2009年6月30日火曜日

映画 「恥辱」




映画「ディスグレイス」(恥辱)を観た。
原作:南アフリカ人作家でノーベル文学賞受賞者 クツツエー(J M COETZEE’S)。
監督:ステーブ ヤコブ。
脚本:アンナ マリア モンティセりー(監督の妻)
キャスト:ジョン マルコビッチ (デビッド ローリー教授)      
    ジェシカ ハインツ (娘ルーシー)

ストーリーは
アパルトヘイトが撤廃された 南アフリカが舞台だ。
ケイプタウンで イギリス人大学教授デビッド ローリー52歳は 古典文学を教えている。詩人バイロン 後期の生き方に共鳴していて 自堕落でデカダンな日々に自分の晩年の日々を重ね合わせている。2度の離婚を経て 愛を求める心に変わりはないが 退屈で満たされることのない生活。家に帰れば 趣味の作曲など、嗜んでいる。

ある日、教え子のなかで ひときわ目立つ生徒メラニーを、半ば強引に誘って関係を持つ。メラニーは同僚の大学教授の娘だった。デビッドは関係を継続させようとして、メラニーが授業に出てこなくなっても、来ている様に 出席簿を改ざんする。事態が表面化してきて、当然ながら、学生達からバッシングされる。ついに、大学管理委員会から 召喚されて事情説明を求められるが、バイロン信奉者のデビッドにとっては、ラブ スキャンダルも 姦通罪も 懲戒免職もこわくない。何の未練も 反省も後悔もなく サッサと潔く大学を立ち去ってしまう。

おさまらない学生達からのバッシングに ちょっとだけ傷ついて、デビッドは イースタンケープの田舎で 友達と暮らしているという娘に会いに行く。
行ってみると、予想外に 都会から離れた田舎で 娘のルーシーは たった一人で犬たちと生活していた。ナチュラリストのルーシーは 堆肥を作り、野菜と花を栽培して市場で売って、細々と生計を立てていた。若い娘が一人、無用心な家に、犬の世話をしているアフロアフリカンのぺトラを自由に出入りさせている娘の様子に驚愕したデビッドは、娘が心配で仕方がない。アパルトヘイト撤廃後 南アフリカは無秩序、無警察社会になっていて、田舎でも危険極まりない。にも拘らず、この田舎の人々は 昔のままの生活を維持しているのだった。

そしてデビッドの悪い予感が的中して ある日、3人のアフリカーナのギャングに襲わて暴行される。ルーシーは3人のギャングに輪姦され、デビッドは石油を浴びせられ 火をつけられて半死状態で助けられる。圧倒的多数のアフリカンの国で 僅かに生き残る白人社会。長いアパルトヘイトの歴史の抑圧がなくなったばかりの時期に 白人社会が無事でいることは、難しい。デビッドは必死でルーシーに、離婚して別れたルーシの母親が暮らしているオランダに 行くように忠告する。 しかし、ルーシーは 暴力を受けても、暴力で跳ね返すことも、警察など第3者の介入を求めることも、外国に逃亡することも 拒否する。デビッドの助言や忠告や懇願に、聞く耳をもたず、ナチュラリストとして 自分に与えられた土地で大地を母として、生きていく という。

デビッドは娘が性的に辱められ 自分も暴行されて 初めて、自分が学生に関係を強要したことの罪を知る。そして、心から謝罪するために かつての同僚の家に行き ひざまずいて許しを請う。
ルーシーは 3人のギャングによる輪姦の結果、妊娠する。彼女は それが何の結果だったにしろ、母として命を受けたものを産み育てて その土地で生きて死んで生きたいと言う。
そんな娘を 自分とは考えが違っても、デビッドは父親としてささえて生きていく決意をする。
というストーリー。

テーマは、人種差別、男女間の性暴力、女の自立 など、重い現実の課題すべてを含んでいる。 まず、南アフリカが アパルトヘイトがなくなって、民主化したというきれいごとと同時に 大量の教育を受ける機会のなかったアフリカーナが抑圧から解放され自由になったことによって、力と武器が支配する暴力社会に 一挙に後退したこと。今まで搾取してきた白人大規模農園主が追われたあと、土地問題を政府がコントロールできていないこと。くい止めることの出来ない ジンバブエや 他の内戦から逃れてきた難民、貧困の蔓延、アフリカーナの中での貧富格差の拡大、労働人口の30%がエイズ感染者という現状、こうした中で、南アフリカは 世界一治安の悪い国になった。

力と武器が支配する暴力社会で、人が人たる生き方をするために 何を犠牲にしなければならないのか。 ルーシーは 何年も苦労して作ってきた 唯一の生計である菜園をつぶされ 可愛がってきた人生の伴侶の犬たちを殺され、輪姦され、妊娠させられ、自分を守ろうとした父親を半死の目にあわされた。長年信頼していた作男のぺトラが 3人のギャングを誘導した共犯だった ということも知った。過疎地では警察の力もあてにできない。 それでも 四面楚歌のなかで女ひとり 大地を母として、自分の足で自然とともに生きて行こうとしている。 ものすごいパワー。頑固者、自己満足にもほどがある。 しかし、考えみれば、女にとって安全な場はあるだろうか。あると思うのは幻想にすぎないのではないか。 ルーシーの頑固なまでの自立は、南アフリカの白人の姿そのものではないか。貧しいオランダで食うに食えず アフリカに入植して根っこを張った南アフリカの白人のパワーそのものなのかもしれない。

ルーシーが イングリッシュ テイーを飲みながら 読んでいるのは ディケンズ。それをみて笑うデイビッドは バイロンの詩集を肌身離さず持っている。デイビッドが運転する車では 最大ボリュームの音響で オペラ「ナブコ」のコワイヤーが鳴り響いている。彼もまた自己耽美派の個の強い 南アフリカの白人なのだ。

ルーシー役のジェシカ ハインズも良いが、やはり この映画はジョン マルコビッチのテイストでこそ 成功している。マルコビッチの ひとり舞台のようなものだ。 気の進まないワインの相手をして はっきりと嫌がっている女学生を高級レストランに誘い バイロンを口ずさんで ベッドの強引に引きずり込む嫌味な男の役も マルコビッチがやると 本当にムシズがはしる。大自然の中で 娘の強い生き方に啓発される気の弱い男の役を マルコビッチがやると 本当に哀れで 寂しげで消え入りそうだ。でも娘の生きかたにすこしでも寄り添って生きたいと 心に決めるマルコビッチは 最後には抱きしめてやりたくなる。気弱な男から、極悪人まで 上手に演じ分けることの出来る 稀な 立派な役者だ。
見ごたえのある映画だった。