい ゲリラとして武器を取り 長い獄中生活にも負けず 独立を成功させ、建国の基となった人。なんて立派な人。
その人の話を聞きに集まった人たち、シャナナの一挙一動を あたたかく歓迎する人々の かもしだす空気もまた、感動的だった。 静かな拍手を送り、笑いかける人々、シャナナを支持するということが 声高に政治を語ることでも、スローガンを叫ぶことでも、敵を非難することでもなく こんなにも やわらかい空気に満ちた集まりで出会うことなのか と、目のさめる思いだった。政治集会や人権活動家の支援集会 講演会など、学生時代には 限りなく参加したり、主催したりもしたが、このときの シャナナの講演会のような 声高に語る人など一人も居ない あたたかく 優しい 濃密な 大人の集まりには出会ったことがなかった。あの、独特な静かで熱い空気が いつまでも忘れられない。